三
カスパーの畑は、村の西の、ゆるい斜面にあった。
去年まで休ませていた畑に、いまは一面、クローバーが茂っていた。三つ葉の上に、赤い丸い花が、点々と頭を出している。東の畔を越えた先が、ベルタ婆さんの亜麻畑だった。青い小さな花の並ぶ西の端に、赤い花が二十歩ほど食い込んでいた。
当事者は、二人とも畔に来ていた。カスパーは腕を組み、婆さんは牛の綱を握っていた。牛は、境の向こうのクローバーを、名残惜しそうに見ていた。
戸川は挨拶もそこそこに、畔にしゃがみ込んだ。
上着の袖をまくり、婆さんの畑の側に生えたクローバーを、根ごと丁寧に掘り起こした。土を指で払い、根を目の高さに持ち上げて、しばらく黙って見ていた。
マルグリットが、その後ろで帳面を開いて待っていた。
「マカベさん。ちょっと、ここ見てください」
真壁もしゃがんだ。白い細い根に、粟粒ほどの小さな瘤が、いくつもついていた。
「この瘤です。クローバーとか、豆の仲間は、根にこういうのを作る。これが、土を肥やすんです」
「肥やす」
「ええ。ええと」
戸川は、そこで言葉に詰まった。口が、何か言いかけて止まった。それからマルグリットをちらりと見て、苦笑した。
「この国の言葉に、ちょうどいいのがないんですよ。私の国の言葉で言えば一語なんですが、言っても記録されないので、言いません」
マルグリットが、鵞ペンを止めたまま、わずかに眉を寄せた。からかわれたのだと思ったらしい。
「言い直します」戸川は都の言葉で、ゆっくり言った。「この瘤は、空気の中から、麦の育つもとを、少しずつ取り込んで、土に貯める。だからクローバーを育てた畑は、次の年、肥やしを撒かなくても麦がよく穫れる。四年回しの肝は、そこなんです」
ユストが、それを村の言葉に移した。カスパーが、得意げに頷いた。
「空気の中から」と真壁は繰り返した。
「信じられないでしょう。私も、こっちの学者に何度説明しても、半分しか信じてもらえなかった。言葉がないものは、見えないんです」
真壁は、ユストの帳面の、空いたままの欄を思った。この人も、同じ穴の前に立っている。
戸川は立ち上がり、膝の土を払って、今度は亜麻畑のほうへ歩いた。赤い花の入り込んだ西の端と、入り込んでいない東の側を、行ったり来たりして見比べた。
「お婆さん」
ユストが通訳に入った。
「この亜麻、クローバーの生えたところと、生えてないところで、育ちが違いますか」
婆さんは、怪訝な顔で畑を見渡した。それから、渋々といった顔で、何か言った。
「……変わらぬ、と」ユストが訳した。「いや、少し、こちらのほうが背が高いかもしれぬ、と」
婆さんは、自分で言ってから、悔しそうな顔をした。
「でしょうね」戸川は頷いた。「この幅なら、クローバーが亜麻を負かすことはありません。それより、来年ここに麦を蒔いたら、この二十歩だけ、たぶん目に見えて穂が重くなりますよ。お婆さんの畑は、損をしたんじゃない。肥やしを、ただでもらったんです」
ユストが訳した。
婆さんは、口を開けたまま、しばらく動かなかった。
カスパーが、すかさず何か言った。早口だった。真壁にも、半分ほど聞き取れた。
「……では、肥やし代を払え、と」ユストが疲れた声で訳した。「俺のクローバーが婆さんの畑を肥やしたのなら、その分の代を払え、と申しております」
婆さんが、牛の綱を握りしめて言い返した。
「頼んでおらぬ、と」
戸川が、吹き出しかけて、こらえた。
「それと、もう一つ」と彼は言った。今度は真顔だった。「その牛。お婆さん、朝、露のついたクローバーを、たらふく食わせちゃだめですよ」
「なぜです」と真壁が訊いた。
「腹に気が溜まって、膨れるんです。ひどいと、そのまま死ぬ。クローバーは牛にはごちそうなんですが、濡れた若いのを急に食べさせると、危ない。カンパーニュでも、去年、何頭かやられました」
ユストが訳した。婆さんの顔から血の気が引き、牛の首を抱きかかえた。
それから、カスパーをきっと睨んで、何か叫んだ。
「……うちの牛が死んだら、おまえのクローバーのせいだ、牛の代を払え、と」
カスパーが言い返した。食ったのはおまえの牛だ。おまえの畑に生えていたのだ。おまえの畑のものを、おまえの牛が食ったのだ。
婆さんが言い返した。生えていたのはおまえの草だ。
カスパーが言い返した。さっき、風のものだと言ったではないか。
ユストは、訳すのをやめていた。
真壁は、帳面を開いて、鵞ペンを持った。
十五、越境した草による地味の向上。その対価を請求できるか。
十六、越境した草による家畜の損傷。誰が責めを負うか。
十六を書いて、手が止まった。
事実がひとつ明らかになるたびに、争う理由がひとつ増えた。クローバーが損だとわかれば、婆さんが訴える。得だとわかれば、カスパーが訴える。牛に危ないとわかれば、また婆さんが訴える。調べれば調べるほど、正しい答えに近づくのではなく、訴えの種が増えていく。
「研究と同じですね」
戸川が、隣で言った。都の言葉だった。
「調べれば調べるほど、わからないことが増える。論文を一本書くと、次に書かなきゃいけない論文が三本見つかる」
「研究は、それでいいんでしょう」
「ええ。研究は、それでいい」
戸川は、怒鳴り合う二人を眺めていた。それから、真壁の帳面の、十六項目を覗き込んだ。
「でも、隣同士が毎日顔を合わせる畑で、それをやっちゃうと」
真壁は答えなかった。
畔の向こうから、誰かが歩いてくるのが見えた。小柄で、背が曲がっていて、足の速い老人だった。少年を一人、連れている。
「ああ」と真壁は言った。「森の案内役が来ました」
ドルフは畔の手前で立ち止まり、怒鳴り合うカスパーと婆さんを見て、それから、真壁の手の帳面を見て、いつものように何か言った。
ニコが、吹き出した。
ユストは、今度は訳さなかった。訳さなくても、真壁にはもうわかった。
まだやっておるのか、と言ったのだ。




