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第一話 落ち枝は誰のものか

一

 民法第二百四十二条。不動産の所有者は、その不動産に従として付合した物の所有権を取得する。

 山の木は、山の持ち主のものだ。

 真壁恭介は、訴状を半分も読まないうちにそう結論を出し、それから、結論を出した自分に嫌気がさした。二十年も役所で条文と付き合っていると、人の困りごとより先に条番号が浮かぶ。病気のようなものだ。しかもここは日本ではない。

 代官所の書庫は、朝でも薄暗かった。北向きの窓がひとつ、樫の机がひとつ、棚には羊皮紙の束が、誰にも読まれないまま百年ぶんほど積んである。王都からここへ送られて三週間になる。左遷だということは、送り出す側の丁寧すぎる挨拶でわかった。

 無理もない、と思う。

 北のベルク王国が賢者を召喚したのは、十二年前だという。呼び出されたのは炉の技師だった。彼は石炭を蒸し焼きにした燃料で高炉を吹く方法を、この世界の職人たちがすでに掴みかけていたところへ現れ、足りなかった最後の数歩を埋めた。いまベルクの谷には炉が十二基並び、鋳物の鍋と砲身が運河を下って三つの国へ売られている。運河そのものも、彼が引かせた。

 南のカンパーニュが農学者を引き当てたのは、その二年後だ。蕪と牧草を麦のあいだに挟む四年回しの畑を広め、休ませる畑をなくした。麦の穫れ高は五割増え、冬を越せる牛の数は倍になった。去年、アルデンが凶作に苦しんだとき、麦を売ってくれたのはカンパーニュである。値は、向こうが決めた。

 鉄はベルクから買う。麦はカンパーニュから買う。払う銀は、森と羊毛のほかに出どころがない。

 アルデンの宮廷が焦らなかったはずはなかった。魔術師たちは三年がかりで術を組み、国庫の一年ぶんの歳入に近い銀を触媒に溶かし、そうして呼び出したのが、市役所総務課法規係の係長だった。

 火薬の配合を尋ねられた。知らなかった。鉄の作り方を尋ねられた。知らなかった。では何ができるのかと問われ、条例の文言の審査ができますと答えたときの、謁見の間の静けさを、真壁はたぶん一生忘れない。

 嘘ではなかった。市役所に勤めて二十年あまり、税の窓口も、農林の係も、議会事務局も回ったが、最後の六年は総務課の法規係にいた。市の決まりごとは、どれも一度は真壁の机を通った。条例の案が回ってくると、一字ずつ読む。「及び」と「並びに」の使い分けを確かめ、「その他」と「その他の」の違いを確かめ、定義の抜けを探し、ほかの条例とぶつかるところを探す。書いた本人も気づいていない穴を見つけて、赤字を入れる。穴のない文章を書くこと、そして他人の文章の穴を見つけること。それが、真壁の仕事だった。

 ただ、それを異国の王と廷臣たちに、どう説明すればよかったのか。彼らが欲しかったのは鉄と火薬で、文章の穴ではなかった。

 扉が二度、控えめに叩かれた。

「顧問どの。お邪魔をいたします」

 入ってきたのは、黒い僧服の若い男だった。二十代の半ばだろう。痩せていて、右手の中指に、書記に特有の墨の染みがある。

「ハルデン卿の書記を務めております、ユストと申します。卿より、顧問どののご見解を賜りたい件がございまして」

 都の言葉だった。きれいすぎるほどの発音で、あとから習い覚えた人間の話し方だと真壁は思った。自分の標準語も、たぶん同じように聞こえている。

「見解、ですか」

「森のことでございます」

 ユストは革の筒から羊皮紙を一枚抜き、机に広げた。古語で書かれた封土状だった。召喚の術は、真壁にこの言葉を読む力だけは与えてくれた。

 ——地と、その上に立つものすべてを、ハルデンの家に授く。

「ベルクの商人が、木炭を求めて参っております」

「木炭を。あちらは石炭で炉を吹いていると聞きましたが」

「はい。ところが商人の申しますには、石の炭で吹いた鉄は、量は出ても脆いのだそうで。鍋や砲には鋳られても、鍬や刃物にはならぬ。粘りのある鉄は、いまも昔ながらに木の炭で作るほかなく、石の炭の鉄が増えれば増えるほど、木の炭の鉄もそれに合わせて要るのだと」

 ユストは、覚えてきた口上をそのまま述べる調子で言った。

「私には理屈はわかりかねます。ただ、あちらの森はもう、炉の周りから禿げはじめているそうでございます」

 真壁にも理屈はわからなかった。わかったのは、隣の国の炉が増えるかぎり、この注文は減らないということだけだ。

「卿は森の木を炭に焼いて売るおつもりです。ところが村の者どもが、あれは自分らの木だと申しまして」

「村の人が、領主の森の木を」

「はい。枯れ枝や茸、木の実を拾うことは、卿もお許しになるのです。ただ、立っている木は別だと」

 筋は通っている。封土状の文言にも合う。真壁の頭の中で、二百四十二条がもう一度、得意げに顔を出した。

 彼はそれを脇へ押しやった。

「村の方は、何と言っているんです」

 ユストは少し黙った。

「……『かえりぎ』は、わしらが『もって』きた、と」

「かえりぎ」

「村の言葉でございます。都の言葉には、ちょうど当たるものが」

 若い書記は言いさして、指の墨の染みをこすった。

「ございません。古語にも」

 真壁は封土状に目を落とした。そこには「木」という語が、ただ一つあるだけだった。

「もう一つ教えてください。『もってきた』というのは、所有してきた、という意味ですか」

「それが」ユストは困ったように笑った。「持つ、とも、保つ、とも、守りをする、とも取れる言葉でして。村の者は、どれのつもりかと訊いても、同じ言葉を繰り返すばかりで」

 窓の外で、荷車の音がした。

 真壁は帳面を開き、日付を書き、その下に一行だけ記した。

  一、用語の定義が未了。

「ユストさん。その森、歩けますか」

「は」

「私は木の区別がつきません。村の言葉もわからない。でも、見ないで書いた文章がどうなるかは、よく知っているんです」

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