六
書庫の蝋燭は、三本立てた。
ベルトラムは、九十七年前の裁定を机の真ん中に広げ、その横に、マティスの証文を並べた。古い羊皮紙と、新しい羊皮紙。どちらも古語で、どちらも領主の印がある。
ユストは隅の小机で、昼の聞き取りを清書していた。ときどき鵞ペンの音が止まり、また動き出した。
「回答書は、何行まで書けましたか」と法務官が訊いた。
「三行です。三行目は白紙です」
「正直でよろしい」
ベルトラムは椅子の背にもたれ、天井の梁を見た。
「今日のことで、あなたは勝ったと思っておいでか」
「いいえ」
「私もそう思います。今日わかったのは、一人の代書人が、一つの言葉を、悪く使ったということだけだ。それは、代書人を罰すれば済む。俗語で法を書く理由にはならない」
真壁は頷いた。予想していた反論だった。
「では、どうすれば済みますか」
「代書人を、もっとよく育てる。誓いを立てさせ、王都で試験をし、免許を与える。悪く訳した者からは筆を取り上げる。古語の法はそのままに、法と民とのあいだに立つ者を正す」
筋は通っていた。真壁の国にも、似た制度はあった。
「その代書人が正しく訳したかどうかを、誰が確かめるんです」
「法務官府が」
「村の言葉のわからない法務官府が、ですか」
ベルトラムは黙った。昼間、自分がユストに向けた問いが、そのまま返ってきたのだとわかったのだろう。
「今日、マティスさんの証文は、文面だけ見れば完璧でした」と真壁は続けた。「古語は動かない。百年たっても意味が変わらない。それは本当だと思います。でも、マティスさんにとって、あの証文の意味は、紙の上にはなかった。ホルツさんの口の中にあった。口の中のものは、記録に残らない。だから、誰にも検められない」
「……」
「古語の法が安定しているのは、紙の上だけです。読めない人のところへ届くまでの途中で、毎回、記録の残らない訳が挟まっている。安定しているはずの法が、実際には、その場その場の代書人の口に握られている」
ベルトラムは、指で机を一度叩いた。
「では俗語で書けば、それが解決すると? 俗語は谷ひとつ越えれば変わる。あなたの『もつ』も、ローデとハルデンとで同じだったのは、たまたまかもしれない。北の山の村では、まるで違う意味かもしれない」
「かもしれません」
「王国の法は、王国のどこでも同じ意味でなければならない。村ごとに意味が違えば、村ごとに法が違うことになる」
「ですから、古語の正文は残します」
法務官が、顔を向けた。
「廃するつもりはありません。法の本文は古語で書く。王国のどこでも、同じ文面であるために。その代わり、古語に当たる語のない言葉は、音のまま正文に入れて、意味を定義で縛る」
真壁は、九十七年前の羊皮紙を指した。
「この書記がやったように。『もつ』の意味は、谷によって変わるかもしれない。でも、この注に書かれた三つの意味は、九十七年たっても、そのままここにある。ドルフさんが森で言ったことと、一字も違わずに。定義を書いておけば、言葉が動いても、法の意味は動かない」
ベルトラムは、欄外の注を見下ろした。
「そして、正文に俗語の写しを添える」と真壁は続けた。「読めない人には、写しを読み聞かせる。読み聞かせは、代書人一人ではなく、村の側の立会人の前でやる。誰が、どの写しを、どの言葉で読んだか。聞いた人が、どこを確かめたか。それを記録に残して、正文に綴じる」
「手間がかかる」
「かかります。でも、ローデ村の八軒が畑を失う手間と比べて、どうでしょう」
法務官は、答えなかった。
しばらく、ユストの鵞ペンの音だけが聞こえていた。
「もう一つ」とベルトラムは言った。声の調子が変わっていた。「これは、私の考えではありません。私の、上の方々のお考えです。聞いていただけますか」
「はい」
「民が法を読めるようになれば、民は法を疑うようになる。疑われた法は、守られない。ベルクとカンパーニュに遅れを取っているいま、王国が内側から揺らぐ余裕はない」
法務官は、そこで真壁の顔を見た。
「私は、この理屈が間違っているとは、言い切れないのです」
正直な声だった。真壁は、すぐには答えなかった。
それは、正しい恐れだった。彼の国でも、法を知った人は、法に異を唱えた。役所の窓口には、毎日、条文の解釈に納得しない人が来た。その対応に一日を使い果たしたことも、何度もある。
「疑われる法は、守られにくいかもしれません」と、やがて真壁は言った。「でも、疑えない法は、守られているのではなくて、知られていないだけだと思います」
ベルトラムの指が、止まった。
「マティスさんは、自分の証文を疑えなかった。読めなかったから。その結果、法は守られたんでしょうか。証文の文面は守られた。でも、マティスさんが合意したことは、どこにも書かれていなかった」
蝋燭の一本が、音を立てて揺れた。
ベルトラムは長いあいだ黙っていた。それから、ふっと息を吐いて、笑った。疲れた笑いだった。
「顧問どの。あなたは、なぜそこまでこだわるのです。辺境の、村の薪や畑のことに」
「仕事だからです」
「それだけですか」
「……昔、読めない人に、ひどいことをしたことがあるので」
法務官は、それ以上は訊かなかった。代わりに、自分の外套の、繕った袖口を見た。
「私も、ですよ」
真壁が顔を上げると、ベルトラムはもう、別の顔をしていた。
「その話は、帰り際にでも」
法務官は机の上の白紙を一枚引き寄せ、鵞ペンを取った。
「読み聞かせの記録、と言いましたね。書式にしましょう。正文に綴じるなら、正文と同じ古語の書式が要る。法務官府の書式集に、そういう番号はありません。新しく作るしかない」
彼は迷いなく書きはじめた。古語の、整った、王都の書記学校の書き方だった。
——本証文は、何年何月何日、何の地において、何某により、借主の解する言葉をもって読み聞かされたり。立会人何某、これを聞き、借主の問いたる条々を左に記す。
「ユスト君」
隅の小机で、若い書記が顔を上げた。
「これを、村の言葉に移してもらえますか。村の立会人が、自分で読めるように。いや、読めなくても、聞いてわかるように」
ユストは、立ち上がった。真壁を見て、それから、法務官の前に来た。
「お引き受けいたします」
夜明けまでに、二人の書記が、一枚の紙の表と裏に、二つの言葉で同じことを書いた。
真壁はそのあいだ、ほとんど何もしなかった。ときどき、定義の言葉が曖昧なところを指摘するだけだった。
空が白みはじめたころ、ベルトラムが鵞ペンを置いた。
「これは、回答書ではありません」
「はい」
「ハルデン領での試行の提案です。王国の法を変えるものではない。一つの領地で、一つの書式を、試しに使ってみるだけだ」
「それで十分です」
「上の方々は、そうは思わないでしょうな」
法務官は、窓の外の、白んでいく空を見た。
「ですが、書いて持ち帰るのは、私の務めです」




