五
ユストが戻ってきたとき、広間の誰も口をきいていなかった。
若い書記は、巻いた羊皮紙を卿の前の机に置き、紐をほどいて広げた。鼠に齧られた端を、そっと指で押さえた。
「九十七年前、四代前のハルデン卿による裁定でございます。森の薪採りについての」
卿が頷き、法務官に目を向けた。
「ベルトラムどの。古語はあなたのほうが確かだ。読んでくれ」
ベルトラムは立ち上がり、机の前に来た。まず末尾の印を見た。それから書記の手を見た。墨の色と、筆の癖と、行の揃え方を、本文の頭から順に確かめていった。真壁には、それが鑑定だとわかった。
「この書記は、よい教育を受けている」と、法務官はひとり言のように言った。「王都の書記学校の書き方だ。印も本物でしょう」
それから、本文を読んだ。古語の声は、いつもより低かった。
——村の者は、森の木を、もつべし。
そこで止まり、欄外に目を移した。
——書記記す。村の者の申す「もつ」は、古語に当たる語なし。「有す」と書けば卿の権を侵し、「用う」と書けば村の務めを落とす。よって音のままに記し、その意をここに注す。
——一、順を定めて伐ること。二、伐りたる株を養い、芽を獣より守ること。三、時至らざる木、弱りたる木を伐らずに置くこと。この三つを併せて「もつ」と言う。
読み終えても、ベルトラムはしばらく顔を上げなかった。
「『有す』と書けば、卿の権を侵す」
彼はその一句だけを、もう一度繰り返した。
「九十七年前、この領の書記は、村の者の言う『もつ』が、所有のことではないと知っていた。知っていたから、わざわざ古語に訳さず、音のまま書いて、注を付けた」
法務官は、エーベルのほうを向いた。
「そしてこの注は、領主の印つきで、この領の書庫に、いまも残っている」
「百年前の、森の話でしょう」エーベルは、さすがに声の調子を落としていた。「畑の話ではない。それに、たかが荘園の書付です。王国の法ではない」
「その通りです」とベルトラムはあっさり認めた。「これは法ではない。ですが、この土地の言葉で『もつ』が何を指すのかを、古語で書き残した、たぶん唯一の記録です」
彼は、ゆっくりとホルツのほうへ歩いた。
「ホルツ。あなたは、この辺りで何年筆を持っている」
代書人は、床を見たまま答えた。
「……二十と、二年」
「二十二年。そのあいだに、村の者が森や畑を『もつ』と言うのを、何度聞いた」
答えはなかった。
「それを、所有のことだと思って聞いたことが、一度でもあったか」
ホルツの肩が、震えた。
エーベルが一歩前に出た。
「法務官どの。代書人を脅すのは」
「脅してはいません。訊いているだけです」ベルトラムは振り向きもしなかった。「私も、若いころ代書人の見習いをしていた。だから訊いている。ホルツ、あなたは、『もつ』と言えば村の者がどう受け取るか、知っていたな」
長い沈黙があった。
それから、灰色の男は、ほとんど聞き取れない声で言った。都の言葉だった。
「……わしは、言われた通りに書いただけだ」
「誰に」
「言われた通りに、書いた。言われた通りに、読んだ」
「誰に言われた」
ホルツは顔を上げた。初めて、まともに誰かを見た。エーベルではなかった。その背後の、開いた窓の向こうの、どこか遠くを見ているような目だった。
「それは、言えぬ」
かすれた声だった。
「言えば、わしは来年、この国のどこでも筆を持てぬ。女房と、娘が三人いる」
それきり、口を閉じた。
*
ベルトラムは、問いを変えた。今度はエーベルに向かってだった。
「エーベル。去年の凶作の年、あなたはローデ村の七軒か八軒に、それぞれ銀十二枚を貸した。合わせて百枚近い。穀物商が、自分の麦も売れなかった凶作の年に、それだけの銀をどこで都合した」
「商売の中身は、申せません」
グレーフェと同じ答えだ、と真壁は思った。ただ、グレーフェの声には、こういう汗はなかった。
卿が、低く言った。
「申せ。わしの領地の畑の話だ」
エーベルは、卿と法務官を見比べた。それから、観念したように、しかし妙に誇らしげに言った。
「融通してくださった方がおります。さる伯爵家の、荘園の管理人どのが。凶作で困っている村を助けるために、と」
「どこの伯爵家だ」
「それは、管理人どのに直にお訊きください。私はただの穀物商ですので」
入口の長椅子で、ローデ村の男の一人が、急に身を乗り出した。ユストに向かって、早口で何か言った。
「何と」と真壁が訊いた。
「去年の夏、凶作の始まる前に、見知らぬ男が馬で来て、川下の畑に鎖を張って長さを測っていった、と。村の者が何をしているのかと訊くと、王の測量だと言った。ですが、王の測量なら、代官所に知らせがあるはずです」
ユストは卿を見た。卿は、首を横に振った。
知らせは、なかった。
真壁は、自分の帳面を開いた。何を書けばいいのか、一瞬わからなかった。
一、「もつ」の多義を利用した担保条項の伝達。
二、代書人は「言われた通り」。指示者不明。
三、資金の出どころ、さる伯爵家の荘園管理人。
四、凶作の前に、畑が測られていた。
四行目を書いて、ペンが止まった。
凶作の前に。
卿が立ち上がった。
「今日はここまでとする。裁きは明日だ。エーベル、ホルツ、ローデの者たち、いずれも町へ戻らず、この館に留まれ。宿は用意させる」
広間から人が出ていくあいだ、ベルトラムは机の前を動かなかった。
九十七年前の羊皮紙を、指で押さえたまま、欄外の注を見下ろしていた。
「顧問どの」
「はい」
「今夜、この裁定を、お借りしてもよろしいか」
真壁はユストを見た。ユストが、卿を見た。卿は、扉のところで振り返り、短く頷いた。
「ご自由に。ただし、書庫から持ち出さずに。私も行きます」
法務官は、羊皮紙を丁寧に巻き直した。いつかユストがそうしたのと、同じ手つきだった。




