四
エーベルとホルツは、翌日の昼に来た。
エーベルは、肉づきのよい五十がらみの男だった。毛皮の縁取りのある外套を着て、都の言葉を、町の商人らしい訛りで滑らかに話した。ハルデン卿の呼び出しには恐縮してみせたが、法務官がいると知ると、むしろ機嫌がよくなった。
「王都の法務官どのが立ち会ってくださるなら、話は早い。証文は証文です。私は書いてある通りのことしか求めておりません」
代書人のホルツは、その後ろに影のように立っていた。四十ほどの、灰色の男だった。目が、ずっと床を見ていた。
卿は広間の上座に座り、真壁とベルトラムがその両脇に、ユストが記録の机についた。マティスは、入口近くの長椅子に、ローデ村の男を二人連れて座っていた。同じくエーベルから金を借りた家の者だという。
「ホルツ」と卿が言った。「法務官どのの求めだ。マティスに証文を読み聞かせたときと同じように、いまここで、もう一度読め。同じ言葉でだ」
ホルツは顔を上げ、エーベルを見た。エーベルは鷹揚に頷いた。
「読んで差し上げろ。何も隠すことはない」
代書人は証文を受け取り、まず古語で一度、型どおりに読み上げた。それから、マティスのほうを向いて、村の言葉で話しはじめた。
真壁には、三割もわからなかった。銀、十二、聖マルタン、麦。それくらいだった。
ベルトラムは、まったくわからないはずだった。真壁は横目で法務官を見た。ベルトラムは背筋を伸ばし、ホルツの口元と、マティスの顔と、ユストの手元を、順に見ていた。
ホルツの話は、古語の本文より短かった。
途中で一か所、マティスが小さく頷いた。後ろの村の男たちも頷いた。それから一か所、ローデ村の男の一人が、隣の男に何か囁き、二人で短く笑った。ホルツの声が、わずかに上ずった。
ベルトラムだけが、何が可笑しいのかわからずにいた。
読み終えると、エーベルが両手を広げた。
「いかがです。何も変わったところはない。私はいつもこの通りに読ませております」
卿がユストを見た。
「書記。どうだ」
ユストは鵞ペンを置いた。立ち上がり、まず卿に一礼し、それから法務官のほうを向いた。
「ほとんど、本文の通りでございました。銀十二枚、聖マルタンの日、全額。一か所を除いて」
「どこだ」
「担保の条でございます。古語の本文は、畑三枚をエーベルの所有に移す、とあります。ホルツどのは、これを村の言葉で、こう申しました」
ユストは、一語ずつ区切って言った。真壁の耳にも、その音は覚えがあった。
「『エーベルが、川下の畑三枚を、もつ』」
真壁は息を呑んだ。
「この辺りの村で、畑や森を『もつ』と申すときは、所有するという意味ではございません。手を入れ、穫り入れ、伐らずに置く。使って、世話をする、という意味でございます。マティスは、これを聞いて、払えぬときは一年か二年、エーベルに川下の畑の麦を穫らせればよい、と受け取った。この辺りでは、借りを畑の穫れ高で返すのは、よくあることでございますので」
マティスが、ユストの訳す村の言葉を聞いて、激しく頷いた。後ろの二人も頷いた。
「先ほど村の者が笑ったのは」とユストは続けた。「ホルツどのの『もつ』の言い方が、町の者の訛りで、少しおかしかったからでございます」
エーベルの顔が赤くなった。
「言いがかりだ。ホルツは古語を村の言葉に移しただけだ。言葉の受け取り方まで、こちらの責めにされてはたまらない」
「それは一理あります」と真壁は言った。本心だった。「ホルツさんは、嘘はついていないのかもしれない。『もつ』は、確かに村の言葉です。ただ、その一語で、所有のことを伝えたつもりだったのか、それとも」
真壁はそこで止めた。続きは、言う必要がなかった。
ベルトラムが、口を開いた。
「書記どの」
「はい」
「あなたの訳が正しいと、私はどうやって確かめればいいのです」
広間が静かになった。
責める声ではなかった。本当に、方法を訊いている声だった。
「私は村の言葉がわかりません。ホルツが何と言ったのかも、あなたがそれをどう訳したのかも、私には確かめようがない。あなたがエーベルの側に立っていれば、別の訳をしたかもしれない。あなたがマティスの側に立っていれば」
「確かめようは、ございません」とユストは言った。静かな声だった。「ここにいる、村の言葉のわかる者に訊いていただくほかは」
ベルトラムは、ローデ村の男たちを見た。それから、エーベルを見た。エーベルも町の者だ。村の言葉は、たぶん半分しかわからない。
法務官は、長いあいだ黙っていた。
「……なるほど」
やがて、ひとり言のように言った。
「これが、読めないということか」
真壁は、法務官の横顔を見ていた。古語なら王国の誰より読める男が、一語の村の言葉の前で、手も足も出ずにいた。ハルデンの森で、自分がそうだったように。
「一つ、確かめる方法があります」と真壁は言った。
ベルトラムが顔を向けた。
「ユストさん。九十七年前の裁定を、持ってきてもらえますか。欄外の注も」
ユストの目が、わずかに見開かれた。それから、黙って席を立った。
真壁は法務官に向き直った。
「『もつ』という村の言葉が、この辺りで何を意味するのか。それを、ちょうど百年ほど前に、古語で書き残した人がいるんです。ハルデン卿の、高祖父さまの書記が。領主の印つきで」
ベルトラムは、何も言わなかった。
ただ、エーベルの背後で、ホルツの手が、細かく震えはじめていた。




