二
ローデ村の男は、マティスと名乗った。
三十半ばの、日焼けした男だった。帽子を両手で握りつぶし、書庫の入口から先へ入ろうとしない。羊皮紙の棚に囲まれた部屋が、彼には裁きの場そのものに見えているらしかった。
ユストが村の言葉で何か言い、椅子を指した。男は首を振り、立ったまま喋りはじめた。
速かった。真壁に拾えたのは、「麦」と「畑」と、それから何度も繰り返される一語だけだった。ユストの顔を見ると、彼は小さく頷いた。
「『聞いておらぬ』と申しております。ずっと、それを」
「最初から、ゆっくり訳してください。全部」
ユストは男をなだめ、問いを重ね、話を一つずつ解いていった。
「去年の凶作で、種籾を食べてしまったそうです。春に蒔くものがなかった。それで、町の穀物商のエーベルという者から、種籾の代を借りた。収穫で返す約束で」
「いくら」
「銀で十二枚。秋の麦で返せばよい、と言われたそうです。証文を作るから、と町のエーベルの家へ呼ばれ、代書人が古語の証文を読み上げた。マティスは、種籾の代を麦で返す、という話だと聞いた。それで、拇印を」
男が懐から、折り畳んだ羊皮紙を出しかけて、また握りしめた。手放したくないのだ。
「今年の麦は、並だったそうです。十二枚ぶんには少し足りない。それで、八枚ぶんを持ってエーベルのところへ行き、残りは来年に、と頼んだ。この辺りでは、それが普通だそうで」
「エーベルは」
ユストが訊ねた。男の声が、急に高くなった。
「……証文には、聖マルタンの日までに全額を返せぬときは、川下の畑三枚を代わりに渡す、と書いてある。だから畑をもらう、と」
男は、また同じ一語を叫んだ。今度は真壁にもわかった。
聞いておらぬ。
「畑の話は、一言も聞いておらぬ。種籾の代のために、畑を賭けるような者がどこにいる。あの三枚は、親父の、その親父の代から」
ユストはそこで訳すのをやめた。男が泣いていたからだった。
*
ベルトラムは、窓際の椅子に座ったまま、一言も挟まずに聞いていた。
村の言葉は、彼にもまったくわからないはずだった。それでも、ユストの訳を聞くたびに、視線を男とユストのあいだで往復させていた。訳の長さと、話の長さを比べている、と真壁は思った。自分も、ハルデンの森でやったことだ。
「なぜ、ここへ来たのです」と、真壁は訊いた。「ローデ村も、ハルデン卿のご領地でしょう。訴えるなら、町の代官のところでもよかったはずだ」
ユストが訳した。男は少し迷い、それから、思いもかけないことを言った。
「ハルデンの森の村では、紙が村の言葉で読まれた、と聞いた、と」
真壁は、ユストを見た。ユストも真壁を見ていた。
「町の市で、ハルデンの者が話していたそうです。卿と村とで取り決めを作り、坊さまが村の言葉で読み上げた。村の者が、一条ずつ聞いて、手を挙げて決めた。それなら、ここへ行けば、自分の証文にも何と書いてあるのか、ほんとうのところを聞かせてもらえるのではないか、と」
男は帽子を握ったまま、真壁に向かって頭を下げた。深く。
真壁は、返事に困った。取り決めの写しは、頼んでもいない隣村にまで話として届いていた。それが、こういう形で戻ってくるとは思っていなかった。
「それから」ユストが付け足した。声が低くなっていた。「エーベルから借りたのは、ローデ村で自分だけではない、と。去年の凶作で、七軒か八軒が。皆、同じように町の家へ呼ばれ、同じ代書人に読んでもらい、拇印を捺した」
窓際で、ベルトラムが静かに身じろぎした。
「八軒」と彼は言った。初めての発言だった。「全部、畑を担保に?」
ユストが問い、男が答えた。
「わからない、と。皆、自分の証文に何が書いてあるのか、知らないので」
書庫が静かになった。
真壁は法務官の顔を見た。ベルトラムは真壁を見ていなかった。男の手の中の、折り畳まれた羊皮紙を見ていた。
「これは、ハルデン卿の裁きにかかるべき件です」と真壁は言った。「私は顧問で、裁く立場にありません。ただ、卿にお諮りする前に、証文を検めることはできる。ベルトラムさん」
「何です」
「ご一緒に、読んでいただけますか。古語の証文です。あなたが読めば、誰も文句は言えない」
法務官は、しばらく黙っていた。
それから立ち上がり、外套の裾を払って、男の前まで歩いた。腰をかがめ、目の高さを合わせた。そして、都の言葉で、ゆっくりと言った。
「その紙を、見せてくれないか」
男にはわからなかった。ユストが訳しかけた。
その前に、マティスは、震える手で羊皮紙を差し出していた。言葉ではなく、法務官の擦り切れた袖口を見て、渡す気になったように、真壁には見えた。




