第二話 読めない証文
一
回答書は、二週間たっても三行から先へ進まなかった。
一、照会の件につき、以下のとおり回答する。
二、俗語により作成された文書の効力は、
三、
真壁は鵞ペンを置いた。
効力は、と書いて、その先に何を書けばいいのか。有効である、と書けば、根拠を問われる。無効ではない、と書けば、逃げたと思われる。条件付きで有効、と書けば、その条件を一つずつ詰められる。どれを選んでも、返ってくる次の書状が目に見えた。
例規審査の机でも、こういう照会には覚えがあった。抽象的な問いに、抽象的に答えてはいけない。具体的な一件を示して、その一件についてだけ答える。そうでなければ、言葉が言葉を呼んで、どこにも着地しない。
問題は、その一件がまだ無いことだった。
扉が叩かれた。二度ではなく、三度。せわしなかった。
「顧問どの」
ユストの顔が、いつもより白かった。
「法務官府から、お人が。照会状の主が、ご自身でお見えです」
*
ベルトラムは、思っていたより若くなかった。
五十の手前だろう。痩せて、背が少し曲がっている。黒い外套は上等な羅紗だが、袖口が擦り切れて、丁寧に繕ってあった。従者は一人。乗ってきたのは、馬車ではなく、駅馬車の乗り継ぎで最後に雇った荷車だという。
右手の中指に、墨の染みがあった。ユストのものより深く、古い。
法務官は書庫に入ると、挨拶より先に棚を見回した。それから真壁に向き直り、口を開いた。
古語だった。
——顧問どのに、問う。汝は、いずれの法を学びしや。
試されている、と真壁は思った。召喚の術がくれた力は、考えるより先に口を動かした。
——遠き国の法を。この国の法は、いまだ学びの途上なり。
ベルトラムの眉が、わずかに上がった。
「……召喚の術は、古語をくれたのですか」
今度は都の言葉だった。
「読み書きと、話すことだけは。中身はついてきませんでしたが」
「私は、十年かかりました」
それだけ言って、法務官は机の前の椅子に、勧められる前に腰を下ろした。無礼というより、長旅で疲れた人の座り方だった。
「件の文書を、拝見できますか。俗語のほうを」
ユストが、村の言葉の写しを差し出した。ベルトラムはそれを受け取り、目を落とし、長いこと動かなかった。
やがて、紙を机に置いた。
「読めません」
淡々とした声だった。
「文字は都の文字だ。ですが、言葉が分からない。かえり、何と読むのです、これは。もつ、とは何を持つのです。王国の法務官である私が読めない文書を、法と呼べますか」
「古語で書かれた証文を、村の人は読めません」と真壁は言った。
「だから代書人がいるのです」
即答だった。何度も、誰かに言ってきた答えなのだろう。
「法は、読める者が読み、読めぬ者に伝える。古語は百年たっても意味が変わらない。俗語は谷ひとつ越えれば違う。あなたの文書は、この村では法かもしれない。ですが、隣の村では何になります?」
真壁は答えようとして、やめた。正しい問いだった。隣の村では、たぶん、何にもならない。
ベルトラムは、繕った袖口をなでた。
「誤解なさらないでください、顧問どの。私はあなたを咎めに来たのではありません。正直に申し上げると、あの照会は、私の発案ではない」
「では、どなたの」
「長官閣下の、さらに上からのお指図です」
それ以上は言わなかった。言えない、という顔だった。
「私が自分で来たのは、書状では埒があかないと思ったからです。あなたの回答を待てば、あなたは理屈を書いてくる。私はそれに理屈で返す。それを三度繰り返せば、春になります」
真壁は、机の上の三行しかない回答書を、そっと裏返した。
「同じことを考えていました」
「でしょうね」法務官は初めて、少しだけ笑った。「法律家というのは、どこの国でも同じ顔をしている」
そのとき、階下が騒がしくなった。
誰かが、門番と言い争っている。村の言葉だった。真壁には一語も聞き取れなかったが、ユストの顔色が変わった。
「隣の、ローデ村の者です。代官所に、訴えたいことがあると。証文を、握っております」
ベルトラムが、椅子から体を起こした。
「証文、と」
「古語の、借金の証文でございます。畑を取られる、と申しております」
真壁と法務官は、顔を見合わせた。
一件が、向こうから来た。




