九
寄り合いは、村の楡の木の下で開かれた。
四十二戸から、ほとんど全部の家が来ていた。男たちは前に、女たちは後ろに、子どもは木に登っていた。卿は椅子を断り、村の者と同じ丸太に腰を下ろした。グレーフェは少し離れて、荷車の轅にもたれている。
ユストは三通の文書を持って立った。古語の正文。都の言葉の写し。それから、村の言葉の写し。
彼は卿を見た。
「読み上げるのは、こちらでよろしいですか」
手にしているのは三通目だった。卿は頷いた。
ユストは読みはじめた。
真壁には、三割しかわからなかった。それでも、どこを読んでいるかはわかった。自分で枠を書いた文章だ。一条、森の地。二条、のこしぎ。三条で、ユストの声が少しゆっくりになった。
かえりぎ、という語が出たとき、前列の男たちが顔を見合わせた。もつ、という語が出たとき、ざわめきが起きた。
紙に書かれた自分たちの言葉を、彼らは初めて聞いたのだった。
真壁は内容を追うのをやめ、顔を見ていた。議会事務局にいたころの癖だ。誰が頷き、誰が腕を組み、誰が隣をつつくか。
ドルフは目を閉じて聞いていた。後ろのほうで、赤子を抱いた女が、七たな、のところで口を押さえた。
そして六条で、若い男たちの一団が、はっきりと顔をしかめた。
読み終えると、すぐに声が上がった。二十歳ばかりの、肩の張った若者だった。早口で、真壁には一語も拾えなかった。
「何と」
ユストは、今度は迷わなかった。
「これまでは、足りなければ伐った。誰に断ることもなかった。それがこれからは、印のついた株の内側しか伐れず、聖マルタンの日に薪の山を数えられる。卿の炭のために、俺たちの森に線が引かれた。これのどこが、俺たちの得なのか、と」
卿の肩が動いた。真壁は小さく首を振った。答えるのは、卿でも自分でもないほうがいい。
ドルフが立ち上がった。
老人は若者のほうを向き、いつもの調子で喋りはじめた。長かった。途中で一度、楡の木の上の子どもたちを指さし、一度、荷車のそばの商人を指さした。
「線は、前からあった、と申しております」ユストが小声で訳した。「わしの頭の中に。おまえの親父の頭の中にも。だが親父は三年前に死んで、おまえは北の谷の境を、もう半分しか知らぬ。炭に値がついた。値がついたものは、線がなければ、強い者が全部取る。卿が取らずとも、いずれ誰かが取る、と」
若者は言い返した。短く、鋭く。
ユストは一瞬、口ごもった。
「……それでも、昔のほうがよかった、と」
老人は頷いた。否まなかった。
「そうだ、と申しております。昔のほうがよかった。だが昔は、もう来ぬ、と」
若者は黙った。納得した顔ではなかった。腕を組んだまま、座った。
真壁は、その顔を覚えておこうと思った。
採決は、手を挙げて行われた。四十二戸のうち、三十六。若者の一団は、最後まで手を挙げなかった。
*
署名は、楡の根もとに据えた樽の上でした。
卿が印を捺した。グレーフェが、別の一通に名を書いた。それからドルフが、鵞ペンを不器用に握り、三通すべてに、ゆっくりと絵を描いた。
切り株から、芽が伸びている絵だった。
ユストが息を呑んだ。卿が覗き込み、怪訝な顔をした。
「何だ、それは」
「家の印でございます」ユストの声は掠れていた。「九十七年前の裁定に、同じものが」
老人は訳を聞き、当たり前だという顔で何か言った。
「じいさまのじいさまも、これを描いた、と。わしも親父に習った、と」
それから老人は鵞ペンを孫に渡した。少年は目を丸くした。祖父が顎で紙を示す。少年は樽にかじりつくようにして、祖父の印の横に、小さく、同じ絵を描いた。
少し歪んでいた。
真壁は、自分の帳面の絵よりはうまい、と思った。
証人の欄が、最後に残った。ユストがペンを差し出した。
「顧問どの」
真壁恭介は、名前を書いた。この国の文字で。それから少し考えて、その下に、漢字でもう一度書いた。誰にも読めない四文字だった。
顔を上げると、ドルフがこちらを見ていた。
真壁は、この三日、口の中で何度も練習した言葉を言った。村の言葉で。
「粥を、ありがとう」
一瞬の間があった。
それから楡の下が、どっと沸いた。木の上の子どもたちが枝を揺すって笑い、女たちが袖で口を覆い、腕を組んでいた若者までが、横を向いて肩を震わせた。
「……何か、間違えましたか」
「いえ」ユストは涙を拭いていた。「合っております。ただ、その、発音が。粥、ではなく、『濡れた犬』と」
ドルフが寄ってきて、真壁の肩を叩いた。それから、ゆっくり、一音ずつ区切って、正しい音を言ってみせた。孫に教えるときと、同じ顔で。
真壁は繰り返した。
老人は首を振り、もう一度言った。
*
帰り道は、ユストと二人だった。
卿は館へ戻り、商人は前渡しの銀の手配に発った。馬二頭は、来週、王都へ引かれていくという。
「うまくいったので、ございましょうか」
「わかりません」
真壁は正直に言った。
「卿は狩り場を失った。商人は欲しい量の半分も得ていない。村は、勝手に入れた森に線を引かれた。六戸は反対のままです。全員が、少しずつ損をしました」
「……はい」
「昔、同じようなものを書いたことがあるんです。文言は完璧で、誰も反対しなかった。施行されたら、想定していなかった人が一人、困った。その人は反対しなかったんじゃない。読めなかっただけでした」
ユストは黙って聞いていた。
「今日は、六戸が反対しました。読めたから、反対できた。それだけは、前よりましだと思うことにします」
代官所の屋根が見えてきた。
門のところに、見慣れない馬が繋いであった。鞍に、王都の紋がついている。
書庫の机の上に、封蝋のかかった書状が置かれていた。宛名は、アルデン王国顧問、真壁恭介殿。差出人は、宮廷法務官府。
古語だった。読む力は、何の苦もなく意味を返してきた。
——貴殿がハルデン領において、俗語をもって文書を作成せしめたる由、聞き及ぶ。ついては照会す。俗語にて記されたる文書に、いかなる効力ありや。法は古語をもって記すべきこと、建国以来の定めなり。
——回答を、三十日以内に求む。
真壁は書状を置いた。
帳面を開き、新しい頁に日付を書いた。
一、照会への回答。期限三十日。
その下に、少し考えてから、もう一行。
二、先例を当たる。
「ユストさん」
「はい」
「九十七年前の裁定は、古語の正文に、村の言葉が一語、入っていましたね」
若い書記は、ゆっくりと顔を上げた。
「領主の印が、捺してありました」
「ええ。建国以来の定め、だそうですが」
真壁は棚を見上げた。誰にも読まれないまま積まれた、百年ぶんの羊皮紙。
「ほかにも、あると思いますか」
ユストは答えなかった。僧服の袖をまくり、梯子に手をかけた。
〈第一話 了〉




