第8話 追跡不能
第8話 追跡不能
八月の札幌は、曇っていた。
朝から湿った灰色の雲が低く垂れ込み、空気は重い。蝉の声すらどこか遠く、街全体が濡れた布の中へ包まれているようだった。
秋山恒一は、北海道警察本部の前に立っていた。
白いワイシャツは皺だらけで、ネクタイは曲がっている。数日まともに眠っていない目は赤く充血し、頬は痩けていた。
スマートフォンを握る手だけが、異様に強張っている。
何度確認しても、凜のアカウントは消えたままだった。
サイトもない。
十億円もない。
ただ、送金履歴だけが残っている。
四億六百万円。
その数字を見るたび、現実感が消えた。
受付を済ませ、秋山は無機質な会議室へ通された。蛍光灯の白い光。古い机。冷えすぎた空調。コーヒーの残り香。
向かいに座った女刑事は、黒髪を後ろで束ねていた。
「久我です」
静かな声だった。
四十代くらいだろうか。疲れた目をしているが、視線だけは鋭い。
「まず確認します。相手とは実際に会っていませんね?」
秋山は小さく頷いた。
「……はい」
「通話は?」
「何回か」
「映像通話は?」
「……ないです」
久我はメモを取りながら言う。
「典型的なSNS型投資詐欺です」
その瞬間、秋山の表情が歪んだ。
「違う」
「秋山さん」
「違うんだ!」
思わず声が大きくなる。
「凜はそんな人じゃ――」
「凜という人物は存在していない可能性が高いです」
久我の声は冷静だった。
感情がないほど冷静だった。
秋山は言葉を失う。
「送金先口座は?」
「……全部、日本人名義でした」
「口座売買です」
「?」
「他人名義口座を使い捨てにしている」
久我はタブレット画面を見せる。
「送金後、資金は数分以内に別口座へ移動。さらに海外へ送金されています」
秋山は画面を見つめた。
矢印。
数字。
知らない銀行名。
知らない国。
「その後、暗号資産へ変換」
「……」
「さらにミキシング処理されています」
「ミキシング?」
「資金の流れを分からなくする技術です」
秋山は理解できなかった。
いや、理解したくなかった。
「待ってくれ」
声が掠れる。
「四億が……消えた?」
久我は少しだけ視線を落とした。
「現状、追跡は極めて困難です」
「そんな……」
「詐欺グループは海外拠点を転々としています。カンボジア、ミャンマー、ラオス――」
「そんな話じゃない!」
秋山は机を叩いた。
鈍い音。
久我は瞬き一つしない。
「金はどこ行ったんだ!」
「分かりません」
「取り戻せないのか!?」
沈黙。
冷房の音だけが響く。
久我は静かに言った。
「正直に言います」
秋山の呼吸が止まる。
「回収できる可能性は、ほぼありません」
世界の音が消えた。
秋山は口を開いたまま動けない。
窓の外では、雨が降り始めていた。
警察を出たあと、秋山はしばらく歩いた。
どこを歩いているのか分からない。
札幌駅前。
信号。
人混み。
全部ぼやけている。
腹が減っているはずなのに感覚がない。
気づくと、古いラーメン屋へ入っていた。
「いらっしゃい」
店主の声。
カウンター席。
豚骨スープの濃い匂い。
熱気。
秋山は味噌ラーメンを頼んだ。
運ばれてきた丼から湯気が立ち上る。
チャーシュー。
メンマ。
コーン。
だが箸を持つ手が動かない。
スマホを見る。
凜とのトーク履歴。
『私、あなたと会いたい』
『終わったら全部楽になる』
『私は味方』
秋山の喉が震える。
「……嘘だったのか」
隣席の男が怪訝そうに見る。
秋山は慌てて俯いた。
ラーメンを一口すする。
味がしない。
熱いだけだった。
翌日。
秋山は紹介された弁護士事務所へいた。
小さなオフィス。
本棚には法律書が並び、エアコンの風が紙の匂いを運んでいる。
若い弁護士が書類を見ながら言った。
「被害額は……四億六百万円ですか」
「……はい」
「かなり大規模ですね」
秋山は縋るように前のめりになる。
「訴えれば戻りますか」
弁護士はすぐ答えなかった。
その沈黙だけで、秋山には分かってしまった。
「現実的に言えば」
弁護士は静かに眼鏡を外した。
「回収は不可能に近いです」
秋山は動けない。
「海外組織ですし、口座も既に閉鎖されている可能性が高い」
「でも警察は――」
「警察もすぐには動けません」
「そんな……」
「被害者の方は皆さん同じことをおっしゃいます」
秋山は俯いた。
被害者。
その言葉が胸へ刺さる。
自分は騙されたのか。
本当に。
凜は。
全部。
嘘だったのか。
帰宅すると、部屋は暗かった。
以前は帰宅すると真っ先にスマホを確認していた。
今は、通知が鳴らない。
永遠に。
冷蔵庫を開ける。
何もない。
水だけ飲む。
窓の外では、夏の雨が街灯に照らされていた。
秋山はソファへ座り、スマホを開く。
凜のアカウント。
灰色の初期アイコン。
存在しないユーザー。
秋山は画面を撫でる。
「なあ……」
返事はない。
「一回くらい……本当だったろ……?」
部屋には冷房の音だけが流れていた。
秋山はそこで初めて、自分の人生が本当に壊れたことを理解し始めていた。




