最終話 復讐の終演
直斗は血がにじむほど唇を強く噛み締め、ズボンの両ポケットに密かに手を入れた。
そこには、学校へ向かう途中の暗がりで、護身用にと拾っておいたテニスボールくらいの石が二つ、隠し持ってあった。
体格差は歴然でかなわない。
これで奴の顔面を打ち抜き、怯んだ隙に踊りかかってぶん殴る。
それしかない。
「亜季、直斗が逃げないよう、入り口の鉄扉を見張っとけよ」
「はーい」
田中の指示に、亜季が軽い足取りで直斗の横を通り過ぎ、背後の扉へと向かう。
お前なんかから逃げやしない――
そう思ったその瞬間だった。
すれ違いざま、ほんの一瞬だけ、直斗と亜季の視線が交錯した。
亜季の黒い瞳の奥に、先ほどまでの甘ったるい狂気とはまったく違う、鋭く冷たい――絶対零度のような「意志」の光が宿っているのを、直斗は見逃さなかった。
何かを告げるような、強い眼差し。
え……?
亜季、お前、もしや……!
その直後、田中が地を蹴った。
大柄な体躯からは想像もつかない滑らかで俊敏なステップ。一気に距離が縮まる。
殺られてたまるか――!
直斗はポケットから石を一つ掴み出し、渾身の力で投げつけた。
「無駄だよ!」
田中は顔を僅かに逸らし、飛来した石をあっさりと避けた。石は空を切り、屋上のフェンスの向こうの闇へと消えていく。
間合いが完全に詰まる。田中の長い手が、直斗の首筋へ向かって万力のように伸びてくる。
直斗はもう一つの石を握り直し、ステップを踏み込んできた田中の顔面めがけて、至近距離からゼロ距離射撃のように叩きつけた。
「ぐっ……!?」
鈍い音が響いた。
二発目の石は、田中の額のど真ん中に見事に命中した。
田中は予想外の痛撃に顔を歪め、思わず額を押さえて立ち止まる。
(いける! いまだ!)
直斗は背後の亜季にむかって、目配せした。
次の瞬間、怯んだ田中にタックルを仕掛けようと、体を沈み込ませた。
そして、直斗が飛び掛かるのと同時に――
バチバチバチッ!!
雷鳴のような、空気を切り裂く鋭い破裂音が屋上に鳴り響いた。
直斗の目の前で、田中の体が文字通り跳ね上がった。
「あ、いてっ……ぁぁぁっ!?」
白目を剥き、全身を激しく痙攣させながら、田中はまるで糸の切れた操り人形のようにコンクリートの床に崩れ落ちた。ドサリという重い音が響く。
うずくまり、抵抗することもできない田中の体を、直斗がつかむ。
その後ろには、青白い放電の光を顔の下から浴びた亜季が、氷のように冷たい目をして立っていた。
手には、黒く小型のスタンガンが握られている。
「先輩! 大丈夫ですから、ちょっと離れてください。――これでもくらえ。お姉ちゃんの、そして私の分だ、このヘンタイ殺人鬼!」
――バチッ! バチバチッ!
亜季は一切の感情を交えず、倒れ伏す田中の背中に、何度も、何度もスタンガンの電極を押し当てた。そのたびに田中の体がカエルのように無様に跳ね回る。
先ほどまでの狂った共犯者の演技は微塵もない。そこにいた亜季は、真犯人を地獄へ突き落とす機会をじっと窺っていた、冷徹な復讐者の姿だった。
「亜季……!」
「いいタイミングです! さすがは先輩、息がピッタリでしたね!」
やや呆気にとられる直斗をよそに、亜季はふう、と息を吐いてスタンガンのスイッチを切った。
亜季は田中に寝返ってなどいなかった。この絶体絶命の状況を打開するため、直斗ですら完全に欺く完璧な小悪魔を演じきり、田中が勝利を確信して警戒を解き、背中を見せるその一瞬を狙っていたのだ。
「許さねえ……! よくも麻衣と武を!」
うずくまる田中を見て、直斗の中で、恐怖で抑え込んでいた怒りのマグマが爆発した。
田中の背に馬乗りになり、その小綺麗な顔面を思い切り殴りつけようと拳を高く振り上げる。
こいつだけは絶対に許せない、絶対に俺の手で――!
だが、振り下ろそうとした直斗の腕を、亜季が横からあっさりと掴んで止めた。
「いいですよ、もう」
亜季の声は、拍子抜けするほど静かで、平坦だった。
「こんなゴミのために、先輩が手を汚す必要ないです。三人も殺したうえに、私たちへの殺人未遂。どうせ行き着く先は死刑台ですよ」
「でも……! こいつは麻衣を……!」
「わかってます。だからこそ、生かして絶望させるんです。エリート気取りのこの男が、一番惨めな姿で裁かれるのを見届けてやりましょう」
亜季はさらっと恐ろしく、しかしぐうの音も出ない正論を口にしながら、リュックから取り出した数本の太い結束バンドを直斗に差し出した。
「ほら、暴れ出さないように、手と足をきっちり縛ってください。あとは警察に電話するだけですね。あ、当然、今の会話、私が全部録音しといたから証拠はばっちりですよ」
直斗は振り上げた拳をわななかせながら、ゆっくりと下ろし、悪戯っぽく笑う亜季から結束バンドを受け取った。
「バンドにスタンガンか――亜季、こんなものどこで用意したんだよ……」
「ほら、このまえ先輩言ったじゃないですか。痴漢防止スプレーなんてだめだって。だからネットで買っておいたんです。ほんと役に立ちました!」
「……そっか。助かったよ」
肺に溜まっていた熱い空気をすべて吐き出すと、熱帯夜の重い空気が、少しだけ軽く感じられた。
屋上のコンクリートに額を擦り付け、情けない呻き声を上げる田中の背中を膝で押さえつける。
曇天の空を見上げる。星はまったく見えない。
それでも、麻衣と武が、あの暗闇の向こう側から、ずっと見守ってくれていたような気がした。
「終わったよ、武、麻衣……」
直斗は無言のまま、うめき声を上げる田中の両手首を後ろ手に強く引き寄せ、プラスチックのバンドを、二度と外れないように固く、固く締め上げる。
厚かった黒い雲の一部が、いつの間にか風に流され、その間から、美しい月の光が、新校舎の屋上を薄く照らし始めた。




