エピローグ 真実は2つ
すべての真実が明るみに出た後、世間は文字通りひっくり返った。
人望の厚かった若手教師が、教え子と関係を持った末に同僚を殺害し、さらに無実の生徒に罪を擦りつけて二人の命を奪った。そのあまりに猟奇的で身勝手な事件の全貌は、瞬く間に全国のニュースを駆け巡った。
学校は連日マスコミのフラッシュに包囲され、緊急の保護者会が開かれ、校長はテレビカメラの前で深く頭を下げ続けた。警察のずさんな初動捜査にも非難が殺到し、武の「無理心中」という汚名は完全に雪がれたのだ。
ただし、真犯人を追い詰めたのが中学生であったという事実は、警察の配慮によって伏せられた。未成年である直斗と亜季のプライバシーは厳重に守られ、マスコミに追いかけ回されるような事態にはならなかった。
それでも、警察からの度重なる事情聴取や、学校側のカウンセリング、そして何より大人たちが作り出す騒々しい渦の中に巻き込まれ、二人はあの日以来、まともに顔を合わせて話す時間すら持てずにいた。
狂騒のピークがようやく過ぎ去り、世間の関心が別の新しいスキャンダルへと移り始めた頃。
暦はすでに八月の半ばを過ぎ、お盆明けの風には、ほんのわずかだが秋の気配が混じり始めていた。
♢ ♢ ♢
「……随分と、草が伸びたな」
深い森の中。
木漏れ日が斑模様を作る原っぱで、直斗はぽつりと呟いた。
かつて、直斗と麻衣、そして武の三人で作った秘密基地。
少し見ない間に、夏特有の旺盛な生命力を持った雑草たちが、膝の高さまで生い茂っていた。人の立ち入らなくなった場所は、驚くべきスピードで自然に呑み込まれていく。
「本当ですね。虫除けスプレー、持ってくればよかった」
直斗の隣で、亜季が足元を気にしながら眉をひそめた。
白いノースリーブのブラウスに、薄手のカーディガンを羽織った彼女の姿は、ひどく美しく見えた。
あの屋上で見せた悪魔のような顔も、冷酷な復讐者の顔も、今の彼女にはない。ただの、少し背伸びをした中学二年生の少女だった。
二人は、崩れかけた秘密基地の小屋の前に並んで腰を下ろした。
遠くでツクツクボウシが鳴いている。森を吹き抜ける風が青葉を揺らし、心地よい音を立てた。
ここでこうして静かな時間を過ごすのは、事件が起きてから初めてのことだ。
直斗は、ずっと気になっていたことを切り出した。
「あのさ、ひとつ聞きたいんだけど、亜季はなんで麻衣を殺した犯人が武だと思わなかったんだ? 警察も、学校の連中も、みんな武がやったって決めつけてたのに」
「お姉ちゃんの部屋で、あの天体ノートを見つけたからですよ」
亜季は、森の奥へと視線を向けた。
「例の謎の詩の意味は先輩が解明してくれるまでわからなかったけれど、何かこの事件には裏があるなって直感しました。だからお姉ちゃんが死んじゃったあと、私なりに調べてみようと思ったんです」
「そうだったのか……」
「確かに私、お姉ちゃんとそんなに仲が良かったわけじゃないけど、それでもたった一人の姉ですから。絶対に真相を知りたかったんです。でなきゃお姉ちゃんが浮かばれません」
「じゃあ……もしかして田中が犯人だってことも最初からわかってて、奴に近づいたのか?」
直斗の問いに、亜季は膝を抱えたまま、ゆっくりと首を横に振った。
「いいえ、それはさすがに違います。お姉ちゃんが付き合ってる相手は田中先生かな? ってことはうすうす気づいてはいましたけど。あいつは一見さわやかで優しく、顔も抜群にいいし。……でも、まさか学校の先生が連続殺人犯とは思わないじゃないですか」
「そうだな……。人は見かけによらないの典型だったな」
「それでも、私は容疑者の一人として見てはいましたよ。ただ、あいつには北川先生の件では鉄壁のアリバイがあったじゃないですか。しかもとにかく用心深くて、私がどんなに探りを入れても、自分が真犯人だという素ぶりすら見せませんでしたから」
亜季はそこでふっと息をついた。
「……でもそれなら、麻衣の天文ノートはもっと前に見せてほしかったな。そうすれば、早いうちに真相に気付けたかもしれないだろ」
直斗が少しだけ恨み言をこぼすと、亜季は悪戯っぽく舌を出した。
「それには理由があります……正直に言って、最初は先輩のことも信用していなかったというか、有力な容疑者候補として見てましたから」
「え、俺もかよ!」
「はい! でも、怒らないでくださいね。先輩は昔からお姉ちゃんのことが好きだったわけじゃないですか。だとしたら恋愛関係のもつれで事件を起こしちゃった、ということも考えられなくもないですよね?」
「うーん……確かに、それもそうだな」
亜季の思考回路は見かけによらず、非常にしっかりしている。
容疑者扱いされていたのにもかかわらず、直斗は思わず感心してしまった。
「それに――」
亜季の声が、真面目なトーンに落ちた。
「私が犯人捜しで危険な綱渡りをしてるってわかったら、先輩、絶対に反対したでしょ? 『危ないからやめろ』『大人の男に近づくなんて無茶だ』って、私をやめさせようとしたはずです」
「そりゃそうだろ。実際、危うく殺されかけたじゃないか……」
「でも、そうでもしなきゃ事件は解決しませんでしたよ。それに私は元々こういう性格なんですよ。こうと決めたら突っ走るっていうか」
そこで亜季は、ふふっ、と小さく笑い声を漏らし、直斗の顔を下から覗き込んだ。
「あ、でも安心してくださいね」
「……何をだよ」
「私、あいつには指一本触れさせてませんから。キスすら許してませんよ」
亜季は唇を尖らせて、心底嫌そうに言った。
「いくら真相を探るためとはいえ、あんなナルシストでキモい殺人鬼なんてまっぴらごめんですから。上手いことかわして、じらしてじらして、あの屋上の舞台まで引っ張ったんです」
「すごいな……亜希って」
「そんなに褒めないでください。恥ずかしいですから。――とにかく、あいつを捕まえることができて最高によかったです。私一人じゃとても無理でした。すべて先輩が協力してくれたおかげです。ありがとうございました!」
その言葉を聞いて、直斗の胸の奥で、無意識のうちに固く結ばれていた結び目が、ふっと解ける音がした。
「……お礼を言うのはこっちの方だよ。麻衣だけじゃない、武の仇も討つことができたんだ。本当にありがとう。だけど――」
一拍置いてから、直斗は顔をしかめ、苦笑いを浮かべたた。
「だけど、あの屋上での裏切りの演技は……無茶くちゃ生きた心地がしなかったぞ。リアルすぎて」
それを見て、亜季が「先輩、顔、なんか変ですよ」と面白そうにくすくす笑った。
そして言った。
「それについては謝るしかないです。でも、ああでもしなきゃ、あいつに自供させるのは無理だと思ったんです。……でも、あのときの先輩、最後の最後で私のこと信じてくれましたよね。あの絶体絶命の状況で、なんで私が演技してるってわかったんですか?」
亜季の真っ直ぐな瞳に見つめられ、直斗は少し照れくさそうに視線を逸らした。
「ああ……それは、なんだろうな。なぜか急に、亜季と初めて教室で会った日のことを思い出したんだよ」
「初めて会った日?」
「あの時こう言っただろ。『私、お姉ちゃんが最後に何をしようとしてたか、少しだけ知ってるんです』って」
「あ!」
亜季が、はっとしたように目を見開く。
「屋上で田中の話を聞きながら、俺はあの言葉の意味に気づいたんだ。麻衣が最後にしようとしていたこと……それは、警察に話すことでも、武を庇って逃げることでもない。きっと、自分の過ちに決着をつけるために、田中と『別れる』ことだったんだろ?」
実際、麻衣は田中ときっぱり決別しようとした。だからこそ、田中は、口封じのために彼女を殺したのだ。
「そこまで知ってるのに、亜季がそんな奴と本気で付き合うわけないと思った。これは絶対に何か裏がある、全部相手を油断させるための演技だって、そう確信できたんだ」
「へー……」
亜季は感心したように息を漏らし、それから、どこか嬉しそうに目を細めた。
「よく覚えてましたね、私のそんな何気ない台詞」
「忘れるわけないだろ。あの日から、俺は悲しむのをやめ、真犯人を絶対に突き止めてやると決心したんだから」
直斗はそう言って、再び背後の秘密基地へと目を向けた。
風雨に晒され、屋根のはボロボロ、壁の木材は朽ちかけている。先日の台風のせいか、入り口の柱も傾き、今にも崩れ落ちそうだった。
「しかし……」
直斗は、遠い目をして過去の記憶をたぐり寄せた。
「中学生になっても、麻衣と武は時々ここに来て、二人で話をしてたんだな……」
「そうみたいですね」
「……どうして、俺に言ってくれなかったんだろう」
直斗の声に、抑えきれない悔恨の響きが混じった。
「麻衣は、その――家族との関係に悩んで自殺まで考えていた。そこを田中に付け込まれたんだろ? その前に俺に相談してくれれば――幼馴染だっていうのに」
「やだなあ先輩、あいつのでまかせ真に受けてたんですか。そんなの嘘ですよ」
亜季は呆れたように言ってのけた。
「そりゃ、お姉ちゃんはお父さんやお母さんとしっくりいってなかったのも本当です。でもさすがに自殺するまでは思い詰めてはいませんよ」
「え?」
「むしろお姉ちゃんは、田中先生との関係にずっと悩んでたんだと思います。だからこの秘密基地に来て、武先輩に話し相手になってもらってたんじゃないかな?」
あの小屋の裏に積み上げられた二人の石の山。あれは、そういうことだったのか――。
だが、それがわかっても、直斗は強烈なやるせなさを感じた。
むしろ、より強く。
「そうだとしても、どうして麻衣は俺には何も言ってくれなかったんだ……! 二人とも、俺の一番の親友だったのに……」
別の結末があったのではないかという思いが、黒い染みのように直斗の心に広がっていく。
そんな直斗の背中を、亜季の静かな声が包み込んだ。
「それはね、たぶん……先輩の気持ちに、お姉ちゃんが気づいていたからですよ」
「え……?」
「お姉ちゃん、他人の心にすごく敏感な人だったから。先輩が自分のことをずっと特別に想ってくれてるって、わかってたんだと思う。……だからこそ、別の男の人、しかも学校の先生との泥沼の恋愛相談なんて、先輩にはできなかったんじゃないですかね」
「でも武には――」
「それは、武先輩はやっぱり北川先生のことが好きだったんだと思いますよ。つまりお姉ちゃんとは単なる親友で、仲の良い兄妹みたく話ができたんですよ」
「そうなのか……?」
「はい、絶対に! 先輩もそれくらいわかってあげなきゃだめですよ。親友だったんだから」
「…………」
直斗は目を伏せた。胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛んだ。
それでも亜季の言葉は、不思議に心に染みた。
「それに、天文部に先輩を誘ったのはお姉ちゃんの方でしたよね」
「ああ、三年になって突然。確かに、星に興味なんてない俺を、どうして麻衣は誘ったりしたんだろう。最初は、欠員補充のためかと思ったけど」
「そんなことは絶対ないですよ。……私にも、お姉ちゃんの本当の心はわからないけど――」
亜季は夏のどこまでも青い空を見上げて、少しだけ考え込んだ後、ゆっくりと口を開いた。
「たぶん、どこかでSOSを出していたのかもしれません」
「SOS……?」
「田中先生とのいびつな関係は、いつか必ず破綻する。お姉ちゃんは、心の深いところでそれを悟っていたんだと思います。だから、無意識のうちに、先輩に間に入って助けてほしかった。……自分から助けてとは言えなかったから、天体観測っていう口実を作って、先輩を自分の領域に引き入れようとした――で、間違いないと思います」
直斗の脳裏に、あの夜の屋上の光景が鮮明に蘇った。
望遠鏡を覗き込みながら、楽しそうに笑っていた麻衣の横顔。
『空とか星とか見てると、いろんなことが小さく思えてくるんだよね――』
あの言葉は、大人との歪んだ関係に絡め取られ、息も絶え絶えになっていた彼女の、精一杯の救難信号だったのだ。
「俺が……それに気づけなかった……」
直斗は両手で顔を覆った。指の隙間から、熱いものがこみ上げてくるのを止められなかった。
麻衣の悲鳴が聞こえなかった。武の決死の覚悟が見えなかった。自分はただ、呑気に星空を見上げていただけだった。
「それは仕方ないですよ。先輩のせいじゃないです」
亜季の細い手が、直斗の肩にそっと触れた。
「……そうかな」
「そうですよ」
亜季はきっぱりと言い切った。その声には、姉への複雑な愛情と、目の前にいる不器用な直斗への確かな優しさが込められていた。
「ほら先輩、そんな暗い顔して落ち込まないで。過去ばっかり見てたら、お姉ちゃんと武先輩に笑われますよ」
顔を上げた直斗の前で、亜季は立ち上がり、パンパンとスカートの土を払った。
そして、くるりと振り返ると、夏の太陽を背に受けて眩しい笑顔を向けた。
「さて、元気出すために――」
「え?」
「私と、海でも行きますか。お姉ちゃんの代わりはできないですけど――」
「海……?」
「そう! まだ夏休みは残ってるんですから。それに、私の水着姿はすっごく可愛いんですよ? 見ないと絶対に損しますからね!」
亜季は胸を張り、自信満々に笑ってみせた。
その純粋で、悪戯っぽくて、どこまでも健気な素顔が、直斗の目にはひどく眩しく映った。
「……そうだな」
直斗は、涙の跡が残る顔で、ふっと吹き出した。
心の底にこびりついていた冷たい泥が、彼女の底抜けの明るさによって、少しずつ洗い流されていくのを感じた。
麻衣と武はもういない。その喪失感は、きっと一生消えることはないだろう。
だが、残された自分たちは、生きていかなければならないのだ。
この先の未来を。
「……しょうがないな。付き合ってやるよ」
「やった! じゃあ約束ですよ!」
亜季は立ち上がると、直斗に向かって手を差し出した。
直斗は一瞬迷ったが、すぐにその手をしっかりと握り返し、二人は並んで、木漏れ日の差す森の小道を歩き出した。
背後では、崩れかけた秘密基地が、夏の緑に深く埋もれようとしていた。
彼らの幼い日の記憶を閉じ込めた小さな小屋は、やがて完全に朽ち果て、元の静かな森へと還っていくのだろう。
風が吹き抜け、木々がざわめく。
高く澄み渡る青空を見上げながら、直斗は初めて、迷いなく前を向いて歩いていた。
ーおわりー
♢ ♢ ♢
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました! ホラー・ミステリー大賞に間に合わなかったのが残念でしたが、とにかく最後まで書けてよかったです。今後とも、よろしくお願いします!
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました!
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