第42話 冷たい熱帯夜
相手が突然こんなに遅い時間に「今すぐに来い」と言った理由は、冷静に考える時間を奪い、親や警察に相談する隙を与えないためだろう。
しかし、それでも行くしかなかった。この事件ではすでに、北川先生から始まり、麻衣、武の三人が命を奪われているのだ。亜季だってそうならない保証はない。
直斗はそこから一気に動いた。
相手が求める「事件の証拠」といえば、不倫のデータが入ったスマホと、亜季から借りたままの麻衣の天体ノートくらいしか思い当たらない。
スマホをポケットにねじ込み、ノートとLED懐中電灯をリュックへ放り込む。足音を殺して部屋を出て階段を下りると、リビングの灯りはすでに落ちていた。奈美恵はすでに眠っているらしい。今なら気づかれずに外へ出られる。
玄関のドアをそっと開けた瞬間、夏の夜の生温い湿気が肌にまとわりついた。
空は厚い雲に覆われ、星ひとつ見えない。闇が地面から立ち上がってくるような夜だ。
学校へは自転車で行こうとしたが、鍵を部屋に置き忘れたことに気づく。取りに戻る時間すら惜しい。直斗は振り返らず、闇の道へと駆け出した。
――もし亜季の身に何かあったら。
天国の麻衣に、どう顔向けすればいい。
息が詰まるような熱帯夜の中、直斗は暗闇に沈む学校へ向かって走り続けた。
昼間にアスファルトが蓄えた熱が、湿った空気とともに路面から立ち上る。額から流れ落ちる汗が目に沁みたが、拭う一秒すら惜しかった。ただ足を動かす。肺の奥が燃えるように熱く、喉の奥から鉄の味がせり上がってくる。
深夜の校舎は、夜空に黒々と切り抜かれた巨大な影のように見えた。
直斗は正門を一瞥してすぐ裏手へ回る。防犯カメラの死角にあるフェンスの穴は、武と一緒に見つけた抜け道だ。
錆びた金網に指を掛け、つま先をねじ込み、一気に体を引き上げる。服が引っかかる鈍い音がしたが、気にせず反対側へ飛び降りた。着地の衝撃で足首が悲鳴を上げたが、痛みはすぐに意識の外へ押しやった。
校内の空気は重く、夜風も届かない。
指示通り、新校舎の外壁に沿って設置された非常用外階段へ向かう。金属のステップを踏むたびに、カン、カンという響きが静まった校庭に広がっていく。待ち構える殺人犯への恐怖は、今の直斗にはなかった。
北川先生を殺し、罪を武になすりつけ、口封じのために麻衣を、そして武を殺した男。何食わぬ顔で日常に紛れ込み、自分たちを嘲笑っていたその男への憎悪が、中学生としての無力感も、死への恐怖も、根こそぎ刈り取っていたからだ。
最上階の踊り場に出た。
屋上への鉄扉に手を掛けると、冷たい金属の感触が汗ばんだ掌に伝わってくる。ノブを回す。あっさりとラッチが外れた。鍵は掛かっていない。
直斗は大きく息を吐いて、扉を押し開けた。
新校舎の屋上に広がっていたのは、四角く切り取られた闇だった。星のない曇天の下、光を吸い込むコンクリートの床は底なし沼のように見える。
生ぬるい夜風が直斗の前髪を揺らした。
リュックからLED懐中電灯を取り出し、スイッチを入れる。
光の束が闇を裂き、床を滑って――十メートル先の二つの人影を白く浮かび上がらせた。
やっぱりか――!
そこに立っていたのは荒井ではなかった。思った通り、さっきの電話の声、あれはAIで作り出した音声合成だったのだ。武が、合成された北川先生の声に騙され、旧校舎に呼び出されたのと同じ手口だ。
「すべての犯人は、あんただったんだな――」




