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星降る夜に君は死んだ  作者: 天代 朔
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第37話  青い星月夜

 旧校舎での息が詰まるような対決から、数日が過ぎた。

 直斗は教室の窓にもたれながら、グラウンドで体育の授業をしている荒井の様子を見下ろしていた。笛を鋭く鳴らし、生徒たちに大声で指示を飛ばす姿は、事件前と何ひとつ変わらない。教壇に立つ担任の花村先生も同じだった。チョークを握る手がほんの少し震えているような気もしたが、ホームルームで見せる冷徹で隙のない態度は見事なくらい普段通りだった。


 あれほど惨めな姿をさらし、不倫の事実や嘘の証言まで暴かれたというのに、翌日には何事もなかったかのように「教師」の顔をかぶって学校に現れる。大人というのはずいぶん図太いものだと、直斗は半ば呆れながら思った。

 しかし裏を返せば、それは直斗たちにとって都合のいいことでもあった。彼らが自分たちの社会的地位を守るために口をつぐんでくれたおかげで、直斗と亜季の危うい捜査はしばらく誰にも知られることなく、水面下で進めることができる。


 とはいえ、状況が好転したわけではない。

 荒井と花村先生が容疑者から外れたことで、むしろ事件は振り出しに戻ってしまったとも言える。

 北川先生の声色を使い、武を旧校舎へ呼び出した人物。

 警察すら欺くほど周到な計画で、北川先生を殺した真犯人。

 手がかりは途切れ、犯人の影は再び深い闇の中へ消えてしまったように思えた。


 そして、一学期最後の天体観測の日がやってきた。


♢ ♢ ♢


 七月も下旬、新月の夜。

 夜の学校は、昼間とはまるで違う顔を見せる。コンクリートの壁は太陽の熱を微かに残しながらも、吹き抜ける夜風はどこかひんやりとしていて、静寂とほの暗さが校舎全体を包み込んでいた。

 新校舎の屋上。

 直斗はコンクリートの冷たい手すりに寄りかかり、夜空を見上げていた。

 頭上には無数の星が瞬いている。梅雨明け直後の澄み切った夜空は、街の明かりがあってもなお、吸い込まれそうなほどの奥行きを感じさせた。

 あの日、すべての悪夢が始まった六月の『夜間天体観測会』から、約一ヶ月半。

 直斗は再び、同じ場所に立っている。しかし、世界は決定的に変わってしまった。


「……いないんだな、本当に」


 ぽつりと、誰に宛てるでもなく呟いた声は、夜風に溶けて消えた。

 屋上の中央では、天文部の部員たちが天体望遠鏡のセッティングに追われている。新しい部長となった門脇が指示を出し、後輩たちがそれに従う。平和で、ありふれた部活動の風景だ。

 だが、そこに麻衣の姿はない。


 あれは小学六年の冬だったか――

 ふいに、麻衣と武と一緒にあの秘密基地から見上げた、冷たい夜空の記憶が蘇る。

 冬の夕方はすぐに暗くなる。それでも家に帰りたくなくて、小屋の前に座って三人で肩を寄せるようにして空を見上げると、木々の隙間に星がいくつも瞬いていた。

 子供の目で見たせいだろうか。夜空の星は、今見るよりずっと強い無窮の光を放っていた気がする。

 武はどこからか持ってきた古い双眼鏡を、ときどき空に向けて長いこと覗きこんでいた。麻衣は膝を抱えて、静かに星を数えている。直斗は二人の間で、小屋の木の壁に背を預けながら、ぼんやりとその時間の中に身を置いていた。

 特別な話をした記憶はあまりない。それでも沈黙が気まずいと思ったことは一瞬たりともなかった。

 麻衣が小さな声で「きれいだね」と言ったとき、武は双眼鏡を外して少しだけ笑う。直斗は何も言わなかったが、その光景をずっと覚えていようと思った。

 この時間は、いつまでも続くものではない――そんな気が、なぜかしていたのだ。


 結局、残ったのは自分一人。

 でもあの夜、あの場所、あの瞬間に、三人は確かに存在していたのだ。

 

 なぜ今さら、こんな記憶が蘇るのだろう。

 直斗は自嘲気味にため息をついた。もうすべてが手遅れだというのに。

 思い返せば六月のあの夜、初めて観測会に参加した時、自分は星になんてこれっぽっちも興味がなかった。ただ麻衣のそばにいて、彼女が楽しそうに笑う横顔を見ていたかっただけだ。

 麻衣があれほど好きだった夜空を、まともに見ようともしていなかった。そんな不純な動機でこの屋上にいた自分の浅ましさが、今更ながらひどく恥ずかしく、情けなかった。天体ノートを手がかりに、図書館で天文学の本を読み漁ったのだ。


 麻衣が二年生の時から使っていた天体ノートには、一年を通した月ごとの星空の様子や星の名前、星座の伝説までが事細かに記されていた。

 最初はただ、事件の手がかりを探すつもりだった。だが、ページをめくり天文学に触れるうち、直斗の心に思いがけない変化が生まれていた。

 星の運行は驚くほど正確だ。何万光年という途方もない時間を旅した過去の光が、今この地球に届いている。人の一生など到底及ばないほどの悠久の時間が、宇宙には静かに流れていた。

 無限の闇の中で、ただ神秘的に輝き続ける星々。その圧倒的な静けさとスケールに触れていると、残酷な事件のことすらふと忘れてしまう瞬間があった。


『空とか星とか見てると、いろんなことが小さく思えてくるんだよね』


 以前、麻衣がそんなことを言っていた気がする。あの時はただ頷いただけだったが、今ならその感覚が少しわかる。

 だからこそ、直斗は星を学ぼうと思った。単なる事件の手がかりとしてではなく、星を見上げていた麻衣の視線にほんの少しでも近づきたかった。彼女が見ていた世界を、この目で確かめるために。

 だが――その静かな祈りのような思いも、残酷な現実の前では容赦なく引き裂かれる。

 武は無実の罪を着せられたまま、冷たい森の木に吊るされた。麻衣は二度とこの美しい星空を見上げることもできないまま、武と共に命を奪われた。

 あまりに簡単に、あっけなさすぎるほど理不尽に。

 直斗は喉の奥からこみ上げる嗚咽を、奥歯を強く噛み締めて押し殺した。

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