第三十八節.放たれた厄災
「……どういうことだ?」
「分かりません……洞穴内に閉じ込めていた妖の封印術が解けてしまったとしか……でも、すごく嫌な感じです。これほど離れているのにこんな薄気味悪い気配を感じ取れるなんて……」
途端に藤一郎と朋麻呂の顔に緊張の色が浮かぶ。
「村の衆が一斉に倒れたってのもそれが原因か? いずれにせよもう一刻の猶予も無さそうだな。……少将様!」
「急ぐぞ姫宮殿。民百姓が暮らすこの地に危険な妖を野放しにはしておけぬ」
目前に迫る脅威を前に精悍な面持ちで答える朋麻呂。その様子に何とも言えぬ頼もしさを感じながら藤一郎は力強くうなずいた。
「慈螺、妖の場所は分かるか?」
「まだ洞穴の辺りに居ると思います……でも、待ってください」
「どうした?」
「いえ、この先にも人の気配が……まさか茄蔵様?!」
突然声を張る慈螺に藤一郎は眉をひそめた。
「茄坊? あの野郎、本当に一人で向かってやがったのか……」
「間違いないです! 姫宮様、急ぎましょう!」
「……よし!」
発するが早いか藤一郎は山道に向かって駆けだす。朋麻呂と慈螺もすぐにその後を追った。
「茄蔵様!」
獣道を登り洞穴付近のひらけた平地に達した時、慈螺はうれしそうに声を上げた。
「……あれ? 慈螺も来たのかぁ。毘沙門さんも……あぁ? 公家様まで来ちまったのかぁ?」
茄蔵はどこからか拝借したのであろう薪割り斧を持ち、普段と変わらぬ様子で慈螺たちのほうを振り返った。
「お前、一人で洞穴に行くつもりだったのか?」
藤一郎は呆れたように問いかけた。
「皆ツチガミサマに祟られたって騒いでたからなぁ。洞穴のほうがどうなってるか調べとこうと思ってよぉ」
「まぁ無事で何よりだ。慈螺が言うには妖を封じた術が解けているかもしれねぇって話だ……場合によっちゃ姫様の到着を待たずして一戦交えなきゃいけねぇかもな」
「そっかぁ……それで、なんで公家様がここに居るんだ?」
茄蔵は朋麻呂に目を向けた。つい先ほど目にしていた美しい絹の狩衣は山道を越え藪を駆け上がってきた結果、衣の端々が汚れ、擦り切れ、見るも無残な姿へと変貌していた。
「少将様も我らの妖退治に力を貸してくださるそうだ」
「本当か? そいつはありがてぇや。あの”ごがく“とか言うスゲェ太刀があれば怖いモノ無しだ」
「ほっほっほ、期待しておるがよいぞ」
朋麻呂は破れた狩衣のことを気にも留める様子もなく、普段と変わらぬ優雅な笑みを浮かべていた。
「藤一郎様、入り口の注連縄が!」
岩壁に目を向けていた慈螺が声を上げる。藤一郎が洞穴に目をやると、確かに昨日張られていた太い注連縄が姿を消しており、入り口の周囲には黒く焼け焦げた縄の残骸らしきものが散らばっているようであった。
一同は洞穴に向かって走り出した。
「クソが、本当に解かれちまってるじゃねぇか……」
「愚かしいことを。何者の仕業じゃ」
藤一郎が忌々しげにつぶやくと、すぐ背後を走る朋麻呂も顔をしかめながら独り言を漏らす。やがて入り口付近まで近づいた時、後方を走る慈螺が声を上げた。
「中に人の気配が……誰か出てきます!」
一同は足を止めると同時に洞穴の奥へと注意を向けた。暗穴の奥、壁面を舐めるように伝う小さな丸い光が見える。その奇妙な光はゆらゆらと揺れながら徐々に洞穴の入り口へと近づき、やがて照り込む日光と同化するように消えてしまった。
「……あら、追手は始末したはずだけど……どうしてここに?」
洞穴から姿を現した白妙は日の光に目を細めながらも、さして驚いた様子もなく朋麻呂に向かって言った。
「それは麻呂の言葉じゃ。ここには古来より悪しき妖が封じられていたはず。まさか、其方がその封を解いたとでも申すか?」
白妙は薄笑いを浮かべたまま答えない。
「テメェ、何てことしやがる! 何のつもりか知らねぇが、おかげで下の村の連中が大勢倒れちまってんだぞ?!」
藤一郎が語気を荒げて吠え掛かるも白妙は意に介する様子もない。やわらかな風に吹かれるまま草木が小川のせせらぎにも似た静かな音色を奏でる。無言のまま岩壁に沿って歩き始める白妙の姿を八つの瞳が追いかけた。
「……少々順序は狂っちまったけど結果としちゃ上々だね。少将様、アンタはここで妖に殺される。その上、中州の連中まで連れ立って往生してくれるってんなら阿闍梨様もさぞお喜びになられるだろうね」
「なるほど、なるほど。其方が屋敷を抜け出したのは御剣神社に向かった麻呂を消すためでおじゃったか。……しかしそのような指示をこの短期間で下せるとなると、まさか澄恒もこの三野国に……?」
「気づいたところでもう手遅れだよ。阿闍梨様はとっくに旅立たれた後さ。残念だったね」
手を添えた岩壁を見上げながら白妙は愉快そうに笑った。やがて洞穴の奥から何かを引きずるような異音が聞こえ始める。それは目に映る風景さえも振動させるような錯覚をあたえながら徐々に近づいてくるようであった。
「妖が来ます!」
慈螺が叫ぶと同時に藤一郎と茄蔵は洞穴の入り口に向けて身構えた。
「……ふむ、麻呂としたことが迂闊であったわ。それほど近くに居ながら澄恒の存在に気付けなんだとはのぉ」
「無駄話はここまで。さぁ、ご先祖様が討ち損ねた妖怪が恨み骨髄で這い出してきそうですよ。ふふふ、後裔である少将様にその尻ぬぐいができるのかしら? とくと拝見させていただきましょうか」
そう言うと白妙は切り立った壁面をまるでバッタかコウロギのように跳ねながらいとも簡単に登ってゆく。
「ほっほっほ、精々安全な場所から麻呂の妖退治を見物しておるがよい。このまま逃げられでもしてはかなわぬからのぉ」
朋麻呂は左腰に佩いた太刀を引き抜くなりそれを地面へと突き立てる。直後に洞穴の闇が大きく動いたかと思うと、巨大な口を開いた真っ黒な塊が穴から溢れ出すように地上へと姿を現した。
「これが、ツチガミサマ……」
その巨体とおぞましい見た目に戦慄を覚えつつも慈螺が小さくつぶやく。それは正しく巨大な毛虫そのものであり、五尺(約1.5メートル)はありそうな胴体の先頭には目や触覚の類いは見受けられず、分厚い舌を垂らした巨大な口だけが小さな洞窟のように広がっているだけであった。全身は針金のような黒い剛毛に覆われており、やはり手足のような器官は認められない。やがて悶えるように身をよじりながら七間(約12.6メートル)程もある巨体が洞穴から這い出すと、為す術もなく見守る一同をあざ笑うかのように胃の腑を激しく揺さぶるような重く低い唸り声を上げた。
「なるほど、こりゃあ斬り殺せる気がしねぇや……」
横たわる巨木のような妖を前に、藤一郎は苦笑いを浮かべながら段ビラを抜いた。
「そんでも退治しねぇと鷹兄ぃを助けられねぇ!」
茄蔵が両手で斧を握りしめながら雄々しく言い放つと、藤一郎は軽くうなずきつつ「その通りだ」と答える。立ち並ぶ藤一郎たちに妖が次々とその口を向ける中、朋麻呂は斑尾の柄へと手を掛けた。
「……斑尾、貴様……」
朋麻呂が唸るようにつぶやく。どれだけ力を込めて引き抜こうとも斑尾は鞘から出てこようとはしなかった。
「このような時にまで何を戯れておるかっ! 早う出てまいれ!」
――ダメなんだって麻呂ちゃん。しっかりやることやってくれねぇとさ、俺、やる気出なくてなぁ。……それに、ほれ、お友達も麻呂ちゃんの雄姿を期待してるみたいだぜ?
斑尾の言葉に顔を上げると、前に立つ藤一郎と茄蔵が何かを待ち焦がれているかのような眼差しでジッと朋麻呂を見つめていた。
「……揃いも揃って莫迦者だらけじゃ」
朋麻呂は忌々しげに表情を歪めながら奥歯を噛み鳴らすと、やがて何かを諦めたかのように静かに目を閉じた。
「その身は白刃にして焔立ち――」




