第三十七節.主馬事変
「姫宮さまー!」
突然の呼び声に藤一郎が坂道の先に目を向けると、与平の家へ戻ったはずの慈螺が慌てた様子で坂を駆けおりてくる姿が見えた。もしや茜と富士重が神社から戻ってきたのだろうか? 藤一郎は足を早めると、朋麻呂を追い抜き慈螺のもとへと急いだ。
「どうした、姫様たちが戻られたのか?」
藤一郎の問いに慈螺は大きく顔を横に振ると、ひどく切迫した面持ちで声を上げた。
「違うんです! 村の人が、村の人たちが大勢倒れてしまっているみたいなんです!」
「あぁ?」
思いもかけぬ慈螺の言葉に藤一郎は驚きの声を上げる。まさか妖の呪いか? しかし大勢とはどういうことだろうか……藤一郎は当惑しながらも慈螺に更なる説明を求めた。
「何があった? まさか村の衆が集団で炭焼き小屋にでも行ったのか?」
「いえ私も詳しくは分からないのですが、山側に住む人たちがどんどん倒れているらしいんです!」
「はぁ?! なんだよそりゃ」
「私たちが与平さんの家に入ろうとしたところ、村の人がやってきて教えてくれたんです! その人が言うにはあれはツチガミサマの呪いに違いないそうでして、それで酩酊様に助けを乞うために急いでやってきたと言っていました!」
「助けを乞うつったって……今じいさんは祈祷の真っ最中じゃねぇか。鷹坊の命がかかってるんだ、そっちだっておいそれと止めるわけにはいかねぇぞ」
「そうなんです! ですから事情を伝えてその人には一旦帰っていただきましたが、このままでは大勢の人が呪いの犠牲になってしまいます……姫宮様、一体どうしたら?!」
「どうしたらって……それで茄坊はどうしたんだ?」
「茄蔵様は様子を見てくると言って村の人と一緒に行ってしまいました」
「そうか。……何だってんだ畜生め! まだ姫様も戻られていないってのに」
慈螺の説明を聞きながらも今一つ状況が飲み込めない藤一郎は、突然の不可解な事態に苛立ちを覚えていた。そこへ朋麻呂がゆっくりと近づいて来る。
「何事か? また何か問題でもおきたでおじゃるか?」
「それが、主馬の住人たちがツチガミサマの呪いで次々と倒れているそうなのです……少将様、私は詳しい状況を調べるため一足先に村へと行ってまいります。慈螺、まだ護り石の予備はあったよな?」
「確か、あと一つ二つは残っていたはずです」
「よし、一緒についてきてくれ。……少将様すぐに護り石をお持ちいたしますので、念のためここでお待ちいただけますか?」
「承知した。其方らも重々用心いたすのだぞ」
「はっ!」
藤一郎は軽く一礼をすると朋麻呂をその場に残し急いで与平の家へと向かった。
家の中では酩酊が変わらぬ様子で祈祷を続けており、鷹丸のそばに座っていた与平夫婦は荒々しく家に上がり込んできた藤一郎に驚きの表情を見せた。藤一郎は構うことなく土間を通り抜け酩酊のそばに駆け寄ると、置いてあった護り石を一つ拾い上げた。
「これを少将様に届けてくれ。俺は村の様子を調べてくる」
そう言って戸口に立つ慈螺に石を放り投げる。慈螺はそれを受け取ると「分かりました!」と言うなり朋麻呂のもとへと走っていった。
――一体何が起こってやがんだ?
言いしれぬ不安を抱えたまま藤一郎もまた与平の家を後にすると、真相を確かめるため村の奥へと向かっていった。
与平の家を出てしばらくは村内に混乱の様子は見受けられず、普段と変わらぬ穏やかな農村風景がそこには広がっていた。道を駆けながらも藤一郎は周囲に視線を走らせる。用水路の脇に立ったまま田の水量に目を凝らす男たちが見える。家の庭先で藁を編む老人の横では、天日干しにされ、自身の肌のようにしわがれた野菜を老婆が眺めているようだ。小川で遊ぶ子供たちの上流では村の女衆が洗濯の傍ら甲高い笑い声を青空に響かせており、慈螺から聞いた切迫した状況は影ほども感じられそうにない。藤一郎は何やら狐狸にでも化かされたような思いを感じながら、それでも村の奥へと続く道を走り続けた。
ところがしばらく走っていると村人の集団が非情の形相を浮かべながらこちらに向かって走り来る姿を目の当たりにする。藤一郎はそのまま集団に駆け寄ると、先頭を走る若い男をつかまえて何事かと問いかけた。
「ツチガミサマの呪いでさぁ! 上のモンが皆ツチガミサマの呪いにやられちまったんでさぁ! 早く村の外へ逃げねぇと俺たちまでツチガミサマに呪い殺されちまう!」
「落ち着け、一体何がどうなっておるのだ? もう少し詳しく教えてくれ」
「分からねぇ! 俺たちにも分からねぇが、とにかく山際に住む衆がどんどん倒れちまって! 様子を見にいったヤツも戻って来るなり熱出して倒れちまうし! とにかく早く逃げねぇと!」
男は恐怖に錯乱しながら早口に伝えると、魚群のように藤一郎のわきを走り抜けてゆく村人に混じり棚田のほうへと走り去ってしまう。やはり野槌の仕業なのか? しかしなぜ今になって呪いの範囲を村の居住区にまで広げてきたのだろうか? 藤一郎が呆然と山林を見上げていると、不意に背後から呼ぶ声が聞こえてきた。
「姫宮様!」
振り返るといつの間にか追いついてきた慈螺と朋麻呂の姿が見える。慈螺は朋麻呂を置き去りにして藤一郎のもとへと駆け寄ってきた。
「姫宮様、村の人たちがこぞって村の外へと逃げ出そうとしるみたいです」
「あぁ、今しがたここを駆け抜けていった。しかし何がどうなっちまってるのか……さっぱり分からねぇ」
「茄蔵様は?」
「いや見てねぇな。無事なヤツらは逃げちまったみたいだし……もしかしたら洞穴のほうまで行っちまったのかもしれねぇな」
「そんな! 姫宮様、急いで行ってみましょう!」
「落ち着け慈螺。茄坊だって護り石を持ってんだろ? それに一人で洞穴に入っていくほどアイツだって馬鹿じゃねぇさ」
「それはそうですが……」
狼狽する慈螺をなだめつつも藤一郎は朋麻呂の到着を待った。
「……やれやれ、やんごとなきこの身には下々の者のように野山を駆け回るというのは少々酷でおじゃりますな」
藤一郎たちに追いついた朋麻呂は疲れたように言葉を漏らした。
「少将様、茄蔵様が一足先に妖の住処に向かってしまったかもしれません。私たちも急いで向かいましょう!」
懐から扇子を取り出そうとする朋麻呂に向かって慈螺はすがるような目で訴えかけた。
「そう声を荒げるでない。せっかくの麗しき顔立ちが台無しでおじゃりますぞ?」
朋麻呂は一休みとばかりに汗に濡れる顔を扇ぎ始めると、慈螺に向かって意味ありげな笑みを投げかける。慈螺は尚も訴えた。
「私の顔などどうでもよいのです! 早く向かわねば茄蔵様が妖に襲われてしまうかもしれません!」
「心配せずとも分かっておる。とは言えども、今申した通り麻呂は慣れぬ山歩きで――」
「分かっておられるなら急いでください!」
あまりの慈螺の剣幕に一時扇ぐ手を止めたまま言葉を失う朋麻呂。慌てた藤一郎が慈螺をなだめすかすも、当人の興奮はおさまりを見せない。
「……顔に似合わず我の強い娘でおじゃりますな。其方、麻呂が都の公家であることを忘れては――」
「存じております! もしお聞き届けいただけぬのでしたら私一人で先に向かいますが、よろしいでしょうか?!」
「分かった、分かった。分かったからそう怒るでない。行けばよいのでおじゃろう、行けば……」
そう言うと朋麻呂は扇子をしまい斑尾を杖代わりに坂道を歩き始める。藤一郎が何度も頭を下げ謝罪の言葉を重ねる中、慈螺はこれ以上待ちきれぬといった様子で野槌の洞穴を目指し走り出した。
少し走っては朋麻呂たちの到着を待ち、また少し走っては同様に待つ。気ぜわしい慈螺の態度に藤一郎が落ち着くよう呼びかけながらも、やがて一行は洞穴近くの炭焼き小屋まで到着しようとしていた。
「少将様、炭焼き小屋が見えてまいりました。洞穴までもうひと踏ん張りにございます」
「左様か。しかし元気の良い娘子じゃのぉ……。三野の屋敷では見かけぬようであったが、あれも東光寺家お抱えの女中でおじゃるか?」
朋麻呂は炭焼き小屋の前で待つ慈螺を見ながら言った。
「いえ、あの者は、何と言いますか……」
藤一郎は言葉を濁した。まさか慈螺の正体が妖怪の猫又であり、ああ見えて実は男なのですなどと伝えて良いものかどうか……。言い淀む藤一郎の様子に、朋麻呂は何かを察したかのように口元をほころばせた。
「なるほど、なるほど、そういうことでおじゃるか。いや、皆まで言わずともよい。何、麻呂も気の強い女子は嫌いではない口でのぉ、其方の気持ちも分からぬではないぞ。しかしこのような旅先にまで連れ回すとは、姫宮殿も相当……いやいや、英雄色を好むという言葉もございましたなぁ。ほっほっほ」
「……は?」
相手の意図するところが分からず困惑する藤一郎をそのままに、朋麻呂は炭焼き小屋の前へと意欲的に足を早めた。
「待たせたの寵姫殿、ささ、先を急ぐといたそうか」
小屋の前で立つ慈螺に向かって朋麻呂が浮かれた調子で声をかける。慈螺は一言も発さぬまま洞穴へと通じる獣道を見据えていた。
「そのように照れずともよい。むしろこれほどの者に見染められるなど光栄なことではおじゃらぬか」
「そんな……でも確かにこの感じは……」
微動だにせずブツブツと一人つぶやく慈螺。二人に追いついた藤一郎が怪訝そうに聞いた。
「おい、どうした慈螺?」
「……感じるんです、藤一郎様。かすかですが感じるんです……これまでは洞穴の外では感じ取れなかった、あの妖の気配が……」




