第三十三節.地中の怪画
冥府の底にまで引き込まれるかと思われた縦坑は意外にも浅く、三間(約5.4メートル)程も下った時点で茜の足は穴底の床を踏みしめていた。穴の中は不思議な涼気に満ちており、外の暑さがまるで嘘のように感じられる。茜は白く塗り固められた漆喰に手を当てその冷ややかな感触を確認すると、そのまま行灯の明かりを頼りに周囲を見回してみた。暗く白い角筒の底、背後にひらけた横穴の存在に気づいた茜は行灯を突き出し奥の様子をうかがった。横穴はすぐに行き止まりとなっていたが、突き当りに見える板壁は頑丈そうな木の引き戸のようにも映る。
横穴に進み板壁の方々を行灯で照らす茜。その上下には錠の受け金と思われる金具が付いているのだが、どうやら施錠はされていないようだった。茜は行灯を床に置くと板壁に手を掛けた。すると多少の抵抗を感じながらも壁は苦も無く右へとずれてゆく。途端に目の前にひらける墨色の空間から冷気が逃げるように押し寄せてくる様子が感じられた。
こんな地下に風が通るはずもない、にもかかわらず闇の中から溢れ出す清冷な空気に戸惑いながらも、茜はそれでも臆することなく漆黒の室内へと足を踏み入れた。
僅かな明かりを頼りに周囲を照らし回ると、そこは四畳程の小さな小部屋のようであり、入り口の他に戸や窓は一切無いようであった。殺風景な室内は板張りの床を除き壁も高めの天井も全てが白い漆喰で固められており、奥の壁に垂れ下がっている一幅の掛け軸を除き調度品のような物は何一つ置かれてはいないようであった。
茜は行灯をかざして掛け軸を覗き込んだ。そこには雲水(旅の修行僧)のように墨染の衣を纏った年若い女性がこちらに背を向けて立つ全身像が描かれており、憂いを含んだその横顔は遠方に見える霧がかった山の頂を見つめているようにも見えた。
ここまでであればやや特異な美人画の類といったところで、それほど気に留めて見るべきもない絵なのであろうが、この絵画の異質さは女の下げた両腕の先にあった。袖口から覗くその右手には衣と同様に薄黒く染められた太刀が握られており、左手で無造作に掴む髪の束からは苦悶の表情を浮かべた男の生首が吊り下げられている。なぜこのような気味の悪いモノを飾っているのだと目を細めて眺めつつ、茜は背負った太刀の柄に手を掛けた。
「おい、この部屋で間違いないのか?」
――間違いございません。あぁ……ようやくとこの身に力が戻る日がやってまいりました。今この内に溢れる感謝の気持ち、どれほど言葉を連ねようと言い尽くせるものではございません。
「感謝などせんでもよい。お前にはこの後存分に働いてもらわねばならんからな。それよりも、ここで一体何をすればよいのだ? 見たところ不気味な掛け軸が一つ掛かっているだけで他にめぼしいモノは見当たらぬが……」
――その掛け軸こそが正に私の霊力を封じている呪物でございます。今こそ私を使ってその掛け軸を両断してくださいまし。そうすれば絵に封じ込められている力が解放され私の元へと戻ってくるはずです。
「これを、斬るのか?」
茜は太刀を鞘から引き抜くと掛け軸に向けて刃を構えた。……しかし、本当にこれで良いのだろうか? 自分は何か取り返しのつかぬことをしようとしているのではあるまいか? 茜の心に再び正体不明の疑念が頭をもたげる。
――さあお急ぎください。お供の方の魂が刈り取られてしまう前に、私の力を以って妖を退治いたしましょう。
茜の迷いを察するように太刀は決断を迫った。
穴の上では富士重が今か今かと茜の帰りを待ち構えていた。地中へと下りていった明かりがゆっくりと壁の中へと消えてゆき、もうどれほどの時間が経過したのだろうか。茜の話では目的の場所に到着さえすればさしたる手間もなく事が済むとのことであったが、それにしては時間がかかりすぎではあるまいか? いよいよ心配になった富士重は、茜の言いつけを破り自分も穴の中に潜ってみようかと考え始めていた。
気を揉みながらも富士重が判断を下しかねていると、近くで戸の開かれる音と共に人の話し声が聞こえてくる。富士重はハッとなり僅かに開いていた襖戸に手をかけるが、音の様子からして先程までいた座敷からではなさそうだ。一旦胸を撫で下ろしつつも富士重は静かに襖を閉じた。
光源を失い暗闇の中に一人身を潜める富士重は、外から聞こえる話し声に意識を集中していた。どうやら声の主は富士重がいる小部屋の壁を挟んで反対側に居るらしく、会話の様子から恐らく二人組であろうと察せられた。富士重は音を立てぬように壁に近づくと息を殺しながら聞き耳を立てた。
「――しかし本当に我らも同行しなくてよかったのか?」
「少将様のご命令なのだ、従う他あるまい。それに縁様と少将様が手に余すような相手ならば我らが居たところで何の役にも立てまいて」
「確かに違いないが……」
――この二人、少将様に従うお供の方々だろうか?
富士重は張り付くように耳を壁に寄せると、更に神経を尖らせ声の収集に勤しんだ。
「それにしても少将様も心配性なお方であるな。女子一人の相手など縁様に任せておけば問題なかろうに」
「そこは、ホレ、中州国での一件があるからのぉ。ようやく澄恒の居場所を掴んだというのにあと一歩といったところでまんまと逃げられてしまったそうではないか。少将様としても念には念を入れておきたいのであろう」
「あれは放っておいた透波(間者、忍びの者)がやらかしたのだったか?」
「それもあるようだが、何でも澄恒と敵対する何者かが連中を中州国から追っ払ってしまったらしいぞ」
「追っ払ったって、澄恒をか? 少将様ですら手を焼いておられるあの妖術師を退けるなど……にわかには信じ難いな」
「戻った透波の話ではそれが誰かまでは分からなかったらしいが、澄恒一味の会話から察するに東光寺家に所縁のある者ということは間違いないらしいぞ」
「中州守を含め家臣の大半は澄恒に籠絡されてしまったと聞いていたが、中にはヤツの正体を見破るほどの慧眼を持つ家臣もいたということか……ふぅむ、中州国の衆も中々侮れぬな。それで澄恒がどこに逃げたかは分かっているのか?」
「それが全く分からぬらしいのだ。中州国に潜伏していた際もナントカという偽名を名乗っていたらしいが、また名を変えてどこぞの国に隠れてしまったのであろう」
「たしか……“導鏡”とか名乗っていたか?」
「おお、そうだ。導鏡だ」
その名を耳にした途端、富士重の全身に沸き立つような衝撃が走った。
――導鏡は偽名で本名は澄恒……? ならばその澄恒を追い払った中州国所縁の者とは、ひょっとして我らのことだろうか? そもそも少将様が導鏡を追っていたとは一体どういうことだ?
「それで少将様も目の色を変えてあの女子を捕らえようとしておるわけか」
「あぁ。どういう理由かは知らんが女のほうで屋敷を離れてこちらに向かってきたらしいからな。飛んで火に入る何とやらってやつだ」
「透波の報告通りあの女が澄恒の手飼いの一人ならばヤツらの居場所も聞き出せるかもしれんな」
「そうでなくとも有益な情報の一つや二つは搾り取れるだろう。……しかし、あのような美女を痛めつけるのはちと気が引けるな」
「全くだ……しかしそうも言っていられまい。何せ相手は国崩しを企むあの澄恒だ。帝とこの東雲を守るために少将様自ら奔走されている以上、我らも私情など挟んでおれんぞ」
「うむ、そうだな」
富士重が固唾を呑んで会話を盗み聞きしていると、不意に穴のほうから何かが上にのぼってくるような物音が聞こえてきた。なぜか行灯の明かりは部屋まで届かぬようではあったが、これは茜が戻ってきたに違いないと富士重は僅かに襖を開いて小部屋に光を招き入れた。そして今しがた聞いた話に昂る気持ちを抑えつつも、間もなく茜が顔を見せるであろう縦坑へと近づいた。




