第二十三節.酔歩蹣跚
「……御仏はどこにでも存在しておられる。仏像はそのお姿を思い描くためのきっかけにすぎんのじゃよ」
酩酊は唐突に語りだすと、クルリと土間のほうへと体を向けた。
「もう心配せんでもよいぞ。御仏のご加護により倅さんにまとわりついとった瘴気(病の元となる悪い空気)の大半は退いた。今しばらく祈祷を続ければすぐにでも働けるようになるじゃろうて」
普段の好々爺に戻った酩酊は優し気な笑みを浮かべながら女と老婆を交互に見ながら言った。放心状態の女たちを横に茜たちが患者を覗き込むと、いつの間にか男の顔からは黒みが抜けており、まだ幾分息苦しそうではあったがその寝顔は比較的穏やかなものへと変わっていた。
「ウソだろ……」
藤一郎は驚きを隠せぬままにつぶやいた。
老婆は目に涙を浮かべながら酩酊のほうへと駆け寄ると、板の間への上り口を前にして崩れるように額を土に押し付けた。
「あ、あああああっ! ありがとうございます。法師様、ありが……ありがとうございます!」
戸口に居た女も老婆の横に膝をつくと、感極まった様子に喉を詰まらせながらも懸命に謝意を言葉にしながら何度も何度も頭を下げる。幼い兄妹はその様子を不思議そうに眺めていた。
「よいよい。ではまた後ほど寄らせてもらうでな」
そう言って酩酊が錫杖を手に立ち上がると老婆は慌てて隣の女に声をかけた。
「おまえ、こないだ着物を売った銭がまだ残っているだろう? あれを全部法師様に」
女は両手で顔を覆ったまま黙ってうなずくと、立ち上がり板の間へ上がろうとする。酩酊はそれを手で制した。
「あー、そんな気遣いは無用じゃ。別に銭金が欲しくて来たわけではないからのぉ」
「それでは私どもの気がおさまりません! 僅かばかりではございますがせめてものお礼にどうかお受け取りください!」
老婆は引き下がらない。酩酊は困ったような素振りを見せながら荒廃した自身の頭を撫でまわした。
「そこまで言うなら仕方ないの……じゃがそれを受け取るのは倅さんから瘴気を完全に退けてからとしよう。それでよいな?」
「ええ、ええ、もちろんでございますとも!」
老婆の言葉に酩酊は軽くうなずくと富士重に次の病人のもとに向かう旨を告げ、歓喜に高揚する家人に見送られながら家を出てゆく。茜と藤一郎もつられるようにそのあとを追った。
「次の家はどこかの?」
「ここから近いのは……確かそこの坂を上った先にある三軒目の家ですね」
気取った様子もないままごく自然体で歩く酩酊を前に富士重は言いようのない感動を覚えていた。
「それにしても素晴らしい御祈祷でした。あれほど苦しんでいた人をああも見事に快癒させてしまうとは……法師様のお力には心底感服いたしました」
「……まぁ実際驚いたが、結局銭は取るんだな」
後ろを歩く藤一郎が湫野宿のほうに目を向けながら酩酊に聞こえるように声を上げる。茜は「おい」と藤一郎をたしなめた。
「ほっほっほ、多かれ少なかれ人には瘴気がまとわりついとるもんじゃ。そんなものを払いきろうと思ったら常に張り付いて祈祷を続けにゃならん。そのような面倒事、忙しい拙僧にはとても付き合いきれん」
「なんだと?」
「もちろん祟りによる瘴気は払いきるつもりじゃが、あの男が天寿を全うするまで瘴気を払い続けてやるつもりなどない。約束を果たせない以上、拙僧の懐に銭が落ちることもなさそうじゃな。いやはや残念、残念、残念至極」
あっけらかんと残念がる酩酊に藤一郎は言葉を失う。茜は思わず吹き出すと、それを取り繕うかのように酩酊に問いかけた。
「酩酊殿、御剣神社の記録によると例のツチガミサマとやらは百八十年前に山の洞穴に封じられた妖らしいのですが、それが何の理由も無く突然目覚めたというのも解せぬ話です。私には何か作為的なものが働いているように感じられるのですが、酩酊殿はどう思われますか?」
「作為的かどうかは分からんが年を経て封印術の力が弱まってしまうというのは普通にあることじゃよ。それと村人に病を振り撒いておるのは山野に住む“野槌”という妖怪じゃろうな。土地によっては“ツチノコ”などとも呼ばれ危険な妖怪には違いないのじゃが人に退治できぬほどの大妖怪というわけでもない。拙僧に言わせれば妖を封じ込めるだけの力を持つ者が野槌を退治できなかったというほうが解せぬ話じゃがな」
「なるほど……それで、その野槌という妖怪は黒い体毛に覆われた巨大なケムシのような見た目で、近寄る者に病を振り撒き、触れた者には死を与えるという妖怪で違いないですか?」
「そんなところじゃ。まぁ巨大といってもせいぜい二、三尺(約60~90センチメートル)程度のはずじゃがな。とはいえ……」
そこまで話すと酩酊は足を止めて茜のほうを振り返った。
「何か?」
「やけに強すぎるんじゃよな、呪いの力が」
酩酊の言葉は茜に言いようのない悪寒を感じさせた。
「それはどういう……?」
「症状と瘴気の質からして野槌の仕業に間違いはないはずじゃが、その瘴気の濃度があまりにも濃すぎるんじゃ。正式な法具や護摩壇が無かったとはいえ解呪の祈祷にこれほど手間がかかるとは正直思わなんだわ」
「何者かが野槌に力を与えているということでしょうか?」
「もしくは妙に力を持った個体というだけやもしれぬ」
やはり導鏡またはその手の者が野槌を目覚めさせ災害の規模を広げるためにも何らかの力を与えたのだろうか? しかし、そうなるとなぜその者は洞穴の封を解かなかったのだろう……思いのほか強力な力に手が出せなかったとでもいうのか? それとも他に何かしらの理由でもあったのだろうか? 茜は導鏡を縦糸として様々に思考の糸を絡めてみるが、現時点で分かっている事柄だけでは明確な確信を編み込むことができずにいた。
「いずれにせよ今は病に苦しんでいる者を救うことが先決じゃ。嬢ちゃんや、この様子じゃと拙僧たちが宿に向かうのはもう少し先になりそうじゃ。すまんが家のご主人にはその旨を伝えておいてもらえるかの?」
「承知しました」
茜と藤一郎は獣道のような坂を上ってゆく酩酊と富士重を見送りながらしばらくの間呆然と立ち尽くしていた。
「翠扇様これからいかがいたしましょうか?」
藤一郎が問いかけるも茜に返事は無い。
「……僭越ながら申し上げますと、これまで見聞きしてきた限りにおいてこの村の祟り云々に関しましては導鏡との関連性は薄いかと思われます。心配される翠扇様のお気持ちも分からなくはありませんがあまり気に病まれないほうがよろしいのでは?」
そうなのだろうか? 確かに現時点では導鏡の仕業と断定する根拠は見当たらない。しかし……。喉に残る小骨のような違和感を感じながら茜は黙り込む。その目は既に小さくなった酩酊たちの後ろ姿を見つめていた。
辺りに夜の気配が漂いだし村内の家々に夕煙が立ち上り始めた頃、酩酊は与平の家に顔を出した。
「いやはや思いのほか遅くなってしまったわい。義理堅いのも結構じゃが度を超えると始末に困るのぉ……」
苦笑いを浮かべた酩酊は草鞋を脱ぐことなく板の間に腰を下ろした。近くの竈ではサチが焚きあがった玄米をほぐしている最中であった。茜たちと雑談を交わしていた与平は立ち上がると、酩酊に近づきその場で平伏をした。
「お坊様、村の者のために骨を折ってくださったそうでありがとうごぜぇます。丁度今米が炊き上がったところなんで上がって夕食を召しあがってくだせぇ」
「おお、それはありがたい。丁度腹が減っていたところじゃ」
酩酊は嬉しそうに答えると草鞋を脱いで板の間へと上がった。
「そのご様子ですとうまく事が運んだようですね」
藤一郎の隣に腰を下ろす酩酊に茜が語りかける。
「そりゃ当然じゃ。拙僧のありがたい祈祷を受ければどんな病魔もたちどころに退散してしまうわい」
「相変わらず口の達者なじいさんだな」
藤一郎は呆れたように言い放つが、その顔には僅かに笑みを浮かべていた。




