第二十二節.当意即妙の護摩修法
「それではそのツチガミサマを封じた注連縄とやらが断たれてしまったのですか?」
茜が問いかけると与平は激しく首を左右に振るった。
「いえいえ、洞穴を見にいった命知らずの若い衆が言うには注連縄は張られたままだと」
「ではなぜ?」
「それが分からねぇんです。俺もこの村に生を受けて三十年を越えますが、ツチガミサマの祟りなんて見たのは初めてのこって……なぁ?」
与平が目を向けると、サチは言葉無くうなずいた。
百八十年前に封じられた妖がある日突然目を覚まし、閉じ込められた洞穴の中から次々と村人を祟り殺してゆく。その不可思議な出来事に茜はしばし頭を悩ませたが、やがてふとした拍子から浅からぬ記憶の淵より類似性を持つ一連の事柄を汲み上げていた。
「……まさか、これも導鏡の仕業ではあるまいな?」
「導鏡の? まさか……いや、しかし……」
茜の突飛な発言を受け反射的に異を唱えようとした藤一郎であったが、それでもあの悪僧の所業を思い起こしてみるにあながち考え違いとは断ぜられずにいた。中州国で同時多発的に引き起こされていた妖による動乱。その首謀者と目されている導鏡がここ三野国でも同様の活動を開始したとでもいうのだろうか? 判断に窮した藤一郎はその答えを乞うように茜に問いかける。
「しかし翠扇様、導鏡がこのような辺境の村に災いを引き起こす理由とは?」
「あんな妖怪坊主の考えなど私が知るか。だが実際にあいつは中州国の各所で騒動を引き起こしていたと陶尽坊も言っていたではないか」
「それは私も聞きましたが……」
「酩酊殿の一件は思い違いではあったが、あの畜生坊主め、やはり三野国でも災いを引き起こそうとしておったに違いない。……おい、まさか大ムカデに襲われたのも――」
「いえそれはさすがに! あれは私の落ち度でございますゆえ」
「……そうか……しかし三野守様も最近は各地で妙な騒ぎを聞くと言っておられた。もしかすると既に導鏡がこの国で暗躍しているのかもしれん! 私としたことが迂闊であった……おい、すぐに三野守様の屋敷に戻るぞ!」
急に立ち上がる茜に藤一郎は肝を潰した。
「は?! あ、いえ、お待ちください翠扇様! いくら何でも考えが飛躍しすぎかと……もう少しツチガミサマのことについて調べてからでも――」
慌てた藤一郎が引き留めようと口を開くと、見下ろす茜の眉間には深いシワが刻まれていた。
「姫宮……お前の言う通りだ。いくら国が違うとはいえ今現在導鏡によって苦しめられている村人を見捨てて行くなど、どうかしておった……」
「え? あの、まだ導鏡の仕業と決まったわけでは……」
茜は再び腰を下ろすと、意味も分からず当惑している与平夫婦へとその険しい顔を向けた。
「ご夫婦方、最近ツチガミサマ以外で村に変わったことは起きておらぬか? 例えば見てくれだけは立派そうな坊主が訪ねてきたとか、村人が神隠しにあったとか」
穏やかな口調の中にも言い知れぬ威圧感を感じ取った与平は追われるようにここ最近の出来事に思いを巡らせてみた。
「いえ、あのぉ……見ての通りここは本当に何も無ぇ村でして、ツチガミサマの祟り以外に別段変わったことなんて……そういえば、二日ほど前に村の沙汰人様が助けを乞いに三野守様のお屋敷に向かたそうですが……」
「沙汰人が村の窮状を訴えるのは当然であろう! そういう話をしているのではない!」
茜が声を荒げると与平夫婦はすくみ上がり謝罪の言葉を繰り返しながら平伏する。見かねた藤一郎が咄嗟に「翠扇様」と声をかけた。
「……あ、いや、取り乱してすまぬ……うん、そうだ、そういったことで良いのだ。他に変わったことは思い当たらぬか?」
夫婦は|恐縮したまま額を床に擦り付け「申し訳ありません、他には何も……」と、か細く答えるばかりである。こう萎縮されてしまっては出る話も出てこないだろう。茜は興奮のあまり見境を失ってしまった自分に反省しつつ「そうか、いや何もないならそれでよいのだ。そうだな、何もないことが一番だからな」と月並みな言葉で質問を切り上げた。
一向に頭を上げようとしない夫婦を前に何とも居心地の悪さを感じた茜は、酩酊の様子を窺うべく藤一郎を連れて与平の家を出た。村の家々は小高い丘の斜面に点在しており、与平の家は棚田に最も近い村の南東側に立っていた。未だ立ち上る葬送の狼煙を見上げながら茜たちは農村の細道を歩き出す。ツチガミサマの祟りに臥した者の家は与平の家を訪れる前に確認済みであった。
一軒の葛屋(かやぶきの家)の前に立ち止まった藤一郎は二度三度と軽く戸を叩く。中から「はい」という女の声が聞こえ、しばらくして戸は開いた。
「先ほどはどうも。……ご主人のお加減はいかがか?」
戸口に立つ若い女は泣き腫らしたまぶたをこすりながら「あ」と声を漏らし屋内へと目を転じる。藤一郎がその視線を追うと幾分火勢が強い囲炉裏とその前に座る酩酊の姿が見えた。酩酊は両手に密印を結びながら小声で何かを口走っているようで、囲炉裏を挟んで左側には粗末な布団にくるまった若い男が妙に黒ずんだ顔に苦悶の表情を浮かべながら横たわっている。
酩酊の背後では正座をした富士重が目の前で祈祷を行う老僧の様子を食い入るように見つめており、さらに後方、土間のほうに目を移すと硬い土の上に膝をついた白髪の老婆が合掌した手をこすり合わせながら「ナンマンダブ、ナンマンダブ……」と一心不乱に念仏を唱え続けている姿が見て取れる。老婆の横には兄妹と思しき幼い二人の子供が座り、老婆を真似て手を合わせつつも興味深そうに囲炉裏の炎を見つめているようだった。
「失礼する」
藤一郎は立ち尽くす女に構わず家の中へ入ると富士重のそばへと近づき声をかけた。
「どんな様子だ?」
「それが、ずっと祈祷に専念されたままで……」
「そうか……しかし本尊も無いまま護摩焚きもなかろうに……」
酩酊の小さな背中を見つめながら藤一郎はつぶやいた。
村の者に案内され初めてこの家にやってきたとき、酩酊は寝込んでいる男の顔を見るなりすぐに囲炉裏を焚き始めると富士重に声をかけ乾いた薪から数本の護摩木(お供えとして焚かれる薪)を作らせた。家の者が呆然と見守る中、酩酊は囲炉裏の前に座り込むと真言(呪術的な語句)らしきものを口にしながら多様な手印を流れるように結び始める。その場の誰もが酩酊の一言一行に目を奪われる中、陰鬱としていた屋内にはいつしか寺院のような清浄で厳かな空気が満ちあふれていくようであった。
普段笑いジワに埋もれている目は険しく引き締まり、射るような視線を囲炉裏の炎に向けたまま途切れることなく呪いの言葉を発し続ける酩酊。やがて用意された護摩木の札を手に取ると懐から矢立て(携帯筆記具)を取出し複雑怪奇な字句を一気呵成に書き上げる。呪いの言葉はせせらぎのように絶えず流れ続け、札は礼拝の後に火中へと投じられた。
患者の脇で悲嘆の相に取り憑かれていた母親と思しき老婆は、記憶の奥底に沈んでいた阿弥陀如来像の尊顔を老僧の横顔に重ね合わせる。老婆は突如立ち上がり裸足のままヨロヨロと土間に下りてゆくと一縷の希望にすがりつくように老僧の背に手を合わせながら懸命に念仏を唱え始めていた。
一心に祈祷を続ける酩酊と次々と土間に下り仏の慈悲を願う家族を前に、富士重はただ立ち尽くすばかりであった。




