第十節.逃げるは恥だし癖になる
泥の上を滑るように這い寄る大ムカデはまたたく間に鷹丸の目前まで迫ると、その大きな頭を持ち上げ勢いそのままに覆いかぶさろうとする。襲来する口元には鷲の爪にも似た巨大な顎肢(攻防に用いる一対の毒針)が獲物を刺し捕らえようと大きく開き、襖戸のように広げた恐ろしげな顎が鷹丸の視界を埋めつくした。
「っく!」
その迫力に圧倒された鷹丸は太刀を振るうことも忘れて倒れるように左へと飛び退いた。鷹丸を捕らえそこなった大ムカデは振り返ることもなく鷹丸の横を通過していく。安堵感も束の間、鷹丸は慌てて大ムカデの進行方向に目を向けた。その向かう先には固まるようにして立つ茜たちの姿があった。
「やべぇ! 翠扇様逃げてください!」
鷹丸が声を上げるよりも早く藤一郎は段平を振り上げる。しかし力任せに振り下ろされた段平は鎧のような甲殻に弾かれその胴体を断ち切ることはできなかった。
「クソが!」
怒号を上げながら藤一郎は振り被り再度大ムカデの背を打つ。茄蔵も何とかして掴まえてやろうと大ムカデの胴体ににじり寄るが複雑に動く脚に邪魔され思うように手が出せない。そうこうしているうちに大ムカデの頭は茜たちのすぐそばまで迫り、再び鎌首をもたげながら一同に襲い掛かった。
「飛べ!」茜の掛け声と共に一同は左右に飛び退く。またも獲物を捕らえそこなった大ムカデは茜たちの間をすり抜けつつ大きく旋回を始めていた。
「姫宮様、尻尾!」
鷹丸の声に藤一郎が大ムカデの尻に目を向けると、抱擁を求める二本の曳航肢がすぐそこまで迫っている。慌てて体を引いた藤一郎だったが、沼地に足を取られ仰向けのまま倒れてしまった。
「畜生、ちっとも刃が食い込まねぇ! こんなもん、どうやって退治すりゃあいいんだ?!」
「関節を狙いましょう!」
「止まってるならまだしも早すぎて無理だ!」
「じゃあ腹を狙って――」
「アホがっ! 這いつくばってる相手の腹をどうやって狙うんだ! “ちょっと仰向けになってもらえますか?”とでも頼むのか?!」
「いやそれは……」
藤一郎が捨鉢気味にわめいている間にも大ムカデは方向転換を終え、再び茜に向かって突進を開始していた。
「来るな気色悪い!」
茜は一刻も早く沼から抜け出そうと気を逸らせるが泥に足をとられ思うように走れない。藤一郎たちも茜の援護に向かおうとするもやはり足場の悪さに邪魔をされ気持ちばかりが先行する。
「おい、そいつを止めろ!」
誰に向けるでもなく藤一郎が吼える。
「ほれほれほれ、早く逃げねば食ってしまうぞ? ほほほほ」
捕食者としての余裕からか大ムカデはやや速度を落としつつ茜の背後まで迫る。もう逃げられないと悟った茜はその場でクルリと振り向くなり懐から黒塗りの短刀を取り出すと、その刃を大ムカデに向けて突き付けた。おおよそ脅威とは捉え難いその姿を目にしながら大ムカデは突如足を止め、持ち上げた頭をゆっくりと揺らしながら茜を見下ろした。
「ほほほほ、もう逃げられぬぞ」
「黙れ! 逃げられぬのはお前のほうだ化け物ムカデ! この私が直々にお前を退治してくれるわ!」
「まぁまぁなんと勇ましいこと。それではお望み通り退治していただきましょうか」
倒れ込むように大ムカデの頭部が茜に迫る。茜は咄嗟に背後へと飛び退くが、着地と同時に足を滑らせそのまま倒れ込んでしまう。大ムカデは再び頭を持ち上げると倒れる茜の顔にその頭を近づけた。
「悪あがきは終わりじゃ。どうれ、このままゆっくりと食ってやろうかの」
目の前で巨大な顎が開閉を繰り返す。茜は意を決して大ムカデの顎下に小刀を突き立てた。ところが小刀は大ムカデを刺し貫くどころかその表面に傷一つ付けることすら叶わなかった。大ムカデは触覚の一本を使って茜の小刀をはね飛ばすと「無様なことを」とあざ笑う。――もはやこれまでか、茜が覚悟を決めたその瞬間、大ムカデは弾かれたように頭を振り上げた。
「痛っ! 何じゃ?!」
謎の痛みに大ムカデは背後を振り返った。そこには大ムカデの背にまたがり甲殻の合間を狙ってこれでもかと錫杖の先を突き刺す富士重の姿があった。
「南無阿弥陀仏! 南無阿弥陀仏!」
念仏を唱えながら一心不乱に杖を抜き差しする富士重。甲殻の間からは青黒い血が流れ始めていた。
「おのれ下郎がぁ! わらわの体に傷をつけたな?!」
激昂した大ムカデは大きく体を反らせて走り出すと、背に乗る富士重を振り落そうと激しく蛇行を始めた。富士重は突き刺した錫杖にしがみつきながら何とか落とされまいと踏ん張ってはいたが、やがてその錫杖も激しいムカデの動きに耐えきれず甲殻の合間からすっぽりと抜けてしまう。踏ん張りどころを失った富士重は間もなくその背から放り出され、錫杖もろとも泥土の中へと落とされてしまった。
「兄貴!」
「富士兄ぃ!」
鷹丸と茄蔵は急いで富士重のもとへと駆け寄ると、泥の中からその身を引き起こした。
「大丈夫か兄貴?!」
「あ、あぁ。なんとか……」
「でもすげぇな富士兄ぃ、あんな化け物に傷を付けるなんてよぉ」
「姫様を救おうと必死だったかからな……こんな恐ろしい思いは二度とごめんだ……」
富士重は疲労困憊といった様子で、膝頭を押さえながら前のめりに息を荒げていた。
「鷹坊! 早くしろ、こっちだ!」
声のほうに目を向けると大股で走る藤一郎が間もなく沼地を抜けようしているところだった。その先に見える木の下では避難を終えた茜たち三人も声を上げて鷹丸たち兄弟を呼んでいる。
「茄蔵さぁん! 早くぅ!」
「富士重ぇ! 急げぇ!」
「お~い、こっちじゃこっちじゃ」
「兄貴、動けるか? 化け物をうまいこと何とかして一気にあそこまで走るぞ」
方向転換を終え怒涛の勢いでこちらに向かって来る大ムカデを見据えながら鷹丸が言う。
「鷹丸、もう少し具体的な方策を提示してくれ……でも分かった」
「富士兄ぃ、来たぞぉ!」
大ムカデは僅かに頭を上げたまま二本の顎肢を槍のように構え三兄弟の近くまで迫っていた。富士重は泥中に沈む錫杖の存在を足先で確認すると、遊環のついた頭部を右足で踏みつけた。
「鷹丸、茄蔵下がれ。アイツが直前まで来たらお互い左右に飛んで避けるんだ、分かったな?」
「分かった。それで兄貴は?」
「大丈夫だ。俺に一つ策がある」
その言葉を聞き鷹丸と茄蔵は富士重の背後に下がる。
「……うまく逃げろよ」
富士重は小声でつぶやいた。顔からは血の気を失いながらもその目に迷いは無い。後方に引いた弟達は富士重のつぶやきも届かぬまま、いよいよとなれば長兄をかばい大ムカデと刺し違える覚悟で事の成り行きを見守る。
巨大なムカデの頭が目前まで迫った時、富士重は両手を泥の中に突っ込むなり踏みつけた端を支点にして杖を一気に引き上げた。突如沼地より姿を見せる鋼鉄の穂先。大ムカデが富士重を巻き込みながらも自らの勢いによって刺し貫かれるかと思えたその瞬間、
「うつけが」
大ムカデは身をよじらせると、突き出した錫杖を避けるように富士重の側面へと進路を移した。
「浅薄……そんな罠に引っかかるとでも思うたか? 度し難いのぉ」
大ムカデはゆらゆらと顔を近づけながらあざ笑うと、そのまま大きな顎を開き富士重の頭を咬みちぎろうとした。
「危ねぇ!」
咄嗟に富士重の衣を掴んだ茄蔵が力に任せて引き寄せる。獲物を失った大ムカデは勢いそのままに頭を落とした。
「度し難ぇのはテメェだ!」
泥土を跳ね上げ大ムカデへと迫った鷹丸がその寄り固まる目玉を狙って太刀を突き立てる。片目を潰された大ムカデは人の声ならざる絶叫を上げると同時に、刺さった太刀をそのままに大きくのけぞりながら激しくのたうち回った。
「走れ! 走れっ!」
沼の先から藤一郎が叫んだ。それを聞いた鷹丸が「兄貴、茄蔵行くぞ!」と声を上げ藤一郎たちのほうへと走り始める。残りの二人もそれに続いた。背後では依然として大ムカデが巨体を悶えさせており、兄弟たちを追って来る気配はない。ぬかるむ足場に疲弊しながらも三兄弟は何とか藤一郎たちと合流を果たした。
「このままやり合ったところで分が悪すぎます。一旦退却しましょう!」
藤一郎は茜に向かって訴えた。
「待て姫宮、大切な刀が沼の中に!」
「え?」
茜の言葉に藤一郎は再び沼に目をやるが、一見したところそれらしい物は見当たらない。それどころか暴れまわっていた大ムカデが冷静さを取り戻した様子で、藤一郎たちを見つけるなり怨恨の言葉を吐き散らしながらこちらへと向かってくる姿が見える。とてもではないがこの状況下で埋没した小刀を探してなどいられない。
「刀は必ず取り返します。しかし今は御身の安全が第一! ……失礼いたします!」
そう言うなり藤一郎は有無を言わさず茜を右肩に担ぎ上げると、一同に「こっちだ!」と叫ぶなり森の中へと走り出した。




