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稲穂の国を渡らえば、珍々聞々奇々聞々  作者: 一二三 五六七
第二輯 唄う坊主に踊る公家、刀が誘う夢街道
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第九節.ムカデ御前

 ――何だろう? 気配は感じないのにすごく嫌な感じがする……。


 茄蔵に抱えられていた慈螺は得体の知れない違和感に襲われていた。しかしどれだけ周囲に注意を向けてみても違和感の正体が判然としない。


 ――茄蔵さんに教えたほうがいいのかな……でも、ただの気のせいかもしれないし……。


「どうかしたのか慈螺?」


 落ち着かない様子の慈螺を心配して茄蔵が声をかける。慈螺が不安そうに「ニャー」と小さく鳴いたその時、先頭を歩く藤一郎の足が突如止まった。


「……何か聞こえねぇか?」


 そう言うと藤一郎は不審そうに周囲を見回した。


「そういえば何か妙な音が……」


 鷹丸も同調するように辺りに注意を向ける。一同がその場に立ち止まり周囲の物音に耳を傾けていた。


「歌声……?」


 富士重がつぶやいた。微かに聞こえてくるその音は高音域に強弱を交えながら律動的に聞き取れる。韻律とも感じられるその響きは確かに女性的な歌声にも似ているようだった。誰もが言葉を失ったまま正体不明の歌声に意識を集中していると、やがて藤一郎が前触れもなく沼のほうへと歩き始めた。不審に思いながらも慈螺が眺めていると、鷹丸までもが藤一郎の後を追うように沼へと向かってゆく。表情に色も無いまま、まるで誘われるように沼地の中心に向かって歩いてゆく二人。慈螺は二人を呼び止めるように大きく鳴いた。


 そうこうしているうちに今度は慈螺を抱いた茄蔵までもが沼に向かってゆっくりと歩き始め、次いで茜、富士重、酩酊もそれに続いた。慌てた慈螺は茄蔵を見上げるが、生気の無いその目はどことも知れぬ先を見つめているだけであった。いつしか歌声は音を強め、今でははっきり聞き取れるほど周囲に響き渡っている。


「ニャッ?! ニャー! ニャー! ……茄蔵さん! しっかりしてください茄蔵さん!」


 慈螺は小さな前脚をバタつかせながら必死に呼びかけるが茄蔵からは何の反応も帰ってこない。やがて沼の先がにわかに泡立ち始め、ややあってその水面から大きな柱状のモノが徐々にせり上がってくる様子が見えた。


 ――あれは……?


 慈螺が凝視していると柱は鎌首をもたげた蛇のようにその先端をこちら側に曲げた。泥水に濡れた長い胴体には不規則に動く無数の脚が左右に並び、くすんだ朱色の顔を覆うように巨大な二つの顎が不気味に開閉を繰り返す。見えている部分だけでも二間(約3.6メートル)はありそうなその巨大なムカデは、大きな二つの触覚を楽しそうに揺らしながら一同の到着を待ちわびているようだった。


「ムカデの化け物?! 茄蔵さん! 茄蔵さんったら!」


 慈螺の呼びかけも虚しく茄蔵は無言のまま大ムカデの元へと引き寄せられてゆく。


「茄蔵さん! ……茄蔵さんごめんなさい!」


 慈螺は大きく牙をむくと自身を抱き抱えている茄蔵の腕に勢いよく噛みついた。


「いだっ! な、なんだぁ?!」


 痛みに我に返った茄蔵は思わず慈螺をその場に落とした。泥の中に落下した慈螺は直後に椿姫の姿へと変身する。


「茄蔵さん! よかった、気が付いたんですね!」


 泥だらけの椿姫が茄蔵に抱きつく。茄蔵は何が起きたのか分らぬまま呆然と立ち尽くしていたが、やがてその視界に映り込んだ大ムカデの姿に驚きの声をあげた。


「なんだありゃ?! こりゃぁ……でっかい、ムカデだなぁ……」


「茄蔵さん、皆さんが! 皆さんが!」


 今一つ状況が飲み込めない茄蔵であったがそれでも大ムカデのもとを目指して沼の中を歩いてゆく一同の姿に異様な雰囲気を感じ取ると、慈螺をその場に残し先頭を行く藤一郎のそばへと駆け寄った。


「毘沙門さん、おーい毘沙門さんよぉ、しっかりしてくれよ!」


 肩を掴み揺り動かしてみるものの藤一郎は尚も前へ前へと進もうとするばかりである。何とか歩みを止めさせようと説得している茄蔵の横を、やはり抜け殻のようになった鷹丸が通り過ぎようとする。


「鷹兄ぃ! 鷹兄ぃよぉ! どうしちまったんだぁみんな」


「姫様ごめんなさい!」


 慈螺の声と共に背後で「パンッ」という乾いた音が聞こえた。


「痛っ?!」


 茜は頬を押さえながら困惑した様子で慈螺を見つめた。慈螺は正気に戻った茜に怒りをぶつけられながらも今の状況を必死に説明しているようだった。


「そうかぁ、ぶっ叩けばいいんだなぁ!」


 言うが早いか茄蔵は藤一郎の左頬を力いっぱいはたきつけた。勢いよく沼へと倒れ込む藤一郎をそのままに、振り向きざま今度は鷹丸の頬をはりつける。茄蔵の一撃に体勢を崩した鷹丸もまた無様に泥土の中へと落ちていった。


「いてぇ! な、なんだ一体?!」


「いったぁ! って…うわっ、泥だらけじゃねぇか?!」


「よかったぁ、気が付いたみてぇだな」


「よかった? 何も良かねぇよ! 頬っぺたは痛ぇし泥まみれだし、何がどうなってんだ茄蔵?!」


「俺にもよく分んねぇけどよぉ、皆して寝ぼけたみてぇになっちまってよぉ。そんで、あれ」


 そう言って茄蔵は大ムカデを指さした。ゆらゆらと揺れる大ムカデの巨体を目の当たりにし、一気に我に返った藤一郎と鷹丸はぬかるんだ足場に難儀しながらも慌てて立ち上がり身構えた。


「な、何だよあの化け物は……」太刀の柄を握りながら鷹丸が言った。


「何だかよく分からねぇが、あまりいい状況じゃなさそうだな……」と、鋭い視線を大ムカデに向ける藤一郎。


「皆さんあの大ムカデの妖術にかけられていたんです! あいつは歌で皆さんを幻惑して沼の中へ誘い込もうとしたんだと思います!」


 正気に戻った茜たちのそばで慈螺が興奮気味に声を上げる。鷹丸は一瞬慈螺のほうを振り返ると再び大ムカデに目を向けた。


「歌で……そりゃあ……お前のへっぽこ妖術よりよっぽど上等だな……」


「うるさい鷹丸!」


 怒る慈螺を背に「でもよぉ慈螺のおかげであのムカデに捕まらずにすんだろぉ?」とその働きを認めるよう茄蔵が促すと、藤一郎が「そうだな、助かったぞ慈螺」と感謝の声を上げる。すると鷹丸も含み笑いを浮かべながら「全く大した猫ちゃんだよ」と小さくつぶやいた。


「黙って見ておれば騒がしいこと……猫又風情が、要らぬ世話を焼きおって」


 奇妙な響きを持つ女性の声が僅かな怒気を伴って大ムカデから発せられる。


「そちのおかげで寂々(せきせき)とした食事の一時(いっとき)が台無しじゃ。その(とが)、きっちりと(あがな)ってもらうぞ」


 大ムカデは泥の上に体を伏せると、長い触角の下についた四対の単眼を慈螺に向ける。慈螺は怯えながら富士重の背後へと隠れた。


「おい化け物ムカデ、そんな木っ端妖怪を威嚇したところで箔を落とすだけだぜ。今からこの俺が退治してやるから覚悟しろってんだ」


 鷹丸は太刀を引き抜き正眼に構えるとその切っ先越しに大ムカデを睨みつけた。


「鷹坊、血気にはやって油断すんじゃねぇぞ」


 藤一郎も大きな(なた)のような段平(だんびら)を抜き放つと鷹丸と並んで大ムカデに対峙する。


「ほほほ、活きの良い人間だこと。食事は粛々と行うのがわらわの主義じゃが、たまには逃げ惑う者たちを追い回し荒々しく食い散らかしてみるのも興があって良いかもしれぬな」


 大ムカデは埋もれた半身を軸に大きく弧を描くように這い回ると、やがて残りの半身が泥中より姿を現す。その全長は六間(約11メートル)に迫るものがあり、体幅(たいふく)にしても二尺(約60センチメートル)を優に超えている。泥を被りながらも金属のように黒光りする甲殻を連ねた大ムカデは値踏みをするようにゆっくりと一同を見回すと、やがて末端から伸びる曳航肢(えいこうし)(胴体の末端にある触覚のような脚)を持ち上げ、鷹丸を目指して一直線に這いだした。


「来た来た来た来た!」


「落ち着け、鷹坊!」


 威勢の良いことを言ってはみたもののいざ這い寄る巨体を前に鷹丸は当惑していた。何せ立つモノを斬る術は数多に心得ていようとも、伏せているモノに対処する術など一つも持ち得てはいない。闇雲に太刀を突き立てたところであの硬そうな甲殻を貫けるかも怪しいものだ。無数にある脚の一本や二本を斬り落としたところで事態が好転するとも思えず、何とか胴体の関節を狙って断ち切りたいところだが重なり合った甲殻の合間からうまく斬りつけられるかどうか…………何よりくるぶしまで満ちた泥が逐一行動に制限を加えてくるため簡単な体さばきさえ困難だ。


 数々の難題を抱えながらも鷹丸は己を奮い立たせると、迫り来る大ムカデに対処すべく太刀を引き姿勢を落とした。

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