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稲穂の国を渡らえば、珍々聞々奇々聞々  作者: 一二三 五六七
第一輯 春に少女が降る年は、麦を刈らずに悪を狩れ
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第三十六節.富士重の験力

「一か八かだっ! お前ら、走り抜けるぞ!」


「だから死んじまうって! 落ち着けよオッサン!」


「アホがっ! こんなときに落ち着いてられっかよ!」


「……一つ方法があります。しかしうまくいくかどうか」


 その言葉に一同の視線が富士重に集中する。


「どうするんだ富士兄ぃ?」


「火に対抗するならば水。……請雨経法(しょううきょうほう)を行ってみよう」


「しょうう……? なんだそりゃ?」


「分かりやすく言えば"雨乞い”です」


「あ、雨乞い? オメェできるのか?!」


「以前村の住持様から教わったことがあります。うろ覚えですが、やってみましょう」


「うろ覚えって……大丈夫なのかよ?」


「そういやぁ日照りで村の田が干上がったときはおっしゃん(和尚さん)がよく雨乞いをしてくれたっけなぁ」


 茄蔵が思い出したようにつぶやいた。


「そりゃすげぇ! それで、雨はすぐ降るのか?」


 茄蔵は何かを喋ろうと口を開くも、無言のままじっと富士重を見つめている。


「おい、何で黙ってんだ茄坊?! 雨はすぐ降るのかよ?! おい?!」


 茄蔵は答えない。しびれを切らした毘沙門は鷹丸にも同様の質問を投げかけるが、当人は「大丈夫だ、兄貴なら大丈夫だ……」と、うわごとのように繰り返すばかりで一体何がどう大丈夫なのか全く信用がならない。そうこうしている間にも炎環は容赦なくその半径を狭めつつあり、いよいよ覚悟の決め時かと毘沙門が炎の壁に向かって身構えたその瞬間――


 赤々と燃え上がっていた炎は突如として姿を消し、むせ返るような熱気から解放された毘沙門は夕暮れ時の澄んだ空気をその胸にいっぱいに吸い込んでいた。再び目の当たりにした境内はまるで何事も無かったかのような物寂しげな静けさをたたえており、呆然と見渡すその先には離れた場所からこちらを見つめる武士達や庫裡の入り口で手印を結ぶ円海の姿が映り込んでいた。


「ウソだろ……雨乞いが、利いたってか……?」


 毘沙門が信じられないといった表情で空を仰ぐ。当然雨雲などは影も形も存在せず雨が降った形跡も見て取れない。


 驚いているのは毘沙門だけではなかった。いわんや鷹丸と茄蔵も狐狸(こり)に化かされたような表情でキョロキョロと周囲を見回しており、雨乞いを行っていた富士重ですら天地間に視線を往復させながら事の成り行きに戸惑っているように見受けられる。更には敵方である武士達や円海までもが何が起こったのか理解できないといった表情で毘沙門達を見つめており、誰一人として消えた炎の行方について把握できずにいるようだった。


「鷹丸、後ろ!」


 鬼気迫る慈螺の声に弾かれ鷹丸は咄嗟に後ろを振り返る。


 何の気配も感じさせぬまま白衣の娘は鷹丸の背後に立っていた。長い前髪を柳の枝のように顔先へと垂らし、青白い顔に笑みを浮かべながら娘は鷹丸の方を見つめている。奇妙なことに女の体はうっすらと透けているように見受けられ、特に足元に至ってはその輪郭さえも確認することが難しかった。"透けるような肌”とは時折耳にする言葉だが衣まで透けている娘も珍しい。周囲の者も娘の存在に気付いた様子で、その幽霊然とした姿に皆驚きの表情を浮かべながら蝋人形のように硬直していたが、当の鷹丸だけは驚きよりもどこか安心したような様子を見せると、親しげな口調で娘に語りかけた。


「お千代さん? どうしてここに……?」


「え~とですね~、美里宿に来た人が~蔵園で戦がおこりそうだぞ~って話しをしてて~、そういえば~鷹丸さんも~蔵園のお屋敷に~向かうって言ってたな~って思い出しましてね~、それで~ちょっと心配になって~分霊して様子を~見に来ちゃいました~」


「そうだったんですか……あれ? ひょっとして、炎を消してくれたのって……?」


「見に来て~良かったです~」


 千代は鷹丸の問いをはぐらかすように穏やかな笑みを浮かべていた。


「な、何ですか鷹丸、その……その方は……」


 茄蔵の陰に隠れていた慈螺が、親しげに話す二人の姿を見上げながらおずおずと問いかける。


「ん? あぁそうか、兄貴以外会うのは初めてか。この人は大昔の幽霊でお千代さんっていうんだ。美里宿にいたとき知り合った」


「美里宿で幽霊をやってます~千代と申します~。あ、富士重様~、その節は~お世話になりました~」


 千代が丁寧にお辞儀をすると、“ああ、そうでした”といった様子で愛想笑いを浮かべながら会釈を返す富士重。茄蔵は不思議そうに千代を眺めながらも兄につられて頭を下げる。毘沙門に至っては恐怖に顔をひきつらせたまま棒立ちである。


「幽霊? ……違う、そんな……そんなはずない……だって……」


「あ~、可愛い猫ちゃんですね~」


 慈螺に気が付いた千代が腰を曲げながら茄蔵の足元を覗き込む。慈螺は「ひっ?!」と一声鳴くと、身をすくめて縮こまってしまった。その怯え方は尋常ではない。


「……鷹丸さん、一体何をしたんですか?」


 不意に聞こえた円海の声に鷹丸は慌てて背後を振り返った。見れば庫裡の入り口にいたはずの円海が数人の武士を従えながら鷹丸達の近くまで迫っている。更に先程まで毘沙門に気圧されていた武士たちまでもが足早に円海のそばへと合流し、その数は総勢十名にも上っていた。


「何もしねぇさ。きっと仏様が俺達を守ってくれたんだろうな」


「何を世迷言を……しかしまぁ、随分と変わったお仲間がいたものですね。それで全員ですか?」


「さぁ、どうだろうな?」


「フフフ、まぁいいでしょう。とりあえずはこの場にいる全員を捕らえてしまいましょうか」


 その直後、円海は何事かをつぶやきながら目まぐるしい早さで印相を結んでいく。その様子にただならぬ気配を感じ取りながらも鷹丸たちには為す術がない。やがて円海は顔先で片合唱をしながら鷹丸に向かって「縛!」と発した。


 不可解な声を受けて鷹丸は何をされたのかと全身に意識を走らせてみたが別段不調は感じられなかった。体を見回したところで外見的にも問題はなさそうである。鷹丸は不審そうに円海をにらみつけた。


「……何のつもりだ?」


 円海の顔には明らかに困惑の色が浮かんでいた。


「なぜ? 動けないはずだ……先程といい、一体何が……」


「駄目ですよ~。お不動様の力を~悪用しちゃ~」


 千代は鷹丸の横に並ぶと拗ねたような口調で円海に告げる。


「なんだお前は? 成仏もできぬ幽霊ごときが知ったような口を利くな」


 円海は千代に驚く様子もなく喋り続ける。


「……まさかお前が? いや、こんな浮遊霊ごときに私の法力を掻き消すことなどできるはずが……」


「む~、あの人~また私をバカにしてます~? そうやって~酷いことばかり言うと~私だって~ヤっちゃいますよ~」


 ふくれっ面をした千代が恨めしそうに円海を睨む。夜よりも暗い瞳に潜む得体の知れない重圧が有無を言わさず円海に圧し掛かった。次の瞬間、無明の深海に澱む死者の孤独が心の奥底まで浸透し、奈落に反響する怨嗟(えんさ)の叫びが円海の精神を掻きむしる。(むし)のように体を這い上がる不気味な冷気と呼吸もままならぬほどの抑え難い高揚感。円海は顔を青ざめながら無意識のうちに後ずさった。


「み、皆さん何を呆けているのですか! 早くあの痴れ者共を始末してください!」


「し、しかし円海殿、幽霊を相手に一体どう戦えば……」


「何を気弱なことを! あなた方も武士ならば物の怪の一匹くらい何だというのですか! 心配せずとも我々には御仏の加護があります! さぁ早く、まとめて始末してしまいなさい!」


 円海の剣幕に押された武士達は半ば自暴自棄となって千代に襲いかかる。


「何だかよくわからねぇが、斬り合いなら俺の領分だ!」


 毘沙門は単身前へと走り出すと駆け寄る武士の一人を一刀の下に叩き伏せた。


「ありがとなお千代さん、後は俺達に任せといてくれ!」


「は~い、お気をつけて~」


 手を振る千代をその場に残し鷹丸と茄蔵も毘沙門の後に続く。瞬く間に境内は乱戦の様相を呈したが、捨て鉢気味に襲い掛かる相手に毘沙門たちが後れを取るはずもなく、切った張ったの乱痴気騒ぎが鎮まった頃には三人は誰一人のケガ人も無いまま武士の一団を制していた。


「――円海の野郎はどこだ?」


 境内を見回しながら鷹丸は僧侶の姿を探した。


「あの者なら戦いの最中に寺の外へと逃げていきました」


 富士重の言葉に鷹丸が舌を打つ。


「また取り逃がしちまったか……」


「それよりも今は姫君のもとへ!」


 そう言って富士重が足元に視線を送ると我に返ったように慈螺が走り出す。一行は地に伏し呻く武士達をそのままに、庫裡へ向かって走る慈螺の後を追った。

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