第二十九節.悪女の面目躍如
雑木林に到着すると慈螺は茄蔵の手から飛び降りた。振り返り見上げると富士重と茄蔵が無言のままうなずいている。慈螺は二本の尻尾を大きく揺らして答えると、塀のそばにあった適当な木によじ登り始めた。
木の枝を伝って瓦の上に飛び乗った慈螺はそのまま瓦伝いにしゃなりしゃなりと歩き始める。当然野良猫の散歩に警戒心を抱く者などおらず、慈螺は誰にも怪しまれることなく金堂の裏手に当たる北側の塀まで辿り着いた。寺の裏手から境内の様子を窺ってみると、なるほど、金堂の裏に男が一人退屈そうに大あくびをしている姿が見える。
その後も境内の様子に注意を払いながら瓦に沿って東側の塀まで進むと、慈螺は境内にいる男達の人数を把握する。それは門の内と外に一人づつ、不規則に歩き回っているのが一人、それから金堂の裏で暇そうにしていた一人の計四人であった。
――うーん……姫様がいるとしたらどの建物でしょうか?
慈螺は意を決して塀の内側に飛び降りると、庫裡の脇に立つ石灯篭の陰に身を潜めた。そこから壁に沿って這いつくばるように移動をしながら誰にも気付かれることなく庫裡の入り口まで辿り着く。ところが入り口は丈夫な木の扉で閉ざされている上、ご丁寧に鉄の錠まで掛けられている。どうやらここから中に入り込むのは難しいようだ。慈螺はすぐに石灯籠まで戻ると、今度は入り口とは逆の方向から庫裡の周囲を歩いてみた。
警戒しながら建物の周りを一周してみるも、慈螺は再び石灯籠の陰に隠れ大きなため息を漏らした。どれだけ建物を見回しても開いている窓や戸はおろか、縁の下に入り込めそうな場所さえ見つからない。さて困ったぞ、折角境内に入り込んだはいいがこれでは役目を果たせないではないか。慈螺は小さな頭を捻り懸命に考えを巡らせた。
――入れないものは仕方がないか……。
慈螺は庫裡の調査を諦めて金堂へと向かった。ここに茜が居るとは限らない、ならば先に他の二つの建物を調査してしまおう。そこで見つからないようならば改めて入る方法を考えればよいではないか。慈螺は自分の合理的な判断に満足していたが、他の建物も侵入経路が閉ざされている可能性にまでは考えが及ばないようだった。
金堂の入り口付近まで忍び寄ると慈螺は再び難題に直面した。先程まで辺りを歩き回っていた男がいつの間にか入り口横の柱に寄りかかっていたのだ。
――困りましたね、これでは入り口に近寄れません……。
慈螺は身を低くしたまま再び考え始めた。あの男が柱の前から立ち去るのを待つか、それとも周囲に入れる場所がないか調べるべきか? いや待て待て、周囲を調べるにしても金堂の裏にも人間が一人居たではないか。ならば先に護摩堂の方を調べてみるか……いやいや、護摩堂に行くにしても金堂の正面か裏を横切ることになる。慈螺はまるで人間のように眉間にシワを寄せ、しばらくの間思い悩んでいた。
――とりあえず、裏にいた人間がまだ居るか見てきましょうか。
首を持ち上げながら見える範囲に侵入できそうな入り口が無いことを再確認すると、慈螺は素早く向きを変えて金堂の裏手へと向かった。ところが匍匐前進にも似た腹這い姿勢で数歩進んだとき、突如慈螺の脳裏にある思考が浮上する。
――別に見つかってもいいのでは?
尻尾さえ一本にねじり上げてしまえば今の自分はまごうことなくただの猫。この場にそぐわない珍客かもしれないが、少なくとも不審者ではないはず。たしか富士重も言っていたではないか「猫一匹にいちいち構う人間もいないだろう」と。そうだ、恐れる必要はない! 慈螺は恐怖に萎縮する心を懸命に鼓舞しながら四本足で立ち上がった。
意を決して日の下に姿を現した慈螺は横目に男を捉えながらも凛とした動作で淀みなく足をはこぶ。
男が気付いた。見ている……。しかし動く様子は無い。よし狙い通りだ、あとは自然な様子でさりげなく建物の周囲を観察するだけだ。
「にゃお、にゃお、にゃお」
妙な鳴き声と共に男は柱から背を離した。しかも両手を伸ばして慈螺に近寄って来る。
――ちょっと?!
顔面を巡る血液が一気に冷えてゆく。慈螺は咄嗟に走り出した。
――は、話しが違う! ……いや待って! 物珍しさからなんとなく手を伸ばしただけなのかもしれない。慌ててはダメ!
慈螺はその場に立ち止まると勢いよく振り向いた。男は手を伸ばしたまま足早に近づいてくる。
――追ってきてる! 富士重様! 追ってきてますよ富士重様!
再び走り出す慈螺。男は慈螺を追いながらも門の方に向かって嬉しそうに呼びかけた。
「おーい、何か食い物持ってないか?」
「――あ? 何やってんだよお前……」
そんな男たちのやり取りも慈螺の耳には入らない。何せそれどころではないのだ。今は追いつかれることもないだろうが、あの男の目は明らかに自分を狙っていた。怖い。もし追い詰められて捕まりでもしたら……。恐怖に支配された慈螺は、目の前に見える護摩堂の裏手へと逃げ込んだ。
そんな男たちのやり取りも慈螺の耳には入らない。何せそれどころではないのだ。あの男の目は明らかに自分を狙っていた。今は追いつかれることもないだろうが、もし追い詰められて捕まりでもしたら……。恐怖に支配された慈螺は目の前に見える護摩堂の裏手へと逃げ込んだ。
――ダメ……こんな所に隠れていてもすぐに見つかってしまう……
恐る恐る建物の陰から顔を覗かせると、案の定、男は厳つい顔に似合わぬ笑顔を浮かべたままこちらのほうへと向かって来ている。
――どうしよう、茄蔵様どうしよう?!
慈螺は混乱したまま動くこともできず、小さな体を更に小さく丸めてその場にうずくまってしまった。怯える慈螺を余所に、やがて男は護摩堂の前まで到着する。そして外周に沿って建物の裏手へと足をはこぶと、角に体を隠しながら慎重にその先を覗き込んだ。
「あ、……?」
意表を突かれた男は言葉を失った。そこに居たのは茶白柄の猫ではなく、白い小袖に身を包んだ美しい娘だった。
「あぁ! どうかお見逃しください!」
慈螺はすがるような目で男を見つめると小声で訴えかけた。
「ようやく和尚様の目を盗んで逃げ出せたというのに……後生ですからお見逃しください」
「……お前、和尚様の女か何かか?」
「はい……以前近くの村からさらわれて、それからずっとこの寺に閉じ込められておりました……私、もう耐えられなくて、それで……」
僅かに潤ませた瞳に情を動かされながらも、突然の出来事に困惑した男の思考は徐々に平静さを取り戻しつつあった。
「その話本当か? 和尚様にそんな女がいるなど初耳だぞ」
「本当なんです! どうかこの目を見てください。これがウソをついている者の目ですか?!」
慈螺は真剣な眼差しで男を見つめた。引き寄せられるように男の視線が慈螺の瞳へと向かう。
「……そう、もっと見つめてください。もっと……もっと……」
男は虚ろな目をしたままカカシのように立ち尽くしていた。その様子を慈螺が満足そうに眺めている。
――ふふ、私の術も捨てたものではないですね。こういう使い方なら茄蔵様もきっとお怒りにはならないでしょう。あとはこの方に先程の場所に戻ってもらって、今度こそ邪魔されずにゆっくり調査を……。
その瞬間、突然の閃きが思考に突き刺さる。慈螺はハッとしながらもその光明に心を躍らせた。
「あなたはどういった方なのでしょうか?」
「……私は東光寺家の家臣である中富様にお仕えしている上田平八郎と申します」
「境内にいるのはみんなあなたのお仲間なのですか?」
「……はい」
「では上田様、あなた方がこのお寺にいる理由は何でしょうか?」
「……和尚様の密命を受け、捕らえた者が逃げたり連れ去られたりしないよう見張っております」
「そう。その捕らえた者というのは、一体誰ですか?」
「……東光寺の姫君を名乗る不届き者です」
周囲に「パン!」という乾いた音が小さく響く。満面の笑みで自身の膝を叩いた慈螺は両手の拳を強く握りしめながら静かに歓喜していた。




