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稲穂の国を渡らえば、珍々聞々奇々聞々  作者: 一二三 五六七
第一輯 春に少女が降る年は、麦を刈らずに悪を狩れ
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第十二節.函嶺越え

 旅仲間に猫又の慈螺を加えた一行は桜山街道最大の難所とも言われている函嶺峠(はこみねとうげ)へと差しかかっていた。峠を越えた先にある美里宿(みさとじゅく)までは勾配の厳しい山道を四里《約16Km》ほども歩かなければならず、しかもこの区間は警備隊による巡回もほぼ行われていないため旅人を襲う山賊が頻繁に出没することでも有名であった。


 旅立ちの際に旅籠の番頭からそんな話を聞きながらも、さりとて戻る訳にもいかぬ一行は未だ本性を隠す函嶺の峠道を順調に歩き進めていった。


「富士兄ぃ、次の宿場はどんな場所かなぁ?」


 先頭を行く鷹丸が道沿いの茂みを大折檻で()ぎ払いながら話しかけた。


「どうだろうな。小糸宿とそれほど違いは無いと思うがな」


 茄蔵は懐に抱きかかえた慈螺に目をやると「慈螺は行ったことあるのかぁ?」と尋ねてみた。


「私は物心が付いたときからずっとあの神社に住んでいて、町を離れたことはないんです」


「では慈螺さんは随分長い間あの宿場町で暮らしていたのですね?」


 前方を歩く富士重に問いかけられ、慈螺は遠慮がちに顔を前に向けた。


「いえ、まだほんの一年かそこら位です」


「一年?」


 富士重は怪訝な表情を浮かべた。


「猫又は長年生きた猫が転ずる妖怪と何かの書物で読みましたが、違うのですか?」


「さぁ? 私は物心が付いた時には今の姿で神社の軒下におりましたので……様々な知識だけはありましたが、猫だった頃の記憶は全く残っていないんです」


「記憶が無い……妖怪になるというのはそういうものなのでしょうか……」


「ははは、それで食い物代欲しさに人間に化けてたってわけか」


 茶化すように話す鷹丸を慈螺はキッとにらみつけ、「食べ物ぐらい自分で捕ってこれます」と不機嫌そうに答えた。


「でも鰹節欲しさに旅人から銭を巻き上げてたんだろ?」


「鰹節は嗜好品(しこうひん)です! 前にも言いましたが自分では作れないので止むに止まれず――」


「結局食い物代欲しさってことじゃねぇか」


 慈螺は僅かに毛を逆立てながらプイッとそっぽを向くと「私、あの人嫌いです!」と言い捨て不貞腐(ふてくさ)れてしまった。茄蔵が慈螺の頭を撫でながら「まぁまぁ、鷹兄ぃもあんまり慈螺をいじめねぇでくれよ」と言うと、鷹丸は勝ち誇ったような笑みで「ふん」と鼻を鳴らし再び茂みを薙ぎ始めた。


「――どうでもよいが、先程から山道がキツくなっておらんか?」


 無言のまま歩いていた茜が不意に不満を漏らす。函嶺峠は徐々にその牙を茜達一行に剝き始めていた。



 延々と続く険しい山道。鬱蒼うっそうと生い茂る緑の壁に囲まれながら一行は息も絶え絶えに足を動かし続けていた。小糸宿を出た頃の快活さはいつの間にか鳴りを潜め、先人達が踏み固めた道とも呼べぬ道を頼りに皆黙々と前へ前へと進んでいく。足腰はとうに限界を迎え声にならない悲鳴を上げ続けているが、一行の誰一人として足を止める者はいない。極度の疲労は脳の思考活動さえも停滞させ、疲れはおろかあらゆる感情や自我さえも断ち切られた結果、茜達は“道に沿って進む”という単純な意識だけを残した夢遊病患者の集団になり果てていた。


 そろそろ(うま)の刻も終わり頃だろうか、いつしか周囲の木々が広葉樹から針葉樹へと変わり、木立の隙間から差し込む下界の絶景が徐々にその広がりを増していく中、夢遊病患者達は変化に気付く余裕も無くただただ山道を登り続けていく。当然間近に迫る最後の難所のことなど誰も知る由もなかった。


「階段が見えますよ」


 発端は慈螺の一言だった。一行は階段の意味が理解できぬままに登熟(とうじゅく)しきった稲穂のような頭をゆらゆらと持ち上げた。


 誰一人として目の前の光景に反応する者はいなかった。力無く見上げる茜の目にうっすらと涙がにじみ出す。高みへと誘う石積みの道。うねるように急斜面にもたれかかる灰色の大蛇。その絶望的な光景はこれまで茜が守り続けてきた一握りの意識を容赦なく圧し潰していく。


 世に悪名高き松木坂(まつのきざか)。古来より「松の木の 坂を越ゆれば苦しくて 松笠ほどの涙こぼるる」と(うた)われる函嶺峠最大の難所である。


 その難所を前にして一行は案山子(かかし)のように立ち尽くしていた。先に進むためには石段を越えざるを得ないと分かっていても誰一人として前に踏み出す者はいない。




 どれほどの時が流れただろうか? 覚悟を決めた鷹丸は無言のまま石段を登り始めた。見上げることも振り返ることも無く、一段、また一段と大蛇の背を踏み越えて行く。やがて慈螺を抱えた茄蔵も鷹丸の後を追うように石段を登り始める。それでも茜と富士重だけは依然として案山子の矜持(きょうじ)を貫き続けていた。


「……行きましょう」


 富士重が言った。茜は答えない。


「……行きましょう」


 街道に旅人の姿は無く、野生動物の影さえ見当たらない。生い茂る唐松の林は枝に翡翠色(ひすいいろ)の新芽を芽吹かせ、黄や薄紅色の花達が立ち尽くす二人を見守るように顔を覗かせている。


「……行きましょう」


 案山子になった姫を人間に戻すため、富士重は呪文のようにつぶやき続けた。




 踏み下ろした足が不意に虚空を踏み抜き、鷹丸は反射的に顔を持ち上げた。青空が見える。透き通るような清涼な青空。その鮮烈な青い光は干天の慈雨のように鷹丸の心へと()み込んでゆき、荒涼とした意識下に目の前の情景を次々と描き出していく。


 踏破した石段の先は大きく切り拓かれており、そこは崖に面した展望広場のようになっていた。広場の先には街道が続いているが、今までのような殺意すら感じる勾配は影を潜め比較的平坦な道が伸びているように見える。唐突に襲いかかる強烈な疲労感を堪えながらも鷹丸は引き寄せられるように広場の中へと足を踏み出した。


 鷹丸を引き寄せる磁場は広場の一角に存在した。民家とは趣の異なるその小屋は、大きく開いた戸口の前に粗末なゴザが敷かれた縁台が二脚置かれており、角の柱に打ち付けられた木の板には風雨に晒されかすれながらも、これまで幾千もの旅人達を瀕死の淵から救い上げてきたであろう黒墨の一文字が力強く輝いている。鷹丸は板に描かれた“茶”の一文字にすがりつきたくなる衝動を抑えながら建物のほうへと近寄っていった。


「まぁまぁ、きっつい山道をよく越えてきなさった。さぁさぁ休んでってくだせぇまし」


 茶屋の奥から白髪の老婆が姿を見せ笑顔で鷹丸を手招きする。あれはこの山の女神様に違いない。鷹丸は薄汚れた小袖の女神に誘われるまま縁台の一つに腰を下ろした。


「……茶を、茶をください……あまり熱くないヤツを……」


「はいはい、すぐにお持ちしますからねぇ」


 老婆が建物の奥へと消えていくと鷹丸は呼吸を整えたのちに大きく深呼吸をした。今にも破裂しそうなふくらはぎを揉みながら随分と無理をさせた草鞋(わらじ)と我が足に目を落とす。次の宿場に着いたら茜に新しい草鞋を無心してみるか。そんなことを考えながら脚の按摩(あんま)に精を出していると石段のほうから声が聞こえてくる。


「茄蔵さんあと少しですよ!」


 そこには息も絶え絶えな茄蔵とそれを押すように石段を登る椿姫の姿があった。鷹丸はブラブラと片手を上げながら弱々しい声で「おーい」と呼びかけると、そのまま茶屋の奥にいるであろう老婆に向かって追加で茶を二つ出してくれるよう依頼した。




「まいったぁ……」


 茄蔵は鷹丸の隣へ潰れるように座り込むと、顔から玉のような汗を滴らせながら掠れた声で小さくつぶやく。慈螺は茄蔵の首にかけてある手ぬぐいを取り甲斐甲斐しくその汗を拭い始めた。


「随分と懐かれたみてぇだな。夫婦みてぇだぞ」


 鷹丸の冷やかしにも二人は無反応だった。茄蔵には反応する余裕が無く慈螺には反応する気が無い。鷹丸は意地の悪い笑みを浮かべたまま再び石段のほうへと目を向けた。富士重と茜はどうなったのだろう? 鷹丸の心配も虚しく石段に人の気配は感じられなかった。


 間もなく店の奥から老婆が盆に湯呑を乗せて現れた。鷹丸は盆からひったくるように湯呑を取ると、あっという間にぬるめの茶を飲み干す。老婆は「まぁまぁ」と笑いながら茄蔵と慈螺の横に残りの湯呑を置いた。


「おや、こんな綺麗な娘さんまで峠越えですかぇ? 女の身で函嶺の山道はさぞ辛かったでしょうに」


「あ、いえ、私は……」


 ずっと茄蔵の懐で丸くなっていたなどとは言えず慈螺は言葉を濁す。すると鷹丸が空いた湯呑を縁台に置くなり老婆に話しかけた。


「婆さん、登りはここまでかい?」


「えぇ、あとは美里宿まで下り道ですだ。だけんど、やっぱり急なところが多いもんで気をつけたほうがええですよ」


「そうかぁ、ようやく峠を越えたか……」


 大きな安堵感が鷹丸を包むと同時に後続の富士重達の様子がにわかに気になりだした。


「俺、ちょっと兄貴達を見てくるわ」


 鷹丸は両膝を「パンッ」と叩いて立ち上がると石段のほうへと歩きだす。茄蔵は出された茶にようやく手を付けると、一口で飲み干したのちに「もう一杯……」と力無くつぶやいた。

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