その二人はとても似ていた
「全く手間を取らせてくれるよね」
墓守は汗の滲む額をぱたぱたと手で仰ぎながら祐樹に語りかける。
場所は科学室の奥、実験で使用する薬品の中でも特に扱いの難しい部類が半ば閉じ込められるようにして並ぶ小さな部屋だった。灯りもついていない薄暗い部屋の奥の方で祐樹は壁にもたれかかり力尽きたように腰をおろしていた。墓守は部屋の入口付近から祐樹に話しかけている。
「結局君は何がしたかったんだい?」
祐樹はとにかく走り続けた。新校舎を走り、旧校舎を走り、殆ど学校を一周して新校舎に戻ってきて、そしてこの様だった。
「別に……ただあんたに勝つ方法を探してたんだが、見つからなかった。それだけだよ」
上下する肩で苦しそうに祐樹は答えた。
「つーかあんたすげぇな。汗はかいちゃいるけど、対して苦しそうでもない」
「長距離専門だったからね。というより、僕の体格で勝負できるのがそれしかなかったんだけど」
「ああ、なるほど」
もし彼が短距離の名手だったなら、祐樹はここまで逃げ回ることもできず、すぐに捕まり殺されてきただろう。それだけでも幸運だと言える。さらに墓守が途中で飽きて双葉を殺しに行かなかったことも行幸だった。
幸運は重なっている。自分にとって有利な条件が積まれている。ここしかない、と祐樹は汗ばむ体に力を入れた。
「まあ、なんでもいいよ。君がしたかったことなんか僕には関係ないし、どうでもいいしね。呼吸が辛そうだね? 今楽にしてあげるよ」
そう言ってゆっくりと一歩を踏み出した墓守。それを祐樹は「待った!」の一言で止めた。
「どうしたんだよ、大声出しちゃって。まさか命乞いかい?」
「違う。ただ勝負がつく前に聞いておかなくちゃいけないことがある」
祐樹は一度大きく息を吸い込み、呼吸を落ちつけてからその質問を口にした。
「あんた、タグトロムが欲しいか?」
それは双葉がナイトや厚木にしていた問い。反応の違いはあれど、二人ともが欲しいと回答した質問だった。墓守も一瞬怪訝そうに眉をひそめたが、すぐに答えを出した。
「欲しいよ。決まってるじゃないか。ここまできたんだ、欲しくない訳がない」
「そりゃそうだよな……じゃあ最後の質問だ」
そしてここからは祐樹自身の質問。双葉が誰にも聞かなかったこと、聞いたとしても誰も答えられなかったであろう、言うなれば口にしてはならない禁忌の質問だ。
祐樹はそれをなんのこともなしに墓守に尋ねた。
「あんた、タグトロムを見たことがあるか?」
瞬間、墓守の顔色がガラッと変わる。顔色だけではない。身にまとう雰囲気から全てが変わった。怒ったようにも思えたし、歓喜しているようにも感じた。
「……やっぱり君は気づくよね。気づかないはずがないんだ。僕が気づいたんだから、君だって気づいてしまうはずだ」
墓守は豹変した雰囲気とは似つかない諦めたような口調で語る。
「現実を客観的に、一切の感情も私情も挟まず見ることができるっていうのは、僕らが僕らであるための根源的な部分だ。僕らは肉体を持った人でありながら、その意識が肉体に根付いていない。いつだって箱の中の世界を覗いているようにしか何かを見ることができない。だからこそ全ては全てに変えの効く消耗品であり、自分でさえも例外じゃない」
「そしてそんな自分を毛ほども異常だと思っていないこと、それが俺たちの最大の異常だろう?」
「わかってるじゃないか。当然か。僕らは僕らなんだからね」
墓守は気怠そうにスコップを杖にして体重を預けた。そしてふっと微笑むのだ。
「皮肉なことにね、誰よりも自分を大事にできない僕らだからこそ、それに気づけた。海棠高校の五五三名が最後まで気づかなかったタグトロムという存在の在り方に僕らだけが気づいた。さて、ここで僕からも質問させてもらおう。君の最後の質問の答えはこれでいいかい? なら今度は僕の番だ」
杖にしたスコップを肩に担ぎ、祐樹を睨むようにして、しかし口元だけはいつもの笑みを浮かべながら墓守は祐樹に問うた。
「僕はタグトロムという存在の真実に気づいた。だがその上でまだタグトロムを求めている。あれはなんであれ、その異常なまでの魅力は確かだからね。――なら君はどうする? 全てを知る君は何も知らない彼女と共にいるけれど、どうするつもりなんだい? 場合によっては君も彼女も望まぬ結果になるだろう。それを回避するつもりが君にはあるのか?」
祐樹は何も答えなかった。しかしそれは二人にとって何よりの回答だった。
墓守はそうかい、と酷く気落ちしたような声で呟いた。
「真実を告げるというのなら、君はここで僕に殺されておけ。彼女に殺されるよりはマシだろう」
「悪いけど、俺はあいつのために勝たなきゃいけないんだよ」
「そうかい、なら死ぬといいよ!」
墓守がスコップを掲げて祐樹に向かって駆けだす。その手に躊躇いはないのだろう。どれだけ自分に似た人間だろうと、自分すら殺せる彼らに躊躇いなどあるはずがない。だがしかし、この場合その躊躇いのなさこそが仇となった。
勝敗は驚くほどあっさりと決まる。
「なっ……!」
墓守の顔に戦慄が奔る。それもそのはず、なんと彼の体はスコップを振り上げたままの姿勢で止まってしまったのだ。墓守は体中に力を入れてもがくが、その体はピクリとも動かない。腕を振り下ろすこともできない体に感じているのは細く硬い感触。それが墓守の体を包み込むようにして全身を覆っているのだ。
「終わりだよ、墓守」
驚愕と戸惑いで何も言えずにいる墓守に祐樹は告げた。それは勝利宣言に他ならない。お前の命はここで終わりなのだと、俺の勝ちだと祐樹は告げる。
「さっきは妙なこと言って煙に巻いて悪かったな。今度こそ本当のことを教えてやるよ。《これ》が俺の武器だ」
「《これ》だと? 一体どれが君の武器なんだよ、僕にはまるで何も見えないんだけど」
「そりゃそうだ。見えないこと、そして誰にも気づかれないこと、それが俺の武器が武器であるための条件だからな。本来は不意打ちや騙し討ちで一撃で殺すためのものなんだぜ? ただあんたに何も知らせず殺すのは忍びないと思って、こうして特別に絡め取ってやってんだ」
「はっきり……しないなぁ」
苛立ちを含んだ声。墓守は幼さの残る顔で祐樹を睨みつけながら言った。
「つまり、君の武器はなんなんだよ」
「……糸だよ。俺があらかじめ部屋中に張り巡らせた糸にお前は勝手に引っかかったんだ」
墓守は驚きの声をあげるでもなく、ただ黙っていた。半ば予想していたことなのだろう。自らを絡め取っている全身の感覚が糸のそれだということに気づいていたのだ。しかしそれでもにわかには信じられないのか、沈黙したままだ。
祐樹も最初は驚いた。ミシン台に、いや〝ミシン台の上の糸くず〟に触れた瞬間に糸を使った殺人方法がいくつも頭に浮かんだ。この糸こそが自分の武器なのだとわかった。それでもすぐには受け入れられなかった。厚木美樹の本という武器を武器とすら見抜けなかった自分が、今朝の集会後に迷うことなく糸を武器にしようと走ったことが信じられなかったのだ。だがそれはむしろ祐樹が狙ったことでもある。武器に見えない武器。誰にも気づかれない武器。それこそが祐樹が求めた殺人道具だったのだ。
「そもそも、この戦いってやつはどうしようもないくらいに不公平だ。最初から武器の種類は限られていて、どうしたって武器を持てない奴も出てくる。運よく武器を手にしたとしても使いものにならなかったりもするだろう。だけどだからといって、あんたのスコップや双葉の鋏が優れた武器かと言えばそうでもないんだよな」
祐樹は得意げな笑みのまま墓守に近づく。警戒も何もあったもんじゃない。しかし不用意に近づいたところで今の墓守にはどうすることもできない。墓守が悔しそうに舌打ちをしたその喉に祐樹は自分の腕を鋏のチョキの形にして押し当てた。
「鋏で人を殺すとしたら、殺しかたなんて一通りだ。刺して切る。それだけだ。あんたのスコップだってそいつで敵をぶん殴るくらいしか方法はないだろう? だけど俺の糸は違う」
厚木美樹の武器が撲殺可能な鈍器であると同時に敵の攻撃を受け止め、動きを封じる楯であったのと同じ。祐樹の武器にも複数の使い道があったのだ。
「こうして人を絡め取るだけが糸の使い道じゃない」
祐樹は指先をくいくいっと動かす。するとそれに反応して墓守の右の頬に触れていた糸がプツンという音と共に引きちぎれ、同時に頬に鋭い痛みが走った。頬が切れたのだ。痛みと熱さを感じる頬から血液が流れ出す。
「上手いこと力を制御してやれば、人を切ることだってできる。今のは手加減をした一撃だ。本気になれば肉をそげ落とすくらいのことはできる。さすがに骨は切れないが、一瞬で人を八つ裂きにすることだって簡単だぜ。そして何もわざわざ切り殺すまでもなく、俺があんたの首にかかった糸に少し力を加えれば、そのままあんたを絞め殺すことだってできるんだぜ」
わかったか、と祐樹は告げた。いつの間にか得意げな笑みはどこかに消えて、ただ気怠そうな声が部屋に響いた。
「簡単には武器になり得ないものだからこそ、どうにか人を殺そうと躍起になるんだ。いくつもの手段を持って、単純な凶器に追い付こうとする。俺は今朝の集会でそれに気づいたんだ。だからあえてこの武器を選んだ。誰もがこぞって凶器を求める中、俺は一人誰も見向きもしないような暗器を求めたのさ。武器でない武器を持って暗躍すること。それがこの争奪戦における俺の戦闘スタンスだった。全く、我ながら姑息な手を考えるもんだぜ。そりゃ恥ずかしくて双葉にも言えんわな」
「……姑息じゃなく、堅実っていうんだよ。それは」
墓守の声にすでに苛立ちは消えていた。
「皮肉なものだね。僕のスコップや彼女の鋏は僕らを殺人鬼にしたが、その糸は君を一流の暗殺者にしたんだ。……確かに不公平だ。殺したいだけの奴と殺さなきゃいけない奴じゃ、勝負になんてならない」
「まあそう言うなよ。これでも結構面倒なんだぜ、糸を武器にするってのは。あんたに見えないように家庭科室で一番細い糸、それも部屋の状況に応じて色を変えたり材質を変えたり、学校中を走り回ったのもこういう仕掛けをするための時間稼ぎと、あんたの疲れさせて集中力を散漫にさせるためだ……かなり場所や時間を限定される武器なんだよこれは。そういう手間を考えれば、俺みたいな奴がいない限りはあんたのスコップや双葉の鋏が最強のはずなんだ」
「あははははは! 何それ。つまり、僕の敗因は君がいたことっていうことかい?」
墓守は笑った。それは今までの人懐っこい笑みではない。ねっとりと張り付くような不気味な笑み。墓守はその笑顔のまま、全身にぐっと力を込めた。それで動けるはずがない。ただ力で敗れるようなものじゃない。柔道の寝技、抑え込み技のようなもので、一度かかってしまえばそう簡単には抜け出せないのだ。それを墓守も理解しているはずだ。それがわからないような馬鹿ではない。彼はただ狂気に任せた殺人鬼ではないのだから。
しかし墓守は止まらなかった。全身に力を込めて、なんとか前に進もうと、なんとか祐樹を殺そうと足掻いている。
「やめとけ、抜け出せるはずがない。死ぬぞ」
糸は単体なら脆く弱々しいものだ。だがそれこそ厚木の辞書の楯のように集まればそれだけの強度を見せる。墓守の全身に絡めついた糸は彼の加える力を分散させ、例え一本たりとも引きちぎることを許さない。こうなってしまえば、双葉の鋏のように鋭利な武器でもなければ抜け出すことなんてできないのだ。
「やめる? どうして?」
墓守は笑う。
「やめられるわけないだろう。僕は、タグトロムが欲しいんだ。そのためなら死んだって構わない」
「あんたは、タグトロムがなんなのか知ってるんだろう。ならどうしてそこまで……」
「別に、なんだっていいんじゃないか?」
墓守の答えは祐樹の予想を遥かに超えるものだった。
「なんだっていいんだよ。それがなんであれ、僕は欲しくなっちゃったんだから。だからやめることなんてできないんだ。僕は死ぬまで戦うしかないんだ。もうそうなってしまったんだ。もうどうしようもないんだ」
やめることなんてできない。
墓守は再びそう呟く。彼の体を絡め取っていた糸は彼が前に進もうと足掻いたおかげで締め付けを強くし、次第に彼の体に食い込み血を滲ませた。首を縛っていた糸は確実に墓守から呼吸を奪っているはずだが、それすら彼が止まる理由にはならなかった。
死は突然だった。全身から血を流し、息と血流を止められて真っ青になった顔の墓守はそれこそぷつんっと糸が切れるかのようにあっけなく力尽きた。
その壮絶な最期から祐樹はしばらく目が離せなかった。
当たり前の日常の中で当たり前に狂った人間。全てを消耗品だと語った男。彼はタグトロムを求めて死んだ。タグトロムが欲しい、やめることなんてできないと、そう言っていた彼は笑っていた。それはいつもの人懐っこい笑みではない、ねっとりと張り付くような不気味な笑みだ。だけどだからこそ、祐樹には彼が本気で心の底から笑っているように思えたのだ。
「さて、どうするか……」
墓守は死んだ。すぐにでも双葉と合流するべきだが、しかし祐樹はこのまま彼の死体を放っておくというのが、なんとなく嫌だった。それこそ墓を作ってやろうか。誰よりも大きく目立つ墓だ。七篠祐樹から墓守に送る最期の嫌がらせとして。
たいしておもしろくもないかと、やっぱり双葉と合流しようとした。だが、一歩前に踏み出した祐樹はそのまま地面に倒れてしまった。
「あ、れ……?」
体が動かない。いや、少しは動くのだが指先一つ動かすのだけでも怠い。足は痙攣している。どうやら自分は自分が思っているよりも疲れているらしい。それも当たり前。決して運動が得意というわけでもない祐樹が学校中を殆ど全力疾走で駆け巡ったのだ。緊張の糸が切れた今、その疲れが一気に襲い掛かってきたのだろう。
そのことを祐樹が自覚する頃には彼の意識はどこか遠くへ行ってしまった。




