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全ては全ての代替品でしかない

 七篠祐樹はごくごく普通の高校男児だったはずだ。毎日面倒がりながら学校に通い、友達と昨日見たテレビの話をする傍らに勉強をして、そんな毎日を当たり前のように過ごしていたはずだった。友達からはよく変わっている等と言われることもあったが、それも所詮は常識の範囲内であり、決して狂人ではなかった。

 だからこそ普通の高校生たる自分はここでみっともなく取り乱すべきなのだろうと、七篠祐樹は沈みゆく夕日と誰もいない教室を見て、そう思った。

「うわー、やっちまった」

 口からでたのは間の抜けた声。やってしまった、と誰もいない教室で祐樹は一人で呟いた。

 確か自分はさっきまで授業を受けていたはずだ。それがつまらなくて寝てしまった。つまらない授業だから、数学だったと思う。寝てしまっていたので授業の記憶はこれっぽっちもないが、しかし自分が普通に学校に来て普通に授業を受けていたことは確かだ。

 つまり、数学の授業から一回も起きることなく、祐樹は帰りのHRまで爆睡し、放課後になった今までずっと寝ていたのだ。

「いや、つーか誰か起こしてくれよ」

 そんな文句を聞く相手もいない。教室だけでなく、学校中まで静まり返っていた。祐樹はなんだか変な寂しさを覚える。何か大切なことを忘れているような、そんな気がする。きっと今まで見ていた変な夢のせいだ。

「リアルな夢だったよなぁ。まだ手に感触が残ってるような気がするぜ」

「へぇ、それってどんな夢なの?」

 突如、教室の入り口から祐樹に声をかける存在が現れた。その誰かの登場に驚き、そして彼女の顔を見てほっとした。

「なんだ、双葉か」

「なんだとは何よ。失礼ね」

 双葉えいり。祐樹とは小学からの付き合いの彼女はその特徴的な長いツインテールを揺らしながら、不満そうに口を尖らせた。

「それで、どんな夢なのよ?」

「たいした夢じゃない。というか、あんま思い出したくない夢だ」

「ふーん。ていうかあんた、こんな時間まで一人で何やってんの?」

「寝てた」

「……相変わらずよく分かんない奴よね」

「お前こそ何やってたんだよ。寝てたのか?」

「そんなわけないでしょ。学級委員の仕事よ。面倒ったらありゃしない。どうせ寝てんだったらあんたにも手伝わせればよかったわ」

 双葉は学校指定の鞄に教科書類を詰め込みながらこのあとの予定を聞いてくる。祐樹が何もないと言うと、少しだけ嬉しそうに顔を綻ばせた。その顔に祐樹が思わず見とれていると、彼女は教科書をたっぷり詰め込んで重くなった鞄を祐樹の胸の前に突きだした。

「……えっと、双葉さん。これはなんなんですか?」

「荷物持ち。そしたら一緒に帰ってあげる」

「お前なぁ……」

「何よ、私と一緒に帰りたくないの? 今日は駅前のクレープ屋さんに行こうと思ってるんだけど?」

 双葉とクレープ。双葉とクレープ。双葉とクレープ。その単語を三回繰り返してから、祐樹は迷いなく双葉の鞄を手にした。双葉は勝ち誇ったような笑みと共によろしいと口にする。

「それじゃ、先に下駄箱行ってていいわよ。私先生に提出するプリントあるから」

「りょーかい」

 気怠そうに答えて、祐樹は教室を後にしようとしたが、そこで足を止める。なんとなく違和感を覚えたのだ。何かが違っているような、何か間違ってしまったかのような感覚。それは強烈な違和感と共に祐樹が見た夢を思い起こさせる。

 殺戮と戦闘。生々しい死の感触。削ぎ落とす肉の柔らかさ。吹きだす血の温かさ、その臭い。それらは強烈なイメージとして祐樹の頭に残っていた。その強烈すぎる記憶と、まだ日が沈んだわけでもないのに部活動に従事する生徒すらいない静まり返った校舎によって祐樹の意識は完全に現実に引き戻された。

 夢、なんかじゃない! あれは確かに……――――

 全て思い出した。それと同時に祐樹は背中に感じたことのない衝撃を受けた。

「え……?」

 驚きの声はそれだけだった。悲鳴も、激痛による叫びもでない。背中に感じていた熱を持った激痛は目の前の現実に塗りつぶされた。

 双葉えいり。彼女が自身の鋏を持って、祐樹の背中を突き刺したのだ。

 肩越しにその現実を目撃してしまった祐樹はそのまま全身の力が抜けたように前へと倒れた。

「はぁ……はぁ……」

 静まり返った世界に双葉の荒い息だけが響く。彼女の体は震えている。がたがたと震えながら、祐樹の血にまみれた鋏を握りしめたまま話さない。

「ふた……ば…………」

 声はかすれていた。それでも彼女には通じたのか、双葉は何よ! と怒ったような返事を返した。

「あ、あんたが! あんたが悪いんだから……あんたが嘘なんか吐くから、だから、だから――」

「嘘……?」

 うつ伏せに這いつくばり、頭だけを双葉に向ける祐樹の上に彼女が馬乗りになった。丁度傷の部分に腰を下ろされ、とんでもない痛みが走ったが、そんなものは気にもならなかった。祐樹の頭の中は泣きそうな双葉の顔で埋め尽くされている。

「祐樹、タグトロムはどこ?」

「知らない、そんなもの俺は知らない」

「嘘だ! 嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ。墓守も持っていなかった。ならもうあんたしかいない! タグトロムはどこ! 早くだしてよ、ださないと殺すから」

「俺は……持ってない」

 双葉は無言のまま振りかぶり、鋏を祐樹の右手の甲に突き刺した。しかし祐樹の表情は全く変わらない。自分の腕から流れる血をまるで興味なさげに見つめるだけだ。それを見て双葉はさらに泣きそうな顔になる。

「お願い……早くだしてよ。お願いだから、タグトロムがないと、私どうにかなっちゃいそうだよ。このままじゃ、このままじゃあんたを殺しちゃう」

 私は祐樹を殺したくない。

 双葉は泣きそうな声でそう言った。

「私ね、本当は祐樹のこと好きだったんだよ? 結局一度も、あんたの想いに応えてあげなかったけど……ほんとに好きだった。大好きだった。でも、私っていつもは強がってるけどさ、実際臆病だから、いつかあんたは私に飽きちゃうんじゃないかってそう思ってた。それが怖かった。あんたは届かない花を夢見てるだけなんじゃないかって、そう思ってた。祐樹の想いが本当だって誰よりも知っていたはずなのにね」

 お願い、と双葉は泣きそうな声で懇願した。

「私は祐樹を殺したくない。大好きな人を殺したくない。だから、だからタグトロムを頂戴? 絶対、あんたが持ってるはずでしょ? そのはずなんだから!」

 彼女の懇願。その叫び。隠してきた思い。それを聞いて、祐樹はどうしてか笑ってしまった。おかしくなってしまったのだ。

 だってそうだろう。ずっと、ずっと待ち望んできた言葉だ。七篠祐樹にとっての唯一無二、それが双葉えいりだったはずだ。そんな彼女の唯一無二になることが、祐樹の望みだったはずだ。だからこれはハッピーエンドなはずなのだ。彼女は自分を好きでいてくれた。とっくの昔から二人は相思相愛で、全ての垣根を乗り越えて結ばれる。そのあとは洒落たエンドロールでも流しておけばいい。そのはずだ。そのはずなのに、ずっと待ち望んでいた言葉のはずだったのに。

 どうして俺は全く嬉しくないんだろう。

「結局さぁ、俺って奴はあいつと一緒だったんだよ。なんだってよかったんだ。なんだってかまわなかったんだ」

 それは独白。心の内から溢れ出てしまっただけの言葉。双葉にはきっとなんのことかわからないだろう。こんな意味のない独白を理解できるのはきっと自分と墓守だけなのだから。それでも祐樹は語った。自分という存在を言葉にするのだ。

「あいつにとって全てが消耗品であるように、俺にとっては全てが全ての代替品だ。全部替えの効く何かでしかない。そんな世界でさぁ、唯一無二だと思ってたんだよ。双葉、お前の存在だけは替えの効かない特別だと思ってた。でも違うんだよな。俺にとって、俺たちにとっては唯一無二でさえも代替品で消耗品でしかないんだ。俺は俺の行動の理由が欲しかっただけなんだ。何かと理由を付けてはお前のため、彼女のため双葉のためって言いたかっただけなんだ。ただそれだけのための唯一無二だった。だからこんな簡単にすり替わっちまうんだ」

「ゆ、祐樹……?」

 意識が遠のく、背中から腕から流れ出る血は祐樹の死へのカウントダウンでもあった。この痛みが消えたとき、七篠祐樹は死ぬ。その事実を至極冷静に受け止めながら、祐樹は双葉にある質問をした。

「なあ双葉、お前タグトロムが欲しいか?」

「欲しいに決まってるじゃない! さっきからそう言ってるでしょ!」

「ま、そうだよな。ならもう一つ質問だ。――――お前、タグトロムを見たことがあるか?」

 途端に双葉の顔にははっきりとした困惑が見てとれた。痛いところをつかれたような、聞かれたくないことを聞かれたような、そんな顔だった。

「なあ教えてくれよ。タグトロムって一体なんなんだ? 人なのか? 物なのか? 形は? 色は? 重さは? 質感は? なんのためのものなんだ? どんな風に使うんだ? なあ教えてくれよ。なあなあなあなあなあ!」

「た、タグトロムはそんな、言葉で言い表せるようなものじゃ……!」

「言葉にできない? どうして?」

「それは! あれは言葉にできないほど素晴らしいもので――――」

「違う!」

 祐樹は叫んだ。それは自分自身驚く程迫力のこもった叫びで、双葉はびくりとその体を震わせる。

「違うだろう。素晴らしいから言えないんじゃない。そんなんじゃない。もっと単純な問題だ。お前は……いや俺たち海棠高校の生徒たちは誰一人としてタグトロムなんてものを見たことがないんだ!」

 祐樹は一度タグトロム争奪戦に関する記憶をすべて失い、そして再び思い出した。そうして客観的に見たからこそ気づいた。今朝の集会では校長はタグトロムの素晴らしさを説くばかりで、タグトロムに関する具体的な説明は一切していなかったのだ。

「お前たちはタグトロムがなんだか知らなかった。ただその存在の素晴らしさだけを教わって、ただそれだけの情報で互いにタグトロムを奪い合ってたんだ。何も全員が本当にタグトロムが素晴らしいものだって思っていたわけじゃない。きっとみんなこう思ってたんだ。《みんなが欲しがっているから自分も欲しい》ってな。素晴らしさだとか、そんなものは後付けの理由でしかない。お前らは何だかよくわからないものを何だかよぅわからないままに欲しがって奪い合ってただけなんだ!」

 よく考えろ! と祐樹は叫ぶ。大声を張り上げる度に自分の中の命が削れていくよう錯覚を覚えたが、それを気にするほど祐樹はたいして生きたいとも思っていなかった。

 だから何度も叫んだ。考えろ、と。

「よく考えろよ! お前はタグトロムのことなんか何も知らないはずだ! その素晴らしさの理屈も根拠もわかっちゃいないだろう!」

「う、うるさい……」

「お前は何も知らないものを手に入れるために人を殺したんだ! その鋏で、見知った顔も知らない顔も全部全部切り裂いてきたんだ!」

「黙って、お願い……!」

「どんなに殺したって無意味なんだ! 探したって見つからないはずだ! タグトロムなんてものは最初から存在してないんだからなぁ!」

「黙れって言ってるだろぉお!」

 双葉が拳を固めて祐樹を殴った。それは癇癪を起した子供のような拳。それでももう子供ではない少女の拳のはずだが、祐樹の体はすでにその衝撃すら感じなくなっていた。

「勝手なこと言うな! タグトロムはあるの! あれは私のものなの! あんたなんかが、私のタグトロムを知った風な口で語らないでよ!」

「いや違うね」

 否定する。彼女の言葉を祐樹は否定する。それは今の祐樹にとっては認めてはいけないものだったからだ。

「タグトロムは俺のものだ」

 その一言は世界を止めた。双葉はまるで壊れて動かなくなった機械のように固まってしまう。

「タグトロムは俺のものだ。私のものだなんて、二度と言うな」

「な、なんでよ……。あんた、私にタグトロムくれるって、私のためならいいって言ってたじゃない! 私を勝たせてくれるって、言ってたじゃない!」

「さっきも言っただろう。俺にとっての唯一無二はもうすり替わっちまったんだよ」

 祐樹の行動理由の中にもう双葉は存在しない。今の祐樹はただタグトロムのためだけに動いている。

 祐樹も所詮は墓守と同じだった。タグトロムという存在が虚構であると知りながら、それでも求めずにはいられない。決して手に入らないとわかっていても、もうどうにもならない。やめることなんてできはしないのだ。

 海棠高校の五五五人の生徒たちが、みな執拗に求めたタグトロムという存在を祐樹もまた強烈に求めてしまっていたのだ。

「俺はタグトロムが欲しい。他の全てを諦めてしまってもいいほどに。他の誰にも渡したくなんかない。それは双葉、お前でさえ例外じゃないんだぜ」

「な、何言ってるのよ……」

 双葉の声は震えている、瞳に溜まった涙はとうとう流れだして頬を伝った。一度流れ出してしまえば、もう止めることはできない。ぼろぼろと涙を零しながら、双葉は縋るような言葉を口にする。

「や、やめてよ。あんた私のこと好きだって言ってくれたじゃない。小学生の頃からずっと、私だけを見ていてくれたじゃない! だから私は祐樹を好きになったのに! そんな、今更そんなこと言わないで……! やだよ、嫌いにならないで! 祐樹ぃ!」

 もしも七篠祐樹が狂人ではなく普通の高校生だったなら、双葉の言葉に少しは心が動いたことだろう。少女の涙を止めるヒーローになれたかもしれない。二人が手を繋いで笑いあう未来があったかもしれない。でもそんなものは可能性の話でしかない。祐樹に揺さぶられるような心などあるはずがない。彼はもうすでに双葉のことをただの代替品としか視ていないのだ。

「双葉、俺は……」

「いや! やめて言わないでよ! 嫌だよ、私、祐樹のことが好きなの! やだよ、そんなのやだよぉ!」

 双葉は泣きじゃくる。嫌だ嫌だと子供のように。それを祐樹は冷めた目で見つめる。いや、そもそも彼女の姿を見ることが祐樹にはできていない。徐々に体温を失くしている祐樹の体はもう殆ど正常な機能を失っていたのだ。

「――双葉――――」

「ほ、ほら私、祐樹の彼女になってあげる! いやもういっそ結婚してもいいよ? 祐樹のお嫁さんになってあげるから! そしたら祐樹のしたいことなんでもしてあげるよ。嬉しいでしょ? あんたがずっと好きだった女の子を好きにしていいんだよ! 祐樹のためならなんだってしてあげる! タグトロムはあげられないけど……でもそれ以外ならなんでもするよ!?」

「――――俺は――」

「そうだ! そうだよ、タグトロムは二人のものってことにしようよ! 一週間とか一日交換で持ち合ってさ! そ、それならもうこうやって私たち二人が争うこともないでしょ? ねえそれがいいよ、そうしようよ!」

「――――お前のことが――」

「やだ! やめてよ! お願いだから言わないで! 全部謝るから! なんだってするから! やだ、やだやだやだやだやだやだやだやだ! 祐樹、祐樹! 祐樹ぃ!」

「――――――――大っ嫌いだ」

「いやあああああああああああああああああああああああああああああああああああ」

 喉を潰すような絶叫。それと同時に彼女は泣きながら懐から鋏を一本とりだし、それを祐樹の首目がけて振り下ろす。

 だが、その鋏は祐樹には届かなかった。それよりも早く、双葉の心臓に鋏が突き刺さったのだ。

 それは墓守戦の際に祐樹が双葉から受け取った鋏だった。双葉の手元を離れたはずの鋏が今彼女の胸に深く深く突き刺さっている。

 祐樹の武器である。糸。それは敵を拘束し、肉を切り、絞め殺す暗器。だがそれだけが使い道ではないのだ。それだけじゃないもう一つの使い道、それが罠。トラップだ。糸を使った簡易的なトラップ。自分の武器を使った間接的な殺しは成立するというルールを利用した罠だった。

「そんな、いつの間に……?」

 勿論、祐樹がこの教室で目覚めてからはこんなトラップを仕掛ける暇なんてなかった。最初から仕掛けてあったのだ。それは墓守との戦いのさなか、学校中を走り回りながら祐樹はいたるところにこういったトラップを仕掛けて回っていたのだ。それは当然双葉を殺すためのもの。いつどこでも彼女を殺すことができるように、様々な場所に罠を仕掛けた。その中でただ一つだけ、彼女自身の武器を使った罠を彼女が引き当てたのは神様の嫌がらせか、運命の皮肉のようなものかもしれない。

「ゆ、ゆうき……」

 自分の心臓を貫く鋏を見て、死を覚悟したのか双葉は鋏を抜こうともせず青ざめていく顔で祐樹を見つめた。その目に浮かぶのは醜く歪んだ憎悪。彼女が祐樹に感じていた恋や愛のようなものは全て憎しみへとひっくり返った。

「この、□□□□」

 少女は最期にどんな呪いの言葉を吐いたのだろう。それを聞いたものは誰一人としていなかった。それを聞くよりも早く七篠祐樹は静かに息を引き取っていた。結局最後まで彼は唯一無二のものを手に入れられないままに死んだのだ。

 それから数分とたたない間に双葉もまた死んだ。祐樹に折り重なるようにして、少女は憎悪と共に死んでいった。


******

 誰もいなくなった校内は酷く静まり返っていた。

 夕日は完全に沈んでしまった。次に朝日が昇るころには、きっと全ては消えてなくなるだろう。ある男はそんな現実を代替品だと言った。もう一人は消耗品だと言う。だがそれはどちらも正しくはないのだろう。消えてなくなるということは取って代わる物もないということで、消耗された事実でさえもなくなってしまうということでもあるのだから。

 霧が晴れるように、夢から覚めるように。

 誰もが求めたタグトロムは誰の目に触れられることもないまま消えていく。


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