正夢
鏡渡りが出来れば早いのだが、生憎、それらしいものが見当たらず、結局、雅に教えて貰っていた博雅の邸の最寄りの池まで進むのに十分ほど要する。
「この池から渡れば、氷川神社の太鼓橋のところに行けるはずです。」
そう言い呪符を使って道を開く。
「青山、今のはなんぞ。」
博雅が目を丸くして訊ねるから、斎は戸惑った。
「呪だよ、博雅。」
晴明は笑いながらそう言うと池に入っていき、そう深くもないはずなのに沈んでしまう。道真公も気にかける様子もなく池に沈み切ると、畔には斎と博雅が残された。
「俺も入るのか――?」
「原理は鏡渡りと同じなのですが・・・・・・。」
「鏡渡り・・・・・・?」
「鏡を媒介に空間をつなぐのです。」
加代子が同じように目を丸くしていたのを思い出しながら、「ご心配でしょうけど」と断りを入れてから、博雅を案内して池に入る。中は美しい青色が拡がっていた。
「なんだ? なぜ池の中に入ったのに、息が出来る?!」
一人騒いでいる博雅の様子に、道真公は「五月蝿いから黙らせろ」と晴明に話した。晴明は「博雅はこれだから面白いのに」と言いながらも、「呪で異空間を繋いだのですよ」と話した。
「ぬう、青山までこんな妖しの術を使うとは・・・・・・。」
「長秋卿も世の理が解ければ、出来るようになりますよ。」
斎は呪符があればおおよそ誰でもできる事だと思っていたから、博雅の反応にも、晴明の話にも曖昧に頷いた。
「まあ・・・・・・、紐解けなくてもその理を記した呪符や護符があれば、簡易な事はできるがな。」
「んなッ?!」
やはり晴明は博正をからかっていたのかと思いつつ、「長秋卿は今まで渡った事がないのですか?」と聞けば、それには博雅の代わりに晴明が答えた。
「いいえ、何度もありますよ。ただ博雅の混乱具合を和らげるのに《霧》や《煙》を媒介にする事が多かっただけです。」
それを聞くと博雅も合点がいったようで「あの不思議な霧と一緒なのか?!」とまた一人で騒いでいる。
「さて、呪の話はそろそろとして、氷川の社までどれくらいです?」
「赤坂なので、そこまで遠くはございません。」
そして、鎮守の森と化している氷川神社の池にかかる太鼓橋に着くと、斎はふっと身体から力が抜けるのを感じた。
「晴明、ここはあの世か?」
「少し違いますよ。あの世であって、あの世ならぬ所です。」
一方、道真公はと言うと、北野や大宰府の神社の他には、あまり来ることも無い神域に物珍しげに辺りを見回していた。
「それで晴明、ここに何しに来たのだ?」
「分からない。」
「はあ――?」
「ここに鷹司大臣に縁の方がいて、何かがあってこちらにいらっしゃる。それだけで来たのですから、ここの四人に理由は分からないですよ。」
そう答えながらも、斎にまだ気配はあるかと訊ねれば斎は難しい顔になった。
「それが・・・・・・面目ないのですが、これ以上は追えないんです・・・・・・。」
自分の案内が間違いで、実は別のところだったのだろうかとも思ったが、晴明はそれを否定した。
「間違いを起こさせるような呪はかけておりませぬ。その縁のある方はこちらにいらしたはずです。一度、ここの主に事情を聞くのがよろしいでしょう。」
それを聞くと道真公は顔を曇らせ「氷川の社と聞いたが、それでは素戔嗚尊に訊ねるのか?」と問う。
「ええ。素戔嗚尊はきちんと礼を尽くせば、お話の分かる方ですから。」
晴明は「それよりも、余程、天照大神や高皇産霊神の方が恐ろしい」と言い、奥へ奥へと他の三人を誘いながら桜門の前までやってくる。
「ああ、青山はここでやめておいた方がいいですね。」
斎は桜門を見上げる。青竹の霊力を全て持っていった門とはこの門の事なのだろう。少し近付くだけで霊力を持っていかれるのを感じて「確かにこれを潜ったら元の琵琶の姿に戻ってしまうのは一瞬だな」と感じた。
「俺は行けるのか?」
博雅が尋ねれば、晴明は「もちろん」と答える。一方で、道真公は「ここで待つ」と答えた。
「行かれないのですか?」
「ああ、素戔嗚尊とは縁深くてな。あまり近付くと共鳴してしまう。」
晴明は「共鳴」と聞くと、あっさり「そうですか」と言って、博雅に「ならば、我らで聞いてこよう」と連れ立って入っていく。道真公と残されてしまった斎は所在なく感じて、「共鳴とはなんですか?」と訊ねた。
「む?」
「先程おっしゃっいた・・・・・・。」
「ああ、《共鳴》は《魂の共鳴》の事だ。」
近しい魂は近付きすると、惹かれもするが反発もする。そして、道真公と素戔嗚尊の場合、惹かれすぎるとの話であった。
「雷を操る我と、嵐を操る素戔嗚尊が一緒にいればどうなるか、この手の事が素人でも想像は付くであろう?」
火産霊神や淤加美神のように釣り合いが取れているのであれば相克で打ち消し合ったり、大己貴命と須勢理のように惹かれ合う魂もあったりするらしいが、天津神と人神だと力が釣り合わないらしい。
そして、力が釣り合わないと、より力の強い方に飲み込まれ自我を失う。かつて怨霊として百年もの長きに渡り畏れられたのも、そうしたことが所以だったと道真公は話した。
「そうして怒りに囚われた私を慰めたのが晴明と雅信だ。」
それ以来、素戔嗚尊や淤加美神など荒ぶる神には近付かぬように気をつけているらしいが、素戔嗚尊とは未だに一緒に祀られる事も多いらしく、天神様にとっては悩みの種のひとつなのだと知った。
◇
その頃、中に入った晴明は素戔嗚尊と対面していた。
「我らが天道神にお訊ねしたき儀があり、お邪魔致します。」
「晴明か。ちょうど良いところに来た。」
渡りに舟と言わんばかりに素戔嗚尊は喜ぶ。小笹は素戔嗚尊と晴明を交互に見た。
「この小笹が言うには須勢理がどこか異界に攫われたようなのだが、どうにか助ける方法はないだろうか。」
「それだけでは何とも・・・・・・。」
さすがに晴明は言葉を濁したが、須勢理の名が出てきた事で、この《小笹》が斎の言う《源 雅信》と縁付くものなのだろうと踏んだ。
「ちょっと失礼致します。」
晴明はそういうと小笹の持つ鷦鷯の羽根の気配に「懐にお持ちのものを見せていただいても宜しいですか?」と訊ねた。
「ですが・・・・・・。」
「小笹、晴明はなかなかに失せ物探しがうまい奴だ。見せてやってくれ。」
素戔嗚尊にそう言われてしまうと断れなくて小笹が鷦鷯の羽根を手渡せば、晴明はふっと息を吹きかけて、一羽の鷦鷯を生み、空へと解き放つ。
「あ!」
飛び立った鷦鷯を目で追い、博雅と小笹は口を牡蠣殻のようにぱっかりと開けて空を見た。
「このまま、しばらく待ちましょう。」
「で、ですが、あれを頼りにお戻りになると仰っていたのに――。」
「大丈夫ですよ。あれは戻ってきます。」
よく見れば金色の糸が晴明の手元にあり垂れている。
「晴明、驚かせるな。俺も胸がきゅうっとなったぞ?」
そう博雅が文句を垂れるから晴明は口角を少し上げた。
「あれは、少彦名命の現れる位置を探しています。」
「貴方は少彦名命をご存知なのですか?」
「ええ、少しばかり知り合いです。」
そう言いながらじっと待っていると、不意に「そちらですか」と呟く。それから恭しく素戔嗚尊にお辞儀をすると、「少彦名命は愛宕の山に戻ります。須勢理毘売命が魂もお戻りになるとすれば、そちらかと存じます。」と話した。
「少彦名命がこちらや罔象女神のところではなく愛宕の山を選ぶのです。何か《浄火》させたいものがあるのでしょう。」
その言葉に素戔嗚尊は険しい表情になる。博雅はその表情を見ると、ゾクリと背筋が凍る思いになって一歩下がった。
「大己貴命か須勢理毘売命に何かあったのやもしれぬ。」
「大己貴命もご一緒なのですか?」
「ああ、しかも厄介なことに、源の某とかいう人魑魅に転生した挙句、今は唐草の、見たことも無いような呪に縛られて、伊邪那美命の眷属になっている。」
「伊邪那美命の眷属とは、それはまた、穏やかならぬ話ですね。」
しかし、博雅はその話を聞きながら「ちょ、ちょっと待ってくれ!」と途中で話を遮った。
「話の途中で水を差すようで悪いが、晴明、素戔嗚尊がおっしゃる源の某とは雅信の事か?」
「いかがでしょう?」
「そうだ。今は死神をしておる。」
素戔嗚尊は「だが、なぜそのような真似をして、身をやつしているのか分からない」と話す。
それに対して晴明は「道真公をお助けするためと聞いております」と答えた。
「道真を助けるため? よもや荒御魂と化した道真を鎮めるために天下ったというのか?」
「はい。左様にございます。ご存知のように大己貴命の性質は風の神、時の神、雷の神。」
かつて葦原中国を治めた大己貴命が天照大神らに滅ぼされ、荒御魂となったのを祀ったのが出雲大社だ。
「その話、まるで道真公ではないか。」
「ああ、そうだ。それに道真公はこの八雲一族の血をそれと知らずに引いている。」
だから、素戔嗚尊にも、大己貴命にも共鳴しやすかった。
「共鳴しやすい魂は、力強きものの憑坐となる。」
弱き者は、名で縛られた時よりも、もっと強い呪に掛かり、本人の意思とは関わらずに勝手をさせられる。
「どういう事だ?」
その顔にチンプンカンプンと顔に書いてある博雅とは異なり、小笹は「つまり、道真公は神掛っていらっしゃったのですね」と話した。
「そうです。そして、それが菅家の隆盛の始まりで、あの悲劇の始まりでもありました。」
道真に大己貴命の気配を感じた天照大神の一派は、時平を唆して太古と同様に、あと一歩のところで道真を天下一の統治者とするのを阻んだ。
菅家は道真の左遷に始まり、一族郎党、苦しい立場に置かれていき、やがて道真は怨霊と化した。
「大己貴命はそれを悪いと思ったのでしょう。《源 雅信》という人魑魅に転生し、私に道真公を慰めるように手伝うよう依頼してきたのです。」
あれは道真の起こした雷が自宅に落ちた夜。
早馬で単騎駆けつけた雅信は晴明のいる前で道真の功績を褒め讃え「よくやってくれましたね」と言祝いだ。そして「きっと後世に残る称号を御身に与えましょう」と話し、道真は涙して和御魂へと変じたと話す。
そして、さらに十年弱経ってしまったものの、雅信は約束通り道真公に「北野天満宮天神」の称号を送るように手配し、死ぬ間際の頃には「左大臣」「太政大臣」と相次いで位を追贈する手配をした。
「道真公の怒りや悲しみは大己貴命の言祝ぎにより解かれて、今は学問の神として鎮座して頂いています。そして、道真公の悪夢は、どうやら大己貴命が須勢理毘売命を見つけ出した事が要因でしょうね。道真公は大己貴命の魂と共鳴し、夢として先見をしていると考えた方が良さそうです。」
「先見? 何を見たのだ?」
「この世の滅び、にございます。心の太柱が崩れ、様々な災厄が訪れる夢。」
心の太柱に磔にされた須勢理毘売命を、異形の姿と化した大己貴命が救け下ろし、怒りのままに八岐大蛇のような黒い影を生み出しながら大鎌を振り下ろす。
すると、心の太柱にはいくつもの亀裂が入り、中から魑魅魍魎が現れて跋扈し始める。
「《大峠》が起きる夢、か・・・・・・。」
「左様にございます。そして、それは恐らく正夢かと。」
「そう見るが正しいだろうな。」
素戔嗚尊の呟きは暗く沈んでいた。
「そうと分かれば次の手を打たねばなりますまい。我らは愛宕神社に向かいます。」
「分かった。池を通って行くが良い。」
「ありがとうございます。」
去っていく晴明達一行を見送って一人。
空は青々とした木々に覆われている。
「奇稲田よ、どうか須勢理を守っておくれ・・・・・・。」
素戔嗚尊は加代子に渡した湯津爪櫛を思い起こして願った。




