懊悩煩悶
連れられてきた大己貴命の社の中は、約五メートル四方のこじんまりとした一室だった。奥には小さな祭壇と、榊、酒、幣が置かれている。
「ここならば鬼女がやって来ても入ってこられないし、お前が熱に浮かされて荒御魂になりかけても多少は鎮めてくれよう。」
「熱・・・・・・ですか?」
「自覚はないのか・・・・・・?」
言われてみれば少し熱っぽさはあるが、騒ぎ立てする程でもないように思われる。
「ちょっと火産霊神から貰った蟷螂を貸してみろ。」
少彦名命に言われると不思議と断れなくて、雅は守りの蟷螂を少彦名命に見せた。
「なるほど。水に浸かって反応しなかったのか。」
そう言いながら、蟷螂を崩し一枚の紙に戻すと滲んだ所を確認しながら、紙に何かを書き付けて、丁寧にもうひとつ蟷螂を作る。
「これで、まあ、火産霊神のくれた代わりくらいにはなるだろう。」
持っていろと渡された蟷螂は火産霊神のとは違って外側にも紋が刻まれている。そして、それに触れるとずっと心の中で燻っていた苛立ちや焦りがすっと抜けるような心地がした。
「火産霊神が掛けていた呪を補強しておいた。その首飾りだけじゃ、唐草の呪が抑えきれないだろう? ついでに胸と背中を見せてみろよ。肋をやられてたみたいだし。」
雅は胡散臭げに少彦名命を見たが「さっさと脱げ!」と言われて渋々脱いだ。
「これは酷いな――。」
黄泉の唐草は腕と肩では留まらず、背中を覆い心の臓まで捕らえている。むしろこの状態で大己貴命の自我が残っているのが不思議なくらいだ。
「かなり闇に喰われてるな・・・・・・。」
「なんですか、その中二病みたいな言い草。」
「本当に中二病のこじらせたのみたいになってんだよ。全く・・・・・・。」
消し飛びそうになったのを何とか持ち直させたが、ここまで唐草の呪に囚われていれば、消し飛ぶ前に伊邪那美命に物理的にも精神的にも盗られていたに違いない。しかも、「須勢理のいない大己貴命」と考えると、現状は僅かに与えられたアディッショナルタイムのように思われた。
(本当、八方塞がりだ――。)
黄泉の唐草を呪で散らしても限度がある。その上、肋骨周りが酷く腫れて熱を持っている。
「肋はひぃ、ふぅ・・・・・・み。二本は確実、もしかしたら三本いってるかもな・・・・・・。」
指でなぞられると雅から苦痛の声が零れる。しかし少彦名命はそれには構わず、患部を冷やすと湿布を貼りさらしを巻いてくれた。
「これで幾ばくか、息はしやすいだろう?」
「そうですね・・・・・・。ありがとうございます。」
「お前、お礼、言えたんだな。」
「失敬な・・・・・・。」
雅がちらりと見ると少彦名命は嬉しかったのか、笑みを浮かべている。
「荒ぶる魂に対抗出来るのは、和御魂だけだ。それをお前の事だ、さっきまではこのまま怒りや欲に飲まれてもいいとか、流されてもいいと思ったのだろう?」
少彦名命が言えば、思い当たる節が多くて雅は苦笑する。途端に突き刺すような痛みに、胸の辺りにさらしを巻いてもらっているとはいえ表情が歪む。
「ほれ、そろそろ薬も効いてきた頃だろう? 三日くらいはここに籠って潔斎をするんだな。」
明日は火も別に炊こうといいながら、少彦名命は入口近くにゴロンと横になる。雅は目を三角にした。
「潔斎などしてる場合ではないのですが? 加代子さんを早く助けないと。」
「お前がその状態で出て行っても、良い事は何もない。」
苛立ち紛れに人身に窶すための首飾りと腕輪を外す。大己貴命の社は一気に少彦名命の気で満ちた。
「お前の社なのに、こうして俺に簡単に塗り替えられるくらいにはお前の和御魂は弱っている。その状態で戦えば完全に荒御魂に我を忘れる。お前こそが須勢理を害すると心せよ。」
そして「あとは周りが上手くやるから今は鎮まり、眠れ」と言われる。途端に身体が鉛のように重くなり、雅はどこか懐かしい少彦名命の気の中で眠りに誘われた。
眠い――。
頭が働かない――。
少彦名命は雅が完全に眠りに入ったのを見届けると、ほとほとと扉を叩く音がする。
「素戔嗚尊の使いが参りました。」
式神特有の感情の無い声に分かったと答える。少彦名命は雅の手に先程作った蟷螂を握らせると、静かに部屋を出ていき、眠りに落ちた雅を社の中へ籠め置いた。
式神の声に誘われて、火産霊神の社に行くと在りし日の大己貴命によく似た男が立っている。
「今日はほんに千客万来じゃな。」
火産霊神が迎えたのは、素戔嗚尊の使いとしてきた八嶋士奴美神だ。
「素戔嗚尊より、須勢理と大己貴命が淤加美神と対立し、火産霊神にご迷惑を掛けていると伺いましたら、流石に馳せ参じますよ。」
「お主を遣いに立てるとは、素戔嗚尊も須勢理が可愛くて仕方ないと見ゆる。」
「私には淤加美神を抑えるだけの父のような力はございませぬから、こうして父の名代としてお邪魔するくらいしか出来ませぬ。それに須勢理を見つけたと思ったら、また失ったと聞けば、父も心の闇に迷いましょう。」
少彦名命はその話を聞きながら、今回の主な主要人物と関わりがあり、巻き込まれた状態だという八嶋士奴美神を不憫に思う。
「ところで大己貴命は今はどこに?」
「今は荒御魂となりかけておるので、社に籠めて鎮めておる。」
「そうでしたか。」
八嶋士奴美神は在りし日の大己貴命に似た雰囲気のする男で、少彦名命に気がつくと丁寧にお辞儀をし、ふわりと笑ってくれた。
「お初にお目に掛かります。あなたが大己貴命と旅をしていた少彦名命でいらっしゃいますか?」
少彦名命はその笑顔を見て、大己貴命と初めて会った時のように黙って頷いた。
「そうでしたか。幾度となく、大己貴命をお助けくださりありがとうございます。」
八嶋士奴美神に言われると大己貴命に言われてるような気がして照れてしまう。
それから火産霊神に促されて、中に入ると、八嶋士奴美神は懐から手のひらサイズの小さな青銅の鐘を取り出した。
そして、ふうと息を吹き掛けると、鐘は転じて小笹に変わる。小笹は三柱が目の前にいる事に気がつくと、すぐに膝を折り、その場に伏した。
「小笹、ご苦労様。お前は引き続き少彦名命に力をお貸しするように。」
「畏まりました。」
「では、人遣いが粗くてすまぬが、大己貴命の社に何人も近付けさせないようにしてほしい。誰か来たら、鷦鷯の羽根で知らせてくれ。」
そうして鷦鷯の羽根を受け取った小笹は「承知致しました」と言うとそっと三柱の前を辞した。
◇
一方、その頃、斎は秋草の生える長秋卿の庵近くにいた。
花が咲いては泣き、花が散っては泣く。《長秋卿》はそういう男だ。
生前の名は源 博雅といい、音楽や楽器を愛し、また、音楽や楽器に愛された男であった。
本来なら音楽の神として弁財天とともに祀られてもおかしくない。遺失したと思われた玄奘を見つけ出し、鬼から葉二つを譲り受けた逸話のある男でもある。
斎こと青山は、その長秋卿こと博雅の元を訪ねていた。
「おや、珍しい。青山がおる。」
雅とは違い、肩幅のある身体つきで、今様にざっくりとした風合いのシャツにチノパンという出で立ちをしている。しかし、その動きはまるで直衣を着ている時のように鷹揚でゆったりとした流れがあり、とても音楽的に見えた。
「お懐かしゅうございます。」
斎が博雅の元に居た頃は、今は昔、一千年前になってしまった。その上、自分は琵琶でありながら、琵琶である事を辞めてしまって久しくて、人型の付喪神としている方が琵琶でいた頃よりも長くなった。
しかし、それでも、この男の前に出るとこの素直な魂に「自分を奏でて欲しい」と思ってしまうのも、また摂理だ。
「今日はどうしたのだ?」
屈託なく気持ちの良い笑顔を浮かべる博雅に、斎は雅に言われたように、雅の遣いで来た事と「ぜひいい琴が手に入ったので来て欲しい」と話した。
すると、それは博雅と雅信の間の秘密の合言葉だったらしい。博雅はニイッと笑い「相変わらず素直に頼むの苦手なようだ」と話す。
「それで本題はなんだ?」
そう訊ねられると、斎は雅の言ったように月読命への宴で演奏会をしたいことと、博雅にそれに参加して欲しい旨を話した。
「当日は絃上と私めを入れ替えて、演奏するのはどうかとの事でした。」
「雅信が絃上を弾くと――?」
「御意にございます。」
すると博雅は、顎に手をあてがい、うむと考え込む仕草をした。
「それで、月読命をもてなしてどうなるのだ?」
「月読命と素戔嗚尊の和睦を結ぶ心づもりなのかと。」
そう斎が返すと「仲が悪いよりは、仲が良い方が良い」と博雅は純な事を言う。
「して、どうすればいい?」
「音合わせに来て欲しいと申しておりましたが、受けてくださるのですか?」
「蕤賓のよき日に何を断る事があろう。だいたい雅信が誘うてくれるなど、生前ですら片手の指で足りるくらいだ。このように珍しき事、行かない手はない。誘うてくれるなら行こう。」
聞いていたのより、やはり楽に事が運びそうで斎はホッとする。
「ところで、雅信は息災か?」
そう訊ねられると言葉に窮する。最近は大きな怪我をしていたし、さっきも入れ墨と見間違うような痣が腕いっぱいに拡がっていた。
「どうしたのだ、何があった。」
「その辺りは今の私めからは申し上げられませぬ――。」
斎が口籠もると、奥からのっそりと二人の人影が現れた。いずれも人神となられた道真公と晴明だ。
斎はその姿を認めると、深く頭を下げた。
「占によれば、私もお供にした方が良いお話のようだ。」
白い無地の糊のきいたシャツにスラックスを履いた晴明が言うと、博雅は茶目っ気たっぷりに「いつ行く?」と問い、晴明がやはり茶目っ気たっぷりに「今、行こう」と言い出した。
「それは良いな。行こう、行こう。」
思い立ったら吉日と言わんばかりの二人に、斎が慌てていると、道真公が「弱い者いじめをするでない」と止めてくれる。
「そうはおっしゃられますが、先程の夢見の悪さはその鷹司大臣に所以がございますよ?」
その言葉に道真公は片眉を上げる。
「道真公は生前に大己貴命から託宣を受けられ、遣唐使を廃したとか。」
「それがいかがした――?」
「それは行ってみればおわかりになると思います。」
晴明はそう言うと空に五芒星を描き、ふぅっと息を吹きかける。それは加代子の操った魔法と同じようにふわりと辺りに広がると、晴明は「これでいいだろう」と言った。
斎が見とれていると「これは陽の気を練ったもの。魔の力は使ってはおりませんよ」と晴明が話す。博雅は「俺にはどちらも同じ、妖しの術に見える」と返す。
「博雅は何年経っても純な男よ。」
その言葉に博雅は「また馬鹿にされた」とむくれたが、道真公と斎は「良いコンビだ」と二人の掛け合いを眺めていた。
「さて・・・・・・青山。我らを雅信殿のところへ連れて行け。」
そう言われて、斎は晴明の名縛りにあう。口は勝手に「御意」と言い、今、来た道を戻り掛けて、ふと足が止まる。
このまま戻っても、あのマンションに雅の気が感じられない。なんとか感じたのは槐と小笹の慌てるような気配。
「いかがした?」
道真公が難しい顔をした斎に訊ねると、斎は「この高天原から雅信の気が消えております」と答えた。博雅は矢継ぎ早に「縁の者はどうなんだ?」と訊ねる。
「たった今消え・・・・・・、いや、氷川の社に向かってる――?」
晴明はその会話を聞いて、しばらく考えてから「ひとまず氷川の社へ案内してください」と言う。斎は逸る気持ちを隠せずに「御意」と言うと氷川神社に三人を案内することにした。




