絃上(げんじょう)
晴明と博雅は桜門を潜り、素戔嗚尊の神域から氷川神社の境内へと出たころ、道真公と斎はと言えば、誰も来ないのをいい事に胡座をかいて、何故かポータブル囲碁を楽しんでいた。
「おお、思っていたより早かったな。」
向こうで小半刻しか経っていないと思ったのに、どうやらこちらでは一刻近く経ったそうだ。博雅がきょとんとすると「神域は時の流れがゆるやかなのですよ」と晴明が補足する。斎は待ちきれずに「それでどうでしたか?」と訊ねた。
「中で、鷹司大臣と縁づく女の方とお会い出来ましたよ。」
「女? では、小笹がいたのでしょうか。それで小笹は?」
「彼女には先回りしていただき、少彦名命の戻るであろう愛宕の山に向かっていただいています。」
「少彦名命?」
「はい。」
晴明の言葉に《槐》と呼ばれていた少年が少彦名命と思い当たった斎はさっと顔色を悪くした。
「どうしました?」
「いや、先程、その少彦名命に大変な失礼なことをしたなと思い当たっただけです。」
少し遠い目をしつつ、斎は内心「はじめから教えておけよな」と内心で雅に悪態をつく。一方、晴明は道真公に向き直ると、「それと道真公の夢見の悪さも分かりましたよ」と答えた
「本当か――ッ!」
「はい。やはり素戔嗚尊と大己貴命との魂に共鳴し、揺さぶられているようです。」
「では、二柱の御心が落ち着かねば、我の夢見の悪さは続くのか?」
「事はそれでは済みません。下手を打てば、高天原、葦原中国、黄泉の国と、三界交えての戦ごとになりましょう。」
晴明の話に道真公は「戦ごとだと?」と困惑した表情になる。
「はい。あまり時間がありません。大己貴命であられた鷹司大臣のお考えに添うことしかできませぬが、今のうちに手を打っておかねば。これよりは二手に別れて対処したいのですが、差し支えないでしょうか?」
そう言うと道真公と斎には邸に戻り、絃上を探して愛宕の山に運ぶように話した。それから、四人で池の畔まで戻ると、晴明は二人を再び異空間同士を繋ぎ池渡りさせて見送る。
「さて、我らも行こう。」
「おう・・・・・・。」
博雅は晴明の緊迫した雰囲気に飲まれ、結局どこに行くのか教えてもらえぬまま、池の中へと沈んでいく。博雅も氷川神社に渡ってきた時とは異なり、躊躇う事無くその姿を池に沈めた。
中は先程と同じように薄い青で、晴明に案内されて先を進む。
「ところで晴明、そろそろどこに向かっているのか教えてくれないか?」
その言葉に晴明は呆れたように歩むスピードを緩めた。
「自分で言ったのにまだ分からぬのか?」
首を傾げる博雅に「お師匠様がいればと言ったのは博雅だろう」と話す。
「いや、だがしかし、お師匠様はもう一千年以上前に亡うなられたではないか。」
「それがだな、お師匠様はまだ高天原にいらっしゃる。」
滋賀の関蝉丸神社などいくつかの神社に祀られているらしい。
「とはいえ、近江まで行っているわけには行かないですから、王子の森に向かっています。」
王子神社は伊弉諾尊や伊邪那美命、天照大御神をお守りしているところだが、摂社に関神社が置かれている。
「鷹司大臣の事は伊邪那美命に聞かれると差し障りがありますから、これより出た後は、話して良いと言われるまでいつものようにして欲しい。」
「分かった、いつものように雅信のことは黙っていればよいのだな。」
晴明がこくりと頷くと道を開く。すると、池の代わりに手水舎の所に出た。
「ぬ? 池ではないのか?」
「近くにはありませんでしたからね。水のあるところを探ったここが一番近かったのです。」
そして、晴明は迂闊な博雅に目配せを送る。ハッとした博雅は口を手で覆った。
「さあ、参りますよ?」
緑の多い境内を進み、やがて小さな社の前に立つ。晴明は呪符を取り出すと、鷦鷯を生み出した時のようにふっと息をふきかけた。
途端にそれは人が入れるほどの扉に変じ、からりと引戸を引くと、中は異空間に繋がっている。
博雅は色々と晴明に問いたかったが、口をうっかり開けば雅信の事も話してしまいそうで、顔を真っ赤にして我慢した。
二人して引き戸をくぐり、晴明がその戸を閉めると、まるで何も無かったかのように引き戸は消える。
「鷹司大臣の事を話すなとは言ったが、息を止めろとは言ってないぞ?」
晴明にそう言われて、ようやくそれもそうだと深呼吸する。そして晴明は「もう話してもいい」と言った。
「もういいのか?」
「ああ、もうここは蝉丸殿の邸の中だから。」
その言葉に半信半疑で晴明の後を付いて進むと、なるほど中には琵琶のお師匠様がいる。
「そこにいるのは誰か――?」
懐かしい、懐かしいお師匠様――。
もっと沢山の曲を習いたかった師匠が目の前に、座っていらっしゃる。そう思うと博雅は涙がこみ上げてきた。
「お師匠様、博雅めにございます――。」
そう言うと落窪んだ目は昔のままに、首を伸ばし声の主を探ろうとする。
「お懐かしゅうございます。」
博雅は横に晴明がいるのも忘れて、急いで蝉丸の近くへと向かった。
「博雅が何故ここへ? お主はとうの昔に死んだのではなかったのか?」
「ええ、死にました、死にましたよ、もう一千年以上前に。」
そうして盲目の師匠の手を取ると、ああ本物だと声を漏らす。
「もう一人おるな、誰じゃ?」
蝉丸が庭にいる晴明の気配に気がつくと、晴明は「安倍晴明にございます」と名乗った。
「では、お主があの晴明か?」
「どの晴明なのかは分かりませぬが、晴明には違いありませぬ。」
そう笑いながら言うと「博雅、本題を忘れておるぞ」と話した。
「本題・・・・・・?」
「なんだ、自分で言い出したのに忘れたのか?」
博雅はそれでも「思い当たらぬ」と首を傾げる。晴明は博雅の代わりに蝉丸に話し始めた。
「蝉丸殿に奏でて頂きたい琵琶が一面ございます。名を絃上と申します。」
「絃上とは・・・・・・。」
「お察しのものにございます。」
しかし、蝉丸は思案顔になると博雅の手を頼りに博雅の方を向いた。
「絃上は博雅が居れば弾けるのでは?」
「はい。ですが、此度、博雅には別のものを弾いてもらう予定なのです。」
そして、今までの話を順を追って話し始める。その一見して荒唐無稽な話に蝉丸は相槌を打ちながら聞いた。
「俄には信じ難い話だ――。」
しかし、見えない目で蝉丸は色々なものを見てきた。人の持つ傲慢さ、残虐さ、醜さ、そして優しさ、清らかさ、愛しさ。
「盲た我が身に出来るのは、絃上を奏でる事ぐらいのようだが、それだけで良いのか。」
「ええ、もちろんです。」
それこそが大切な鍵。素戔嗚尊と月読命の和睦を大己貴命が望むなら、自分はそれを進めるしかあるまい。
この世に《偶然》はない。だが、先日の占が当たるなら再び乱世に入る。しかし、晴明はそれを望まなかった。
「先の戦は酷いものでした――。」
平安末期の頃の何百倍もの人が死んだ。
平和な頃は一人が死んでも悲しみにくれる人達が、戦乱の世では人の死を数で数え始め、やがてそれすらしなくなる。
あの頃は葦原中国と黄泉の国が混ざり合っているのかと思うほど、酷く濁った時代だった。
もし、あの頃と同じようになってしまうのだとしたら、それを避けるには《必然》のさらにその先を読み解くしかない。
そして、それが出来るのは、あの大己貴命だけだと晴明は考えていた。




