『デジタル・ステップ』 第11話 「体温というノイズ」
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保護局の地下にある旧式の医療フロアは、微かに消毒液の匂いが漂う、ひどく静かな空間だった。
パイプ椅子が並ぶ待合室。他に誰もいないその場所で、自分の名前が呼ばれるのを待つ時間は、彼女たちが「この世界から隔離されている」という事実をじわじわと実感させるには十分すぎるほど長かった。
うつむき、膝を抱え込むようにして座るシオリとマナミ。
その横顔を見つめながら、ユヅキはふと、自分の中に芽生えたばかりの透き通るような決意を口にしてみようと思った。今なら、この孤独を共有した今なら、二人も分かってくれるかもしれないと。
「……ねえ。私さ」
静寂に落ちた声は、自分でも驚くほど平坦だった。
「申請しようかなって思ってる。魂の移植」
空調の微かな稼働音すら止まったかのような、重たい沈黙が落ちた。
マナミが弾かれたように顔を上げ、信じられないものを見る目でユヅキを見つめた。
「は……? ユヅキ、今、なんて」
「だから、彼らと同じになろうかなって。機械の身体に」
ユヅキは淡々と続けた。
「このままじゃ私たち、ずっと蚊帳の外だよ。病気の不安を抱えて、今日みたいにシステムから弾かれて、特別扱いされる孤独をずっと味わい続けることになる。でも、彼らと同じになれば全部解決する。ケントたちと同じ輪に入って、普通に——」
「ふざけんなッ!!」
待合室に、マナミの金切り声が響き渡った。
彼女は立ち上がり、血走った目でユヅキを睨みつけていた。両手は強く握りこまれ、小刻みに震えている。
「なに言ってんの!? 機械になるって……自分の身体を捨てるってことでしょ!? あんた、気が狂ったの!?」
「狂ってなんかないよ。すごく合理的な話をしてる。この世界で生きていくなら、それが一番——」
「合理的とかそういう問題じゃない!」
マナミの怒鳴り声に重なるように、ドンッ、とシオリがユヅキの腕にすがりついてきた。
「やだ……やだ、ユヅキ、嘘でしょ……?」
見下ろすと、シオリの目からは大粒の涙が溢れ出していた。彼女はユヅキの腕を両手で強く、痛いほどに握りしめている。その手はひどく冷たく、じっとりと汗ばんでいた。
「置いてかないでよ……っ。私たち三人だけじゃん。ユヅキが機械になっちゃったら、ユヅキが『あっち側』に行っちゃったら、私とマナミ、本当に二人きりになっちゃう……!」
「シオリ……」
「そんなの絶対おかしいよ! 痛いのも、病気が怖いのも、全部生きてる証拠じゃん! それを捨てるなんて……ユヅキがユヅキじゃなくなっちゃうみたいで、怖いよ……っ」
シオリは子供のように声を上げて泣きじゃくり、マナミもまた、唇を噛み締めながらポロポロと涙をこぼしていた。
ユヅキは、腕にすがりつくシオリの体温と、その必死な力の強さを感じていた。
理屈ではないのだ。彼女たちにとって、ユヅキが機械化を選ぶことは「裏切り」であり、唯一の同胞を失う「死」に等しい恐怖なのだ。
(ああ……鬱陶しいな)
ユヅキは心の隅で、ひどく冷めた思考を回していた。
彼女たちの言う「生きてる証拠」なんて、ただのシステムエラーの言い訳だ。一緒に不便さを抱えて、一緒に孤独に耐えようと引き摺り込んでいるだけ。機械になっても記憶や性格が変わるわけではないのに、彼女たちは「生肉であること」に呪いのように縛られている。
振り払うのは簡単だった。
「ごめんね、私は行くよ」と告げて、この腕を解けばいい。そうすれば、すぐにでもあのノイズのないクリアな世界へ行ける。
しかし——ユヅキは動けなかった。
シオリの震える手の感触。マナミの怯えきった視線。
それらが、ユヅキの中にある「情」という名のアナログな回路を激しく揺さぶっていた。ここで自分が本当に機械化してしまえば、この二人は完全に心が壊れてしまう。元の世界に帰る希望もないまま、たった二人で、暗闇のような孤独の中で生きていくことになる。
(……結局、私もまだ『生肉』ってことか)
ユヅキは心の中で小さく自嘲した。
合理的な正解はわかっているのに、他者の涙や体温、そして「かわいそう」というノイズに足を取られて、最適な行動を選択できない。これこそが、彼女が最も忌み嫌い、捨て去りたかったはずの「人間の曖昧さ」そのものだった。
「……ごめん」
ユヅキは小さく息を吐き、シオリの背中をポンポンと、不器用に叩いた。
「ごめん。嘘、ちょっと言ってみただけ。……まだ、やらないよ。一人だけあっち側に行くなんて、しないから」
その言葉を聞いた瞬間、シオリはへなへなとその場に座り込み、マナミも安堵のあまり顔を覆って泣き崩れた。
二人の泣き声だけが、無機質な待合室に響き続ける。
ユヅキは自分の決断を「とりあえず」先送りにしてしまったことへのひどい徒労感を覚えながら、ぼんやりと天井の蛍光灯を見上げていた。
境界線を越えるには、まだ少しだけ、この手は温かすぎた。
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アナログの肉体が抱えるノイズ(脆弱性)と、デジタルの最適化。
もし病気も寿命もある「完璧に理にかなった機械」が存在したら、生肉であることの価値はどこにあるのか。そんな思考実験のようなヒューマンドラマです。
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