第18話「囁き」
その日から。
アンジェの世界は、少しずつ——色を、失っていった。
あの、白銀の王子は。
やはり、ロザリンド様の、ことばかり。
先日も。皆の前で、自らの命を懸けてまで、あの令嬢を、庇った。
罪人の娘と、誰もが蔑む、あの人を。
その光景を、思い出すたび。
胸の奥の——あの、黒い、しこりが。少しずつ、大きく、なっていく。
◇
そして、近頃。
アンジェの中には。"自分のものではない"声が——響くように、なっていた。
(おかしい。これは、おかしいわ)
(あの令嬢は、危険よ。みんな、騙されているの)
(あなたが、止めなければ。——だって、あなたは、特別なのだから)
(……ちがう)
アンジェは、頭を、抱える。
(わたし、こんなこと、思ってない。わたしは、ただ……)
けれど。
その声は。あまりに、優しく。あまりに、もっともらしく——囁くのだ。
——これは、醜い嫉妬なんかじゃない。
正義なのだと。皆を、あの危険な令嬢から、救うための。正しい、行いなのだと。
その囁きは。
アンジェの、いちばん優しい部分を。巧みに、くすぐった。
——そう。わたしは、ただ、みんなを、助けたいだけ。
ロザリンド様は、謀反の家の、娘。きっと、何かを、企んでいる。アルフォンス殿下だって、騙されているのよ。だから——わたしが、目を、覚まさせて、あげなくちゃ。
それは、いつのまにか。
"醜い嫉妬"の顔を、脱ぎ捨てて。"正しい使命"の、顔を、して。
アンジェ自身にも——もう、その見分けが。
つかなく、なっていた。
◇
「——アンジェ嬢」
ふいに、かけられた、声。
振り返ると、そこには——セドリックが、穏やかに微笑んで、立っていた。
「最近、少し、お元気がないようだ。……何か、お悩みでも?」
「……セドリック様」
その、優しい声音に。
アンジェの、張り詰めていたものが、ふと、緩む。
「……わたし。おかしいんです。ロザリンド様のことを、考えると。胸が、苦しくて。怖くて。……こんな気持ち、知らなくて」
セドリックは。
痛ましげに、目を、伏せた。
——だが、その奥で。氷のような瞳が、すっと、光ったことに。アンジェは、気づかない。
「……ああ。あなたは、優しいから。気づいて、しまうのですね」
「え……?」
「ヴァレンシュタイン嬢の、危うさに。——あなたのその勘は、きっと、正しい」
囁くように。彼は、毒を、注いでいく。
「謀反の家の、生き残り。何を企んでいても、おかしくはない。……アルフォンス殿下までもが、あの女に、絡め取られている。誰かが、止めなければならない。——そうは、思いませんか」
(……ほら。やっぱり)
アンジェの中の、声が。我が意を得たり、と、囁いた。
セドリックの言葉と、あの"自分のものではない声"が——ぴたりと、重なる。
「……はい」
気づけば、アンジェは。
そう、頷いて、しまっていた。
「わたし……みんなを、助けたい、です」
その、健気な横顔を。
セドリックは、満足げに、見つめる。
(……使える。聖女の"善意"ほど、御しやすい刃は、ない)
策士の頭の中で。倒れていた駒が——ひとつ、また、盤上に、立ち上がった。
◇
その日の、夕暮れ。
「……ひかり殿」
アルフォンスが、ふと、足を、止めた。
「あの娘の、影が。——濃く、なってきておる」
『……うん。アンジェ、だいぶ、引力に、呑まれかけてる。しかも、セドリックが、横から油を注いでる感じ。……最悪の、合わせ技だよ』
「人の善意に、巣食う悪意か。——もっとも、質の、悪い」
アルフォンスの、紅の瞳が。静かに、翳った。
「急がねば、なるまい。——あの娘の心が。引力に、喰い尽くされて、しまう前に」
迫りくる、断罪の、影。
それはもはや、誰かの陰謀だけでも。見えざる引力だけでも、なく——その両方が。
ひとりの、無垢な少女を、依代にして。静かに、形を、成し始めていた。




