第17話「名前を、知らない」
その夜。
自室に戻っても、ロザリンドは、眠れなかった。
突き放す、つもりだった。
もう関わるな、と。冷たく、言い捨てて——それで、終わるはずだった。
なのに。
『——己の身が、どうなろうと構わぬ。それは、いかぬ』
『お前まで、滅びては。地の底のご家族は、果たして、それを、喜ぶか』
あの男の、声が。
耳の奥に、こびりついて——離れない。
◇
復讐だけが、彼女の、すべてだった。
家を焼かれ、家族を奪われた、あの日から。
ロザリンドは、自分の中の、やわらかいものを、すべて、凍らせた。
笑うことも。泣くことも。誰かを、想うことも——何もかも、捨てた。
そんなもの、復讐の、邪魔にしか、ならない。
心を凍らせて。憎しみだけを、燃やして。その焔だけを、頼りに、生きてきた。
自分が、どうなろうと、構わない。
家族の無念さえ、晴らせるのなら。この命など、いつ果てても、いい。
——ずっと、そう、思って、いた。
なのに、あの男は。
よりにもよって——「生きろ」と、言った。
罪人の娘と、誰もが蔑む、この自分に。
お前まで、滅びるな、と。——本気で、案じる、目で。
その瞬間。
何年も、凍りつかせてきたものが。音を立てて、崩れて。
気づけば——涙が、こぼれて、いた。
◇
それから。
おかしいのだ。
ふとした瞬間に、あの男の、顔が、浮かぶ。
あの、涼やかな声を、もう一度、聞きたい、と思う。
遠くに、あの白銀の髪を、見つけると——胸の奥が、妙に、ざわめく。
(……これは、何)
ロザリンドには、分からなかった。
憎しみなら、知っている。
怒りも、絶望も、孤独も。——嫌というほど、知っている。
けれど、この。
胸の奥が、あたたかくて。少し、苦しくて。なのに、嫌じゃない——この感情の、名前を。
彼女は、知らなかった。
凍らせる前の、幼い自分なら。あるいは、知っていたのかも、しれない。
けれど、もう。とうの昔に、忘れて、しまった。
(……だめ)
ロザリンドは、頭を、振る。
(こんなもの……わたくしには、要らない)
これは、弱さだ。
復讐を、鈍らせる、毒だ。死んだ家族を、裏切る、甘えだ。
こんな、あたたかいものに、ほだされて。——もし、復讐の手を、緩めたら。
あの日、焼かれた、父と、母と、弟に。
わたくしは、どんな顔で、詫びれば、いいの。
(……忘れなさい。あの男のことも。この気持ちも。——ぜんぶ)
固く、目を、閉じる。
けれど——瞼の裏に、浮かぶのは。
やはり、あの、まっすぐな、紅の、瞳で。
消そうと、すればするほど。
それは、彼女の中で。静かに、けれど、確かに——根を、張って、いくのだった。
◇
翌日。
中庭で。
あの男は、相変わらず、だった。
人垣の中で、あの大柄なローランに、稽古をつけ。
生徒たちに、囲まれても。少しも、媚びることなく。ただ、まっすぐに、そこに、立っている。
蔑まれても。恐れられても。決して、揺らがない。
——いつか、あの男は。
罪人と蔑まれる、このわたくしを。"厳しい泥濘にこそ、凛と咲く花"だと、言った。
(……菖蒲、だったかしら)
聞いたことも、ない、花の名。
けれど、あの言葉だけは——今も、胸の、あたたかい場所に、残っている。
気づけば、ロザリンドは。
その口元を、ほんの少し——ゆるめて、いて。
そして、それに、気づいた瞬間。
かっと、頬が、熱くなった。
(……っ、わ、わたくしは、何を……!)
慌てて、顔を、背け。
足早に、その場を、立ち去る。
名前も、知らない、その感情に。
すでに、振り回され始めていることに——。
誇り高き令嬢は、まだ、気づかぬふりを、するので、精一杯だった。
◇
復讐のためだけに、凍らせた、心。
その氷が——あの夜から、少しずつ、溶け始めている。
それが、何を、意味するのか。
認めて、しまえば。きっと、もう——後戻りは、できない。
だから、彼女は。今は、まだ。
必死に、目を、逸らし続ける。
凍った心の、奥の奥で。
ちいさな、けれど、消えない温もりが——とうに、灯ってしまったことに。




