モデルになってくれない?
◆
「うん。合格。下野さん、お疲れ様でした」
採点を終えたキズナ先生がそう言った。私は聞き逃さなかった。
深々と頭を下げる。嬉しさを表に出さないよう、口をきゅっと結ぶ。が、どうにも上手くいかない。どうしてもにやけてしまう。
なんでもない風を装って、髪をなびかせようとしたら手が宙を切った。そうだった。短くしたんだった。
教室を出て、私は歩き出した。
一歩一歩、踏みしめるようにして。
そうして誰もいないところまでやってきて、遠慮なく叫んだ。
「終わったァァァ!! しゃああああ、フゥーーーー!!!」
今! この瞬間に! 私の地獄は終わったのだ!
本当につらい日々だった。
夏休みなのに朝早い時間から学校に来させられて、お昼まで勉強して、課題を出されて、やる気が出ないからちょっと遊んで、問題を読んでいたら眠くなって、眠気覚ましに軽く運動して、お母さんにご飯作ってもらって、お風呂入って、夜遅くから透真くんと勉強して…………うんうん! ホント私えらい!
走り出したい。
というか既に走っていた。
途中、速水くんと遭遇してバトルした。さすが陸上部男子、私より少し速い。トライアスロン大会が楽しみだ。
そんなこんなで、気付いたら第二校舎にたどりついた。
「自由だぁぁああ!!! 最高ーっ!!」
ありったけ走って、叫んで、ようやく落ち着いてきた。
この喜びを誰かに伝えたい。
私は唯一無二の女友達へ電話をかけた。
『………なに』
さきな―――ムラサキと呼ばれている少女の声は、寝起きみたいにしゃがれていた。もしかして眠っていたのか。ありえる。さきなはお寝坊さんなのだ。
「聞いてほしいことがあって!」
『やっと補習終わった?』
「なぜ私が補習だって知ってるの!?」
『みんな知ってるよ』
なんということだろう。こんな不名誉、隠していたのに。
それともみんな、私に興味津々なのだろうか。という話をしたら『単純に声がでかいだけ』って言われた。
『ま、とにかく。おつかれ』
「私の夏はこれから始まる!」
『よかったじゃん』
「あそぼ!」
『いやだ』
「いやだ!?」
『今のうらかはめんどくさそう』
否定できない。うざ絡みをしてしまう自覚がある。
「さきなってもしかして私のこと嫌いなの……?」
『いや。ぜんぜん』
「だよねー」
私はさきなとの関係性をとても気に入ってる。
こんな遠慮のない物言いなのに、私は全然傷ついていない。さきなの方も、私に対して心を閉ざしているわけじゃない。そんな絶妙な関係性を女子相手に築けていることが不思議だった。東京じゃこういう友達は作れなかった。
『切るよ』
けどそれはそれとして、私はこの少女のことがとても好きだと公言して憚らぬので、もう少しだけお喋りをしていたい。
彼女を引き止める材料は一つしかない。
「さきな、ちゃんと透真くんに会えてる?」
少しだけ申し訳ない気持ちもある。
私が補習に付き合わせなければ、透真くんはさきなと会う時間を作れたはずだから。間接的に2人の邪魔をしたと言える。
さきなは軽い調子で答えた。
『ああ、昨日――――』
「昨日?」
つい、話をさえぎってしまった。
昨日も透真くんはバイトで1日忙しかったはずだ。夜からは横綱食堂の出前をこなすと言って。誰かと会う時間なんて作れるだろうか。
さきなは数秒間だけ口を閉ざして、やがて答えた。
『――昨日じゃなかった。勘違い。何日か前に、少しだけ、会った気がする』
「なんか曖昧な証言」
『細かいことは覚えてられない』
思わず笑ってしまった。
さきなはこういう大雑把なところがあるのだ。そういうところも可愛い。
「あ、そうそう。もう一個言っておくことあって」
『うん』
「トライアスロンの大会に出ようと思ってるの。透真くんも一緒に」
『あー』
「あんまり驚いてないね。知ってた?」
『うらかの声が大きいせいかな』
「またそういうこと言う~」
でも、あれ? とも思う。
あんまり人前でこの話題を出したことはないような。
でも細かいことを考えるのはやめた。さきながそういうならきっとそうなんだろう。
「で、えっと。1週間くらい透真くんと同じ宿にいることになりそうなんだけど」
トライアスロンの練習のため、私は8月8日から透真くんと合流する。
こういうデリケートな事実は、先に報告しておくに限る。
さきなは透真くんに会えないのに、ぽっと出の私がまたしても彼との時間があることに引け目を感じる。もちろん、男子としての透真くんをどうこうしようなんて微塵もないけど。それはそれ。これはこれなのだ。
『ふーん』
興味がなさそうな相槌だ。
でも本音のところで穏やかではないはず。
私の口から言い訳が飛び出す。
「もちろん私と部屋は違うし、透真くんは速水くんって別の男子と相部屋だから!」
『ほーん』
「……嫌じゃないの?」
『なにが』
「こういうの」
我ながらふわっとした物言いだけど、これで伝わるはずだ。
『たとえば、あたしが駄目だっつったら、うらかはどうする』
「そのときは別の宿を探すよ。もしくは自宅から通いかな」
迷いなく答える。当然の結論だった。
さきなは電話のむこうで笑った。
『ばーか』
見えないはずの笑顔が見える。あれ、病気かな?
『そんな大変なこと、友達にさせるわけないだろ』
……なんだろう。
さきなに友達とか言われると、ものすごく嬉しい。
だって多分、さきながそんな風に言ってくれる女は私だけだから。
透真くんに向ける感情とはまたちがう親愛を、私は受け取っている。
その事実が、なんといいますか、イイ……。
私は火照った頬を手であおいだ。
「じゃあさ、応援きてよ! 透真くんを驚かせちゃおう! 私もさきながいてくれたら嬉しいし!」
『考えとく』
そっけない返事だったけど私にはわかる。確実に来る。
好きな人が頑張るところを、さきなが見逃すわけない。
そのあと短いやり取りをして、電話を切った。
なんだかんだ結構話し込んでしまった。
「さーて、そろそろ帰りますか!」
ずっと外にいたせいで汗だくだ。話し込んでいるうちは気にならなかったけど、今日も暑い。第二校舎のなかへ引き返して、そして外以上の蒸し暑さにくらっときた。そういえばここ、人が来るようなところじゃなかったわ。空調が効いているはずもないし、掃除だって全然……。
「んん? なんか綺麗になってる?」
以前来たときは歩くたびにホコリが舞って、そこらじゅうに汚れがこびりついていたのに、目の前の廊下も壁も清潔になっていた。誰か入ったのだろうか。用務員ですらここには立ち入らないはずだけど。
痕跡をたどって階段を上がっていくと、ふいに夏の風が吹き抜けていった。
窓が全て開いている。換気をしているおかげで、むわっとした嫌な暑さはない。なんならちょっと涼しかった。
空き教室から、人の気配がする。
扇風機の音も聞こえるし、間違いない。
こんなところに居座っている物好きさんは誰だろう。
ちょっと気になって、私はその教室を覗き込んだ。
まず目についたのは大きなキャンバスだった。
人の背丈くらいあるじゃん、って思ったのは実際に人が立っていたからだ。
しかもその後ろ姿に、私は見覚えがある。でも、夏休みに入ってから一度も会ってなかったせいで、ちょっと自信がなかった。
おそるおそる、声をかける。
「ヨウキャくん?」
「っ!?」
すごい勢いで振り返ったヨウキャくんは、私の顔を見るなり真っ青になってそのキャンバスの後ろに隠れてしまった。速い。なんて俊敏性だ。
ヨウキャくんがゆっくりと顔を出す。眼鏡のレンズ越しに目が合った、のだけど。どういうわけかヨウキャくんは変わらず訝しげに目を細める。まるで私が誰だか分かってないみたいに……。
「あっ!」
気付き、私は自分の髪に触れた。
「髪切ったの!」
「!」
ヨウキャくんが慎重な足取りで近づいてくる。
まじまじと観察されること数秒。ヨウキャくんの表情がやわらいだ。愛用しているタブレットに手を伸ばし、タッチペンがさらさらと走る。
『誰かわからなかった』
画面に表示されていたのはそんな言葉だった。
話すのが得意ではないヨウキャくんとは、こんな調子で筆談となる。
「暑くて暑くて。思い切ってバッサリと。どう?」
『よく似合う』
「ふふ、ありがと!」
『もしかして補習受けてた?』
紡がれた文字列に、私は言葉を詰まらせた。ホント、みんなに知られているんだな……。
「う、うん、まあ。でももう終わったから!」
『よかった』
「ヨウキャくんこそ何をしていたのかな!?」
話題をそらしたくて大きな声で聞いてみる。
もちろん純粋な疑問もあるけど。
私の視線は自然と、後ろの大きなキャンバスに流れていく。彼はどうして、こんな場所で絵を描いているんだろう――――
ヨウキャくんの身体がキャンバスを隠した。見ないで、と言いたげに。
私はうっかり人の着替えをのぞいてしまった気分になって、くるりと反転した。ガサゴソと物音がきこえる。もう一度振り返ったとき、キャンバスは布で覆い隠されていた。
『完成したらみんなにも見せたいと思う』
「そっか」
会話が途切れる。会話っていうか、コミュニケーションが。
作業の邪魔になっているだろうか。そうかもしれない。わざわざこんなところに1人で来ているのだから。透真くんともしばらく会ってないみたいだし、きっとそうだ。
「それじゃあ、ヨウキャくん。私はこのへんで」
「あっ……」
去ろうと背を向けていた私はその肉声に驚いた。
今、ヨウキャくん喋った?
ヨウキャくんの手は中途半端に空中で静止していた。私を咄嗟に引き止めようとしたみたいに。
彼は苦悩するように眉根を寄せて、やがてタブレットにこんな文字を書いてみせた。
『よかったらモデルになってくれない?』




