第18話『後悔と勇気の記憶』
私の父さんは外科医だった。
いつもニコニコしていて、優しくて、でもちょっと気が弱くて。母さんの尻に敷かれていたけど、私も母さんも父さんのことが大好きだった。
同僚の看護師さんや患者さんからの評判もよくて、父さんはたびたび患者さんと「友達」になっては病院の中庭でおしゃべりしていたっけ。
父さんはうっかり屋で、忘れ物をすることが多かった。特にお弁当を忘れることが多くて、そのたびに私が父さんの勤め先の白鐘病院まで届けに行っていたのを覚えている。
今思えば、父さんは私に会いたがってわざと忘れていってたのだと思う。しかし、そんな事を知らない私は「仕方ないなぁ」と呆れ半分だった。
父さんと、患者さんと、私と。
中庭のベンチに座ってお昼を食べるのは、人と話すのが苦手な私にとってもささやかな楽しみだった。
ある時は、腰の悪いおじいさん。
ある時は、バイク事故で骨折したお兄さん。
ある時は、肺を悪くしたおばさん。
ある時は、幼い私と同じくらいの女の子。
色んな人とおしゃべりした。
みんなそれぞれ、色んな話をしてくれた。
みんな、父さんと喋っている時は笑顔だった。悩みを話していた患者さんも、話が終わるとすっかり笑顔になって他愛のない話をしていた。
父さんは患者さんの体の傷だけじゃなくて、心の傷も治していた。だから、患者さんも看護師さんもほかの医者の方々も、みんな父さんのことを慕っていた。
そんな優しい父さんは、私の誇りだった。
「ねえ、おとうさん」
「ん? どうしたんだい、ハユル?」
「どうしておとうさんは、そんなにいっぱいお友達を作れるん?」
当時8歳だった私は、父さんの転勤で東京に引っ越してきたばかりでまだ学校にも上手く馴染めていなかった。言葉遣いも周りと違うし、元々内気な性格だったし、髪の色も派手だし。
それに何より、この異常な聴覚――そのせいで「人の嘘がわかってしまう」ことが私の臆病さに拍車をかけていた。
そんな私の問いに対し、父さんはしばらく考えてから答えてくれた。
「うーん……勇気を持つこと、かな」
「?」
「友達を作る秘訣だよ。ハユルはお友達がいっぱい欲しいんだろう?」
「う、うん」
「じゃあハユルから話しかけてみたかい? お友達になってくでさい、って」
「そ、それは……その、怖いんよ。もし拒否されたらどうしようって。もし友達になれても、嫌われちゃったりしたらどうしよって……」
幼くして、すでに私のネガティブ思考は全開だった。
人が怖い。嫌われるのが怖い。不機嫌にしてしまうのが怖い。表情の裏に負の感情を持たれるのが怖い。それに気付けてしまう自分の体が怖い。全部、全部、怖かったのだ。
父さんは「ハユルもある意味大人だなぁ……」と苦笑しながら、
「でも、その気持ちもすごくわかるよ。父さんも昔はそんな風にばっかり考えてたから、高校生になっても友達がいなくてね。いっつも勉強ばっかりしていたよ」
「そうなん……?」
「うん。友達と遊ぶ時間なんて作らずに、いっつも勉強しかしてなかったんだ。だから父さんはお医者さんになれた。それはそれで良かったと思うけど……最近、少し後悔してるんだ」
「後悔……してるん?」
「ちょっぴりね。父さんにいっぱい患者さんの友達ができて、その友達といっぱいお話をして……思ったんだ。みんな、すごく面白い人生を送ってきたんだなぁ、って」
「おとうさんは、人生が面白くなかったん?」
「いや、そういうわけじゃ……あぁでも……うん、100パーセントは否定できないかな。父さんは勉強ばっかりしてたから、友達がいなかったんだ。だから、友達と遊ぶ楽しさを知らない。友達と笑う喜びを知らない。友達とケンカした時の怒りも知らない。仲直りできた時の安心感も知らない。患者さんのお話の中でしか、そんなものは知らないんだ」
父さんの話は、8歳の私には難しい話だった。
しかし、何となく父さんが寂しそうな顔をしていたのは私にもわかった。いつも穏やかな父さんの微笑が少し乾いて見えたその瞬間は、私にとっても印象的だったのをよく覚えている。
「あぁごめん、難しい話だったね。要するに、そんな体験ができるのは今だけってことさ。怖くて話しかけられないっていうなら、まずは話しかける勇気を持とう」
「でも、怖いものは怖いよ……」
「大丈夫さ。ハユルは優しくて素直ないい子だ。患者さんとあれだけ明るく話せるなら、きっとクラスのみんなとも友達になれるよ。それに……この可愛らしい耳も」
「んっ」
そう言って、父さんは私のピンと立った耳を優しく撫でた。私にとってはコンプレックスであり、周りから「嘘」を否が応でも拾ってしまう獣の象徴。そのミルク色の毛並みに、父さんは微笑しながら言った。
「この耳はね、きっと神様からのプレゼントなんだよ」
「ぷれぜんと……?」
「ああ、そうさ。確かに人の気持ちが読めるのは怖いかもしれない。人が平然と嘘を吐くのを見るのは嫌かもしれない。……それでも。人の本当の気持ちがわかるハユルだからこそ。その人と本当の意味で仲良くなれるんじゃないかな」
だからこそ、怖がらずに踏み込む。
お互いが等身大でぶつかり合う。
本音と本音で話し合える。
それは、嘘を吐かれる悲しさを一番知っている私だからこそできる事だから――と、父さんは私に優しく諭した。
「それに、案外人の心なんて気まぐれなものだよ。イタズラで小さな嘘を吐いてみたり、素直になれないだけだったりね。ハユルだって、友達と仲良くしたくても怖くて近寄れないだろう? ある意味それも同じなんじゃないかい?」
「……そ、そう、かもしれへん……」
「ね。みんな一緒なんだよ。そして、それを知ってるのは人の気持ちがわかるハユルだけなんだ。ハユルだけが、みんなとみんなの架け橋になれるんだよ」
「わたしだけが……」
自分の胸に手を当て、父さんの言葉を反芻するように呟く。
その心の中にあったのは、不安と、戸惑いと、謙遜と……そして、高揚感。その瞬間、コンプレックスでしかなかった私の体質は、希望という新しい可能性へと変わり始めていたのだ。
「こ、こんなわたしにも……できるんかな……?」
「できるさ。父さんが保証するよ。もしダメだったら、また父さんと作戦会議しよう。ハユルのイメージ改善&友達ザクザク大作戦! 父さんでよければいっしょに考えるよ」
思い返せば、私はこの時の自分と九頭龍くんを重ねていたのだろう。もちろん九頭龍くんは私と違って、臆病で話しかけられないなんてことはなかった。
それでも、私は彼の力になりたい……私にとっての父さんのようになりたかったのだった。
そして、その数日後。
結論を言うと、私にはたくさんの友達ができていた。話しかけるのはやっぱり怖かったけれど、父さんのアドバイスで勇気を出した甲斐があった。
「おとうさん! わたし、いっぱい友達できたよ!」
「おお、それはよかった! 自分から話しかけられたかい?」
「うん! 最初はみんなびっくりしてたし、わたしも怖かったけど……でもみんな本心から仲良くしてくれたんよ!」
「そうかそうか! よく頑張った! これもハユルが勇気を出して頑張ったからだよ。これからもこれを忘れないようにね」
「はーい! あ、お父さん! また今度、お友だちといっしょに来てもいい?」
「父さんはいいよ、大歓迎だ!」
幼い日の、幼い約束。私にとっては、私が買われたきっかけでもある大事な思い出だった。忙しかった父さんを振り回してしまったけど、それでも私も父さんも、そんな日々が幸せだった。
早く友達を紹介したい。一緒に色んな話をしたい。私のこの聴覚を生かして、私にしかできない事をしたい。
父さんとの約束が、それら全てのスタートになると信じて疑わなかった。
しかし、その約束が果たされることはなかった。
その翌日の深夜。
父さんは、死んだ。
白鐘病院内に大量の魔物が突如として出没し、医師や看護師、患者を皆殺しにしたのだ。
その残虐性もさることながら、こんな事件が起こったことそのものが異常だった。
というのも、魔物に荒らされている区画とまだ都市として機能している区画は、重厚な壁のような結界で区分けされているのだ。
加えて、都心部の大病院や研究所、教育機関、騎士団本部などの重要施設はさらに複雑な結界に取り囲まれている。
この二重構造の結界をすり抜けて、魔物が空間を突き破ることなど不可能なはず。にもかかわらず、魔物の軍勢が魔法界から押し寄せたのだ。
しかも、マスコミはこの事実を綺麗さっぱり隠蔽した。この事件はあくまで「反魔法界過激派テロ組織によるもの」と公表されたのである。
それは結界に対する、崇拝にも近い社会的信頼を損なわせないための「虚構」であり――そして何より、父さんの死を穢すものだった。
真実を知らされたのは私と母さんのたった2人だけだったのだ。
許せなかった。
失望した。
誰かが真実を公表しなければならないと思った。
それをできるのは、皮肉にも私だけだった。
この失望と、絶望と、怒りを知っている私しか。
幼い私は、そんな思いに支配されていた。
これが後に「近年最悪のテロ事件」と呼ばれ、騎士団や国防の軍備増強を踏み切らせるきっかけとなった事件――『白鐘の悲劇』の実態。
しかし、私の悲劇はこれで終わらない。ここから先は、私の後悔の記憶。私が「勇気」に縛られるようになったきっかけだ。
父さんの葬儀は、「悲劇」から1週間も経ってから執り行われた。「悲劇」でたくさんの人が亡くなったから、葬儀場の空きが中々できなかったのだ――と、語っていた葬儀屋からは嘘の心音がした。
しかし、そんな事はもはや私にとって些細なことだった。私はその1週間で、悲しみよりも怒りや憎しみを煮えたぎらせていたのだから。葬儀の間も、私は血が滲むほどに唇を噛みしめることしかできなかった。
葬儀が終わり、親戚や父さんの友人を名乗る人々が母さんにすり寄ってきていた。
彼らからはことごとく嘘の心音がした。母さんは一目見てわかるくらいにやつれていて、私も耳障りな心音のリフレインに苛立っていたのを覚えている。
そして、ようやく嘘の大合唱から解放された時――1人の高校生くらいの少年が母さんと言葉を交わし始めた。
その少年は、「悲劇」の唯一の生き残りだった。
少年の存在そのものは頭にこびりついて離れないが、彼の顔がどんなものだったかは思い出せない。顔のほとんどが包帯で覆われていたから、尚更だった。
ただ、鮮血をぶちまけたような真紅の髪と、包帯の奥で爛々と輝く金色の瞳をしていたのはよく覚えている。
少年は感情が死滅したような目で虚ろな表情をしていた。
声色も不気味なほどに機械的な、まるで感情を出したくても出し方がわからないかのような痛々しいもので、「悲劇」の凄惨さを物語っているようだった。
「俺が……俺だけは……あの人を救えたはずだった……。なのに俺は、よりにもよってあの人を……本当に、申し訳ありませんでした」
「貴方が謝ることじゃないわ。顔を上げてちょうだい。■■くんも大変な思いをして、苦渋の決断をしたんでしょう? 主人も貴方を決して恨んでなんかいないわ。……それに、せっかく生きてても貴方がそんなんじゃあの人も悲しむわ」
「でも……」
「今はまだ立ち直れないでしょう。私だってそうだし、この子だってそう。それでも、立ち止まってちゃ明日には進めない……あの人はそう言って貴方を励ましたんでしょう? なら、前に進むしかないわ」
うなだれる少年と、優しい言葉をかける母さん。きっと、「悲劇」にはまだ母さんと少年しか知らない裏事情があったのだろう。
しかし、その時の私にそんな事に気付く余裕なんて無かった。気付かないだけならまだよかった。あろうことか、私はその時少年のことを罵倒したのだ。
「な……れ……」
「ハユル……?」
「何……それ……? あなたが、おとうさんを助けられたはずだって……! じゃあなんで助けなかったの!? あなたが……お前が! お前がしっかりしとったら、おとうさんは……っ! それやったら、お前がおとうさんを殺したのと一緒や!! お前が……お前さえ……っ!」
「ハユルっ!? ご、ごめんなさいっ、この子テレビの報道にずっとイライラしてて……あなただって辛いのに……っ、本当にごめんなさいっ! ほらハユルっ、あんたもちゃんと謝りなさい!」
「それなら……っ! それなら、おとうさんはなんで死んだん!? お前は全部知ってるんやろ!? 生き残りなら、全部見てたんやろ!? なぁっ!?」
この少年は全て知っている。全て見ている。この場で少年からは……少年からだけは、嘘の音がしなかったから。私の耳は誤魔化せない。知っているはずなのだ。
そんな私の問いかけに対する少年の返答は――沈黙。答えられないのではなく、答えたくない。そんな類のものだった。
「ほらッ! やっぱりこいつがおとうさんを殺したんや! しかもこいつだって本当のことを知ってるはずなのに、ずっと隠して……! 絶対に、絶対に許さないッ!!」
「ハユル!」
私の行き場の無い怒り――もはや八つ当たり以外の何物でもないそれに、母さんが平手を振り上げる。
「やめてあげて下さい」
しかし、その瞬間に少年が口を開き、まるで時が止まったかのように私も母さんも静止した。そしてそのまま少年はぽつぽつと言葉を紡ぎ続けた。
「……事実ですから。俺があの人を殺したようなものです。真実を隠して、あの人の死を穢しているのも、弁明のしようがありません。全部、その子の言った通りですから……本当に、申し訳御座いませんでした」
深々と頭を下げる少年。言葉を失う母さん。歯を食いしばり、少年を睨みつけていた私。
その沈黙を私が破ろうとした瞬間――少年は、頃合いとばかりに出てきた騎士団のコートを着た男達に連れて行かれてしまう。その突然の別れに、私も母さんもその背中をただ呆然として見送ることしかできなかった。
そして、それ以来その少年と出会うことは二度と無かった。
これが、私の一番の後悔。
なんであんな酷いことを言ってしまったんだろう。
あの人だって、父さんの友達だったのに。
辛いはずがないのに。
感情が死んでしまうほど、思い悩んだに違いないのに。
私はそれをメチャクチャにした。
たった一言でもいい。私はこの人にちゃんと謝りたい。
ただの自己満足と取られても仕方がないかもしれない。それでも、私はあの時の少年に謝罪しなければならない。
年齢も外見もわからない。今何をしているのかも知らない。母さんもあの少年については頑なに喋ろうとはしてくれなかった。手がかりなんてゼロに等しい。
だから、私の力で調べ出す。
記者になって、「悲劇」の真相を突き止めて、それを公表して――その上で、記者の人脈をフル活用して少年を見つけ出さなければならない。それもきっと、私にしかできないから。
正直に言うと、怖い。怖くて怖くて仕方がない。
私の発言でこの人がどれだけ傷ついたか?
私の謝罪を、怒りと共に一蹴されたら?
相手にすらしてもらえなかったら?
もう手の届かない所にいたら?
すでに死んでしまっていたら?
想像するのが怖い。
だから、そんな恐怖を乗り越えられる勇気が欲しい。
あの時、友達作りのために話しかけた勇気と同じように。
あの時よりも、もっともっと強く確固たる勇気が欲しい。
そうして私は、人生を「勇気」に捧げることを決意した。
それから10年近い月日が経って、色んな経験をした。
色んな悪意に触れた。
色んな嘘に触れた。
悪意の無い善意の悪にさえ触れた。
そうしているうちに、またかつてのような臆病者に逆戻りしてしまったけれど。それでも、私は借り物の勇気を胸に進むしかないのだ。
たとえ、命を懸けてでも。




