第2話 ついに年末ライブ当日
月日は流れ。
春が過ぎた。
美都乃荘の花壇には色とりどりの花が咲き、休日が合えば京子は管理人と一緒に水やりをした。
夏が来た。
猛暑の中、システム障害で三日連続終電帰りを経験した。
秋が過ぎた。
大型案件のリリースを終え、気付けば街にはクリスマスソングが流れていた。
そして迎えた十二月。
上杉京子はこの半年間、
大量の仕様変更に耐え、
障害対応に耐え、
休日出勤に耐え、
理不尽な会議に耐え、
顧客の「やっぱり変更で」の一言に耐え、
営業の「簡単そうですよね?」にも耐え、
年末ライブだけを心の支えに生きてきた。
すべては今日のため。
十二月二十八日。
午前五時。
まだ外は真っ暗だった。
四〇二号室。
スマートフォンのアラームが鳴る前に京子は目を開いた。
静かな部屋。
暖房の微かな音だけが聞こえる。
京子はゆっくり身体を起こした。
そして枕元に置いていたスマホを手に取る。
ロック画面。
ミックス五人の集合写真。
その下には年末ライブの電子チケット。
何十回も確認した画面。
ファンクラブ最速先行。
アリーナ席。
ステージ近く。
奇跡の神席。
京子の目に涙が浮かんだ。
「半年頑張った……」
ぽつりと呟く。
今年も本当に大変だった。
深夜一時に発生した緊急障害。
休日の呼び出し。
無茶な納期。
終わらないレビュー。
数え切れない修正依頼。
心が折れそうになった夜もあった。
そんな時。
いつも支えてくれたのはミックスだった。
通勤電車では楽曲を聴いた。
残業中はライブ映像を思い出した。
疲れた夜はDVDを見た。
だからここまで来られた。
京子はチケットを胸に抱きしめた。
「皆に今日会える……」
それだけで幸せだった。
午前七時。
変身開始。
それはもはや儀式だった。
丁寧に髪を巻く。
コテを使いながら鏡の中の自分を確認する。
化粧もいつもより念入りだった。
ファンデーション。
アイシャドウ。
チーク。
リップ。
少しずつ完成していく。
仕事モードの疲れたSEの顔は消えていく。
代わりに。
推しに会う女の顔が現れる。
クローゼットから取り出したのはお気に入りの姫系ワンピース。
白を基調にした柔らかなデザイン。
推しカラーのピンクリボン。
お気に入りのネックレス。
小さなパールのイヤリング。
最後に推しバッグ。
ライブ専用装備を確認する。
ペンライト。
予備電池。
タオル。
うちわ。
モバイルバッテリー。
財布。
チケット。
完璧。
鏡の前で一回転する。
ふわりとスカートが揺れた。
「よし!15歳は若返る事は出来ないけど…3歳ぐらいは若返っているハズ(笑)!」
満面の笑顔。
これが会社では眼鏡とマスクで仕事をしている上杉京子とは誰も思わない。
本人ですら少しそう思った。
午前八時。
部屋を出る。
まだライブ開始まではかなり時間がある。
だが京子には予定があった。
物販。
展示。
ファンクラブ限定ブース。
聖地巡礼。
オタクは忙しいのである。
エレベーターを待ちながら自然と笑みがこぼれる。
すると。
一階からエレベーターが上がってきた。
チン。
扉が開く。
そこにいたのは。
牧田学。
林蘭。
徳永大地。
如月健斗。
そして青木駿。
全員揃っていた。
もちろん京子は気付かない。
相変わらず。
一ミリも。
「おはようございます!」
京子は元気いっぱいに頭を下げた。
すると五人は一斉に固まる。
半年経っても慣れない。
平日の京子と休日京子の落差に。
毎回脳がバグる。
「お、おはようございます」
青木が最初に立ち直った。
「今日はお出掛けですか?」
徳永が何気なく聞く。
その瞬間だった。
京子の顔が太陽みたいに輝いた。
「はい!!」
五人は嫌な予感しかしなかった。
「今日は推しの年末ライブなんです!」
知ってる。
五人の心の声が完全に揃った。
「私、この日のために生きてきましたので!」
知ってる。
壁越しに何回も聞いた。
「一昨日も午前三時まで障害対応だったんですけど頑張れました!」
知ってる。
電気ついてた。
「もし今日世界が終わっても悔いありません!」
やめてほしい。
青木は本気で思った。
「最前列じゃないんですけど近い席なんです!」
牧田は思わず視線を逸らした。
実際はかなり良席である。
本人たちは座席表を知っている。
「本当にラッキーです!」
京子は満面の笑みだった。
まるで少女のような顔だった。
「推し達に会えるので!」
沈黙。
エレベーターの中だけ時間が止まる。
目の前にいる。
数時間後には会場でも会う。
なのに全く気付いていない。
その事実が毎回面白かった。
「では行ってきます!」
京子は深々と頭を下げた。
そして笑顔で続ける。
「帰ったら感想聞いてくださいね!」
降りる彼らと入れ違いにエレベーターに乗る。
ふわふわ揺れる巻き髪。
まるで遠足へ向かう子供のような笑顔。
自動ドアが閉まる。
静寂。
数秒間。
誰も喋らなかった。
牧田がぽつりと呟く。
「感想聞いてくださいね、だって」
林が吹き出した。
「本人に言うつもりないのが面白い」
徳永が笑う。
「俺たちただの隣人だもんな」
如月も肩を震わせた。
「もし正体知ったらどうなるんだろうな」
「失神するんじゃないか?」
全員が妙に納得した。
青木は盛大なため息を吐いた。
「……ライブ開演十八時だぞ」
全員が振り返る。
「まだ朝八時だぞ」
さらに沈黙。
「十時間前から出発するファン初めて見たわ」
「ガチ勢だからな」
牧田が苦笑する。
「物販あるんじゃない?」
林が言う。
「展示も見たいんだろ」
徳永が続ける。
「絶対全部回るタイプだな(笑)」
如月が頷いた。
青木は再びため息を吐く。
しかし口元は少し笑っていた。
「……まあいい」
そして四人を見回した。
「とにかく今日もボロ出すなよ」
「了解」
「了解」
「了解」
「了解」
こうして五人は一先ず駿の部屋へ向かった。
同じアパートに住む熱狂的ファンに正体を隠しながら。。。
★
年末ライブは大成功だった。
会場を埋め尽くした数万人の歓声。
色とりどりのペンライト。
天井から降り注ぐ光。
響き渡る歌声。
京子は何度も泣いた。
何度も笑った。
何度も叫んだ。
気付けばアンコールまで全力だった。
終演後。
会場から出ても足がふわふわしていた。
夢の中を歩いているみたいだった。
「最高だった……」
京子は呟く。
吐く息は白い。
年末の夜風は冷たい。
それなのに心はぽかぽかだった。
バッグの中ではライブグッズが揺れている。
さっき買った限定グッズ。
新しいアクリルスタンド。
パンフレット。
記念タオル。
どれも宝物だった。
スマートフォンを取り出す。
ロック画面にはミックス。
そして今日撮った会場前の写真。
思わず笑顔になる。
「また一年頑張れる……」
本気だった。
本当にそう思った。
午前0時過ぎ。
美都乃荘へ到着。
エントランスホールにはまだ照明がついていた。
管理人室も明るい。
そして共用ソファにはいつもの面々。
牧田。
林。
徳永。
如月。
青木。
全員揃っていた。
ライブを終え、変装と着替えを済ませて帰宅したばかりだった。
京子はそんなことを知るはずもない。
「え!!起きていたんですか???ただいまですーーーっ!!」
美都乃荘中に響きそうな勢いだった。
五人が振り返る。
全員嫌な予感がした。
とても嫌な予感だった。
「お帰りなさい」
青木が言う。
すると京子が目を輝かせた。
ものすごく輝かせた。
五人は察した。
始まる。
「時間ありますか??ヘヘヘ(≧▽≦)/”聞いてください!!」
始まった。
「今日のライブ最高だったんです!!」
京子はソファに座る。
座った瞬間スイッチが入った。
「あのですね!まずオープニングですよ!」
青木が時計を見る。
午前0時三十分。
「照明が落ちた瞬間もう泣いちゃって!」
「うん」
林が頷く。
「最初の曲が反則なんです!」
「そうなんですね」
徳永が笑う。
「学くんがですね!」
牧田が咳き込む。
「どうしました!?」
「いや、大丈夫」
「学くんがですね!」
再開した。
「最初の登場シーンでもう神なんです!!」
牧田は視線を逸らした。
「しかも蘭様が!」
林も目を逸らした。
「大ちゃんが!」
徳永が飲み物を飲んだ。
「健斗が!」
如月が天井を見た。
「そして最後の駿さん!」
青木が固まった。
「え?」
「マネージャーなのにオープニング最後端っこに映ったんですよ!」
「えぇ……え?!!」
「尊かったです!!」
青木は初めてファンの感想を直接聞いた。
なんだか妙な気分だった。
一時間後。
「それでアンコールなんですけど!」
まだ続いていた。
牧田がそっと時計を見る。
午前一時十五分。
まだ続いていた。
さらに三十分後。
「最後の挨拶で学くんがですね!」
牧田は小さくなる。
「『みんなのおかげでここまで来られた』って!」
京子の目が潤む。
「絶対私じゃないってわかってるんですけど!」
「うん」
「でも頑張ってよかったって思えたんです!」
五人は少し黙った。
その言葉は。
冗談ではなかった。
仕事で疲れていても。
夜遅く帰ってきても。
ライブの話をするときの京子はいつも笑顔だった。
本当に自分たちに支えられていたのだろう。
牧田はふと窓の外を見る。
林も。
徳永も。
如月も。
青木も。
何となく照れ臭かった。
京子は気付かない。
「だから来年も頑張ります!」
拳を握る。
「推し達がいる限り働けます!!」
「それは無理しないでください」
青木が思わず本音を漏らした。
「え?」
「いや、その……」
一瞬焦る。
「身体大事にしてください」
「ありがとうございます!」
京子は嬉しそうに笑った。
そして。
ようやく。
「……あれ?」
時計を見る。
午前二時十三分。
全員が黙った。
京子も固まる。
「私……どのくらい喋りました?」
誰も答えなかった。
答えたくなかった。
代わりに牧田が呟く。
「たぶん二時間くらい」
「えええええええっ!?」
美都乃荘に京子の悲鳴が響いた。
「すみません!!」
慌てて立ち上がる。
「本当にすみません!!」
深々と頭を下げる。
しかし。
「いや」
牧田が笑った。
「面白かったですよ」
「うん」
林も頷く。
「ライブ行った気分になれた」
徳永が言う。
「楽しそうだったし」
如月も笑う。
青木は肩をすくめた。
「また感想聞かせてください」
京子は感動した。
なんて優しい人たちなんだろう。
会社ではもう「アラフィフは話が長い」と言われることもある。
推し達の話になると止まらないのは自覚している。
それなのに。
この人たちは。
眠いはずなのに。
年末だし、明日も予定があるだろうに。
途中で嫌な顔ひとつしなかった。
二時間以上。
ずっと話を聞いてくれた。
京子の胸がじんわり温かくなる。
「皆さん、本当に優しいですね……ありがとうございます」
ぽつりと呟く。
すると徳永が笑った。
「上杉さんが楽しそうだからですよ」
「そうそう」
林も頷く。
「聞いてるだけで面白かったし」
「ライブ行ってないのに行った気分になった」
如月まで笑っている。
京子はますます感動した。
なんて良い人たちなんだろう。
美都乃荘に引っ越してきて本当によかった。
管理人さんも優しい。
住人さんも優しい。
駅も近い。
防犯も良い。
推し活にも便利。
最高の物件である。
「ヘヘヘ(≧▽≦)/”来年も頑張れそうです!」
京子は満面の笑みを浮かべた。
「皆さんも良いお年を!」
深々と頭を下げる。
そしてようやくエレベーターへ向かった。
疲れているはずなのに足取りは軽かった。
ライブの余韻。
幸せな気持ち。
優しい隣人たち。
胸の中は温かなものでいっぱいだった。
チン。
エレベーターの扉が閉まる。
京子の姿が見えなくなる。
静寂が戻った。
数秒後。
誰より先に息を吐いたのは牧田だった。
「……すげぇな」
「何が?」
林が聞く。
「二時間ずっと俺たちの話してた」
全員が黙った。
確かにそうだった。
歌った曲。
MC。
衣装。
表情。
仕草。
失敗したところまで。
全部覚えていた。
誰よりも楽しそうに。
誰よりも幸せそうに。
青木が苦笑する。
「本物のガチファンですね」
「今さら?」
徳永が笑う。
「半年見てきただろ」
「いや、改めて思いました」
青木はソファにもたれた。
「私達が思ってる以上に応援してくれていますね」
その言葉に誰も否定しなかった。
牧田はふと先ほどの京子の言葉を思い出す。
『頑張ってよかったって思えたんです!』
その時の笑顔。
目に浮かんだ涙。
本当にそう思っていた顔。
あれは嘘ではなかった。
牧田は少しだけ視線を落とした。
そして小さく笑う。
「俺らも頑張らないとな」
「珍しく真面目だな」
如月がからかう。
「うるさい」
牧田は照れ隠しに笑った。
その様子を見ていた青木だけは何となく気付く。。
四〇二号室では。
帰宅した京子が戦利品を並べながら幸せそうに笑っていた。
「最高だったなぁ……」
アクリルスタンドを見つめる。
パンフレットを撫でる。
そしてベッドへ倒れ込んだ。
瞼を閉じる直前。
自然と笑みがこぼれる。
「来年も会いに行くからね」
その言葉を最後に眠りへ落ちていった。
壁一枚向こう側に。
その「推し」本人たちが住んでいるとも知らずに。
そしてその夜。
美都乃荘の住人たちはそれぞれ思う。
少し騒がしくて。
少し変わっていて。
でも誰よりも一生懸命で。
誰よりも推しを愛している隣人のことを。
まだ誰も知らない。
この年末ライブの夜が。
上杉京子とミックスの距離を大きく縮める第一歩だったことを。
それを知るのは、もう少し先の話である。




