第1話(中編)「ヴォクスホールの夜」 1780年8月1日~8月31日
8月上旬。
ウェッブの調査によって、東インド会社の大株主たちが少しずつ見えてきた。貴族もいるが、商人、銀行家、船主、インド勤務から帰国した元会社員も多い。同じ会社の株を持っていても、安定した配当を求める者、船の契約を増やしたい者、会社内部の人事に関心を持つ者など、それぞれ事情が違っていた。
その中でエドワードが特に興味を持ったのが、ジョサイア・ベルとヘンリー・アシュコームだった。
ベルは55歳の商人で、複数の銀行家と長く取引し、東インド会社株では4票を使える。派手な投機を好む男ではなく、会社にも安定した配当と堅実な経営を求めていた。
一方、43歳のアシュコームは若いころから東インド会社に入り、長年ベンガルで働いた後、十分な財産を築いて帰国している。会社株は6,000ポンド余りで、3票を持っていた。
エドワードは2人をモーダント夫妻とともにロンドン邸の夕食へ招いた。
最初から取締役選挙の話を持ち出すつもりはなかった。アメリアが夫人たちを相手にし、男性側でも船や戦争、競馬などの話が続いた。やがてインドの気候が話題になり、アシュコームが帰国直後の失敗談を披露した。
「インドでは大病をせずに済んだのに、英国へ戻った最初の冬に風邪で寝込みましてな。家族からは、わざわざ英国へ帰って病気になることはなかったと言われました」
「それではインドより英国の冬の方が危険ではありませんか」
モーダントが面白がると、アシュコームは酒杯を持ち上げた。
「少なくとも、あの年の私にはそうでした」
エドワードは、そこから少し話を進めた。
「もう一度インドへ行けと言われたら、どうします?」
「仕事なら考えますが、若いころのように何年帰れるか分からない暮らしは御免です。今ならロンドンにいたいですな」
「それなら今度は、現地で働く側よりロンドンから会社を動かす側の方が向いていそうですね」
アシュコームはエドワードを見た。
「伯爵、その話には何か続きがありそうですな」
「まだ僕の中でもまとまっていません。決まったら話しますよ」
それ以上は踏み込まず、話題はまた食卓へ戻った。
食事の終わりには、アメリアが数日後に皆でヴォクスホールへ出かけようと提案した。ベル夫人とモーダント夫人がすぐに賛成し、男性たちも付き合うことになった。
◇ ◇ ◇
8月の夕方、一行は馬車を連ねてヴォクスホール・ガーデンズへ向かった。
夏の日が傾き始めるころには、同じ方向へ進む馬車が増えていた。庭園へ入ると、着飾った男女が並木の間を行き交い、その先では楽団が演奏している。食事を取るためのボックスには家族や友人同士の客が入り、日が落ちるにつれて灯りが増え、昼とは違う華やかさが庭園に広がっていった。
エドワードはアメリアと腕を組み、モーダント夫妻、ベル夫妻、アシュコームらと歩いた。
「伯爵は、こういう場所へあまり来られないのですか?」
ベルに聞かれ、エドワードは周囲を見回した。
「若いころは姉に連れてこられましたが、最近は海かハロウデンばかりです」
「それではいけませんな」
モーダントが真顔で言った。
「せっかく稼いだ金を少しくらい使っていただかないと、私の船が運んだワインまで売れなくなります」
「そういう理由なら飲みますよ」
「それなら立派な取引です」
アメリアがすぐに口を挟んだ。
「この人に遊ばせるには、商売の理由を付ければよいのですね」
「僕にも理解しやすい」
エドワードが認めると、夫人たちまで楽しそうに話へ加わった。
演奏を聞きながら庭園を歩いた後、一行は用意していたボックスへ入った。冷たい肉料理、パン、果物が並び、ワインも運ばれてくる。
モーダントは若いころの航海で嵐に遭った話をし、アシュコームはカルカッタで英国人同士が些細なことで喧嘩をした話を披露した。普段は堅実そのものに見えるベルが、実はかなりの競馬好きだと分かったのも、この席だった。
「この人に馬の話をさせると、夜が明けても終わりませんよ」
ベル夫人が告げると、夫は迷惑そうな顔をした。
「妻の前で競馬の話をするものではありませんな」
「それほど負けているのですか?」
モーダントに突かれ、ベルはすぐに否定した。
「今年はまだ大した額ではありません」
「今年は、という言い方がすでに危ないでしょう」
エドワードは自分の父を思い出した。
「うちの父上と競わせてみたいですね。昔は随分やっていましたから」
「お義父様も競馬がお好きだったのですか?」
アメリアが聞くと、エドワードは肩をすくめた。
「好きという程度じゃない。借金を作った理由の1つだよ」
ベルもさすがに表情を改めた。
「それは洒落になりませんな」
「今なら笑えます。借金は全部返しましたから」
料理が減り、次の演奏が始まるころには、会社の株主として集まったという堅さはほとんどなくなっていた。
アメリアたちが庭園を見て回るため席を立った後も、エドワードは取締役の話を持ち出さなかった。
ベルが次の予定を尋ねると、モーダントがセント・ジェームズのクラブを提案した。
「カードでもやりましょう。伯爵も賭けるのでしょう?」
「付き合いますよ。ただし家まで賭けるほど熱くなるつもりはありません」
「そんな賭け方では面白くありませんな」
「モーダントさんは家まで賭けるのですか?」
「そんなことをしたら、勝負の前に妻に止められます」
夫人たちが戻ってくる前に話がまとまり、この夜は女性たちを先に屋敷へ帰し、男性だけでクラブへ向かうことになった。
馬車へ乗る前、アメリアは夫へ念を押した。
「遅くなりすぎないでください。それから、負けたからといって取り返そうとしないこと」
「どのくらいまでなら負けていいんだ?」
「その基準を私に聞かないでください。あなたは普通の人より金額の桁が大きいのですから、自分で考えることです」
「分かった。少なくとも父上の真似はしない」
「それなら安心できます」
◇ ◇ ◇
クラブでは酒が入り、カードや骰子を囲む男たちの声が夜遅くまで続いていた。
エドワードたちは、まずホイストを始めた。
ベルは見かけどおり慎重で、悪い手札なら傷が広がる前に諦める。モーダントは逆に、良い札が来ると口数が増えるので、何度か勝負するうちに手の良し悪しまで読めるようになった。アシュコームだけは自分の札より相手の癖を見ており、表情にもほとんど出さない。
「モーダントさん、良い札が来ると急に喋りますね」
エドワードが指摘すると、アシュコームが苦い顔をした。
「それを本人に教えてはいけません。こちらも利用していたのですから」
「では今後は黙っていますぞ」
「急に黙れば、良い札だと知らせるようなものですよ」
今度はベルが横から刺した。
エドワードはアシュコームへ目を向けた。
「この中で一番何を考えているか分からないのはアシュコームさんだな。取締役には向いているかもしれない」
アシュコームの手が止まった。
「今の話は、どこまで冗談です?」
「半分くらいです。残りは、そのうち話します」
「でしたら覚えておきましょう」
カードが一段落すると、一行は骰子の卓へ移った。金貨が行き交い、勝った者が次へ張り、負けた者が賭け金を増やして取り返そうとする。
エドワードも何度か参加したが、40ギニーほど負けたところで席を離れた。
「伯爵、もうおやめになるのですか。40ギニーなら十分取り返せますぞ」
モーダントが声をかけてきた。
「だから今やめるんです。400ギニーになってから取り返そうとすれば、父上と同じことになる」
ベルは酒杯を持ったまま頷いた。
「その考え方では、大博打には向きませんな」
「勝つことだけが目的なら、敵船を捕まえた方が早いですよ。今夜は40ギニーで十分遊びました」
席を離れた後は酒を飲みながら他の男たちの勝負を眺めた。負けたことが愉快なわけではないが、腹を立てるほどでもなかった。40ギニーを失っても翌日の生活には何の影響もない。そこで終われるなら、父がのめり込んだ賭博とは違う。
帰り際、アシュコームがエドワードを呼び止めた。
「伯爵。先ほどの取締役の話ですが、残り半分を本当に聞かせてください」
「もちろん。ただ、今夜はもう遅い。また日を改めましょう」
「できれば事務所ではなく、酒のあるところでお願いします」
「その方が僕も話しやすくなってきました」
次に会う約束だけ決めて、その夜は別れた。
◇ ◇ ◇
8月中旬には、別の遊びも加わった。
モーダントが馬上芸を見たいと言い出し、一行はアストリーの興行へ出かけた。円形の馬場では、走る馬の背に立つ乗り手や曲芸師、綱を使った芸人たちが次々に現れた。
高速で走る馬の上へ立った男を見ると、海戦に慣れているエドワードまで身を乗り出した。
「これは相当危ないな」
「敵船へ自分で乗り込む人が言うことですか?」
隣のアメリアに返され、エドワードは馬場から目を離さないまま答えた。
「僕は船の甲板で馬には乗らない」
「そういう問題ではありません」
演技が決まると客席から大きな拍手が起こり、エドワードも手を叩いた。
帰りの馬車では、アメリアが夫の様子を確かめた。
「今日は仕事を忘れて楽しめましたか?」
「かなり面白かった。また来てもいいな」
「次も株主の方々と一緒に?」
「いや、今度は家族だけでもいい」
「それなら連れてきたかいがありました」
「最初から僕を遊ばせるのが目的だったのか」
「半分くらいは」
「残り半分は?」
「あなたと違って、私は最初から遊びに来ています」
エドワードには返す言葉がなかった。
◇ ◇ ◇
8月後半になると、遊びの席で知り合った株主たちとの付き合いが、会社の話にもつながり始めた。
以前のように事務所へ呼んで最初から会社の話をすることは減り、夕食を共にし、競馬や航海の話をし、カードを遊ぶ。その中で必要があれば会社について話した。夫人同士が親しくなれば、自然に家族ぐるみの付き合いへ変わった。
そうした席では、事務所では出てこない話も聞けた。決断の遅い取締役への不満もあれば、親戚ばかり会社へ入れようとする者への反発もある。船を知らない人間が船舶契約へ口を出すことに腹を立てる船主がいる一方、インド勤務から帰った社員をすべて腐敗した成金のように見る取締役を嫌う者もいた。
8月31日、ウェッブはそうした付き合いを名簿と照らし合わせた。
「今後もあなたと会社のことを相談すると明言している株主は11人です。現在使える票を合計すれば31票になります」
エドワードは名簿を受け取った。
「1か月でここまで増えたなら悪くないな」
「事務所にいる時間より、遊んでいる時間の方が長かったように見えましたが」
「たぶん、それがよかったんだろう。僕だって初対面の男からいきなり自分の候補へ投票しろと言われれば警戒する。何度か酒を飲み、家族まで知っている相手なら、少なくとも話くらいは聞く」
「伯爵夫人に教えられましたな」
「そこは認めるよ。金の話をしない付き合いというのは、あまり得意じゃなかった」
エドワードは11人の名を順に見た。
モーダントとは船の話なら何時間でも続く。ベルは競馬になると普段とは別人のように熱が入り、アシュコームはインドの話へ入ると冗談が減る。持株数と票だけしか書かれていなかった名簿から、少しずつ本人の顔や声が浮かぶようになっていた。
「来月は誰を呼びます?」
ウェッブが尋ねた。
エドワードは名簿の次の名前へ指を移した。
「まず、この銀行家に会ってみよう。ただし事務所へ呼ぶのはやめておく」
「ようやく私の茶代が減りそうですな」
「その代わり、僕の酒代が増えるよ」
ウェッブはそれなら仕方がないという顔で、新しい名前を書き加えた。




