第1話(前編)「会社を買えるか」 1780年7月1日~7月31日
1780年7月1日。
ロンドンには、前月の騒乱が残した傷がまだあった。焼けた建物では瓦礫の片付けが続き、通りによっては兵士の姿も見える。それでも商人は店を開き、テムズでは荷役人夫が働き、馬車はいつもと変わらない勢いで石畳を走っていた。町の一部が燃えたからといって、ロンドン全体の商売が止まることはない。
エドワード・ヘイルは朝食を終えた後も、すぐにはロンドン邸を出なかった。生後4か月になる息子が、乳母に抱かれて食堂の隣の居間へ連れてこられていたからだ。
差し出した指を赤ん坊がつかみ、そのまま口へ運ぼうとする。
「僕の指は食べ物じゃないぞ」
エドワードが手を引くと、息子は不満そうに腕を伸ばした。
「今は何でも口へ持っていくのです。あなたの指だけが特別なわけではありませんよ」
アメリアは乳母の腕の中にいる息子を見ながら言った。
「父親としては少し残念だな。せめて僕の顔くらい覚えてほしい」
「もう少し大きくなれば分かるようになります。今は食べられるものの方が大事なのでしょう」
「それでは、しばらくパンに勝てそうもないな」
乳母が息子を抱いて部屋を出ると、エドワードは残っていた紅茶へ手を伸ばした。椅子の横には革鞄が置かれ、閉じ切らない蓋の間から何冊もの帳面と書類が見えている。
アメリアはそちらへ目をやった。
「今日も東インド会社ですか?」
「ウェッブがかなり資料を集めたらしい。朝から見せたいと言ってきた」
「朝食の間くらい忘れてもよいでしょう」
「忘れていたよ。息子に指を食われそうになるまでは」
「それなら結構です」
17歳のころなら、大きな利益の種を見つけた途端、朝から夜までそれだけを考えていただろう。しかし今は妻がおり、息子もいる。ハロウデンには5万2,000エーカーの土地があり、前年夏から建設を続けていたハロウデン・ハウスも6月には主要部分が完成した。庭園や外構にはまだ手を入れる場所が残っているが、家族の居室、客室、大食堂、舞踏室、書斎などはすでに使えるようになり、伯爵家の本邸として暮らし始めている。
ロンドンに用事がある時は従来のロンドン邸を使い、まとまった時間が取れればハロウデンへ戻る。港と事務所を往復するだけだったころとは、生活そのものが変わっていた。
出かける支度を始めたエドワードに、アメリアが声をかけた。
「今夜は夕食までに戻れますか?」
「できるだけ早く戻るよ」
「それでは戻らない時の答えと同じです。仕事を始めると時間を忘れるでしょう」
「分かった。夕食までには帰る」
「では待っています」
エドワードは今度こそ約束して屋敷を出た。
◇ ◇ ◇
ウェッブの事務所では、東インド会社について集めた資料が机の半分を占領していた。株式と配当、取締役の選出方法、インドとの往復に使われる船舶、現地から届く報告、会社の債務、政府との関係、軍事費、ベンガルの税収まで、調べる範囲を広げるほど書類も増えている。
エドワードは椅子へ腰を下ろし、最初の帳面を開いた。
「まず一番分かりやすいところから教えてくれ。東インド会社を丸ごと買うとしたら、いくら必要なんだ?」
「随分簡単におっしゃいますな。土地や船のように、持ち主1人と話をつければ買える会社ではありません。株主が大勢おります」
「それなら株を買えばいい。全部買えれば僕の会社になるだろう」
「全員が売ってくれるなら理屈の上ではそうなります。ただし、東インド会社は株を大量に持てば、そのまま好きに動かせる仕組みではありません」
ウェッブが差し出したのは、株主の投票資格をまとめた紙だった。
東インド会社では、1,000ポンド以上の株を持つ者に1票が認められ、3,000ポンドなら2票、6,000ポンドなら3票、10,000ポンド以上なら4票を使える。それ以上に株を増やしても、1人の株主が持てる票は4票までである。
エドワードは数字を見比べた。
「つまり10万ポンド分持とうが100万ポンド分持とうが、僕自身が使えるのは4票だけなのか」
「そういうことです。大金持ち1人が資金力だけで会社を支配しにくくする制度ですから、今のあなたには随分都合が悪いでしょうな」
「確かに気に入らない」
さらに、新たに取得した株で投票するには一定期間保有する必要があり、今日10,000ポンド分を買ったからといって、明日の株主会議で4票を使えるわけではない。取締役は24人で任期は4年、毎年6人ずつが交代する仕組みだった。
取締役の名簿へ目を通していたエドワードの手が止まった。
「毎年6人なら4分の1ずつ入れ替わる。その6人を選ぶのは株主なんだな」
「そのとおりです」
「それなら話が変わる。僕が100万ポンド分の株を抱えるより、票を持つ株主を集めた方が早いかもしれない」
ウェッブは椅子の背にもたれた。
「今度は何を始めるおつもりです?」
「僕が10,000ポンド持っても4票にしかならない。しかし4票持つ株主が50人、同じ候補へ入れれば200票になる。50人全員を僕の家来にする必要もない。同じ候補を選んだ方が自分にも得だと思ってもらえばいい」
「まだ会社の仕組みを半分も調べていないのに、もう票を集める話になりましたか」
「仕組みを知ったからだろう」
ウェッブは別の帳簿を開いた。
「でしたら、今度はこちらを読んでください。東インド会社は、ヘイル商会を何十倍か大きくしただけの商会ではありません」
会社はインドで徴税し、要塞を持ち、軍隊まで動かしている。一方、英国とインドを往復する大型船のすべてを直接所有しているわけではなく、民間の船主と契約して航海させる船も多かった。兵士もすべて英国から送るわけではなく、現地で雇われる者が大勢いる。
説明を聞きながら、エドワードは船舶関係の資料を引き寄せた。
「役人も商人も倉庫もあり、徴税までしているのに、船や兵士まで全部自前ではない。それでこれだけの規模を動かしているのか」
「各種の委員会がありますし、現地にも統治の仕組みがあります。ロンドンの24人だけで何もかも決めているわけではありませんが、大きく見ればそういう会社です」
エドワード自身も商会を持ち、艦隊を動かし、広大な土地を所有するまでになった。それでも東インド会社とは規模が違う。しかも会社の強さは、所有している財産の量だけではなかった。
「何もかも自分で持たなくても、他人の船や金や人間を自分の仕事へ組み込めるわけか。そこは僕の商会より、はるかに上手くやっているな」
「比較する相手が大きすぎます」
「だから面白いんだ。買うにしても動かすにしても、まず中身を知らないとな」
午後になると、2人はテムズ沿いへ出た。
長い航海を終えた大型船が係留され、船倉から茶や織物を詰めた荷が次々に運び出されている。滑車が軋み、人夫の掛け声が飛び交う中、船腹から吊り上げられた木箱が岸の荷車へ降ろされ、その周囲を帳面を持った監督役や商人が行き来していた。
エドワードは、その中でもひときわ大きな船へ目を向けた。
「あれも東インド会社の持ち船ではないのか?」
「船主は別です。会社と契約して東インド航路へ出しています」
「これほど大きな船を自分で造り、会社へ貸す。船主にも相当な金が入るわけだな」
「航海は長く、危険も大きいですが、その分だけ利益も見込めます」
エドワードは荷役の様子まで眺めてから言った。
「こういう船を何隻も持っている船主に会いたい。紹介できるか?」
「船の話を聞くだけ、という顔には見えませんな」
「まずは船の話からだよ。その先は、会ってみなければ分からない」
「でしたら、心当たりはあります」
◇ ◇ ◇
最初に会った大株主は、エドマンド・モーダントという49歳の船主だった。
東インド航路へ複数の船を出し、会社株も10,000ポンド以上持っているため4票を使える。体格のよい男で、仕立てのよい服を着ていても、手には若いころ海へ出ていた時の古い傷が残っていた。
エドワードが武装船を所有していると知ると、モーダントは株より先に船の話を始めた。
「グレイミア号は9ポンド砲を28門積み、650トンほどだと聞いております。相当速いそうですな」
「速さには金を使いました。追うにも逃げるにも、遅い船では困りますから」
「そこは私も同じ考えです。船は海へ出てから安物だったと気付いても遅い」
そこから話は弾んだ。船体を安く造ったため航海中の修理費が膨らんだ船、索具の交換を惜しんで帆柱を傷めた船、給金を下げすぎて熟練水夫が集まらなかった船など、2人には共通して知っている失敗例がいくつもあった。
東インド会社の話へ入るころには、初対面の堅さはかなり薄れていた。
「会社と長く付き合っていれば、不満もあるでしょう」
エドワードが水を向けると、モーダントは酒杯を置いた。
「値段だけを見て船を選ぶ人間がいることです。安く借りれば得をしたと思っている。しかし安値を押しつけられれば、船主もどこかで費用を削らざるを得ない。途中で故障すれば、高価な積荷まで何か月も遅れる。それでも次の契約では、また一番安い船を探すのです」
「僕なら値段を決める前に船を見る。長い航海へ出すなら、安いことより無事に着く方が大事でしょう」
「だから伯爵とは話が合うのでしょうな」
「それほど現場と取締役の考えが違うなら、船を分かっている人間を取締役へ入れた方が早そうですね」
モーダントは酒杯を持ったまま、エドワードの顔を見た。
「もう次の選挙まで考えておられるのですか?」
「今は会社を調べているところですよ。ただ、10,000ポンド分くらいは株を買うつもりです」
「勉強代にしては高いですな」
「無駄にはしません」
モーダントは、その答えで十分だったらしい。
帰り際、エドワードは彼をロンドン邸の夕食へ誘った。
「妻も一緒に伺ってよろしいですかな?」
「もちろんです。モーダントさんだけを連れて帰ったら、うちの妻に僕が叱られます」
「伯爵も奥方には勝てませんか」
「勝つ必要がありませんから」
船の話をしていた時より、モーダントにはその返事の方が気に入ったようだった。
エドワードも、この男との付き合いなら長く続きそうだと思った。4票を持つ株主だからというだけではなく、船の話をしている時間そのものが面白かった。
◇ ◇ ◇
7月中旬には、エドワード名義で東インド会社株10,000ポンド分の取得が進められた。同時にウェッブへ、投票資格を持つ株主の中でも2票以上を使える者、東インド航路に関わる船主、銀行家、商人、インド勤務から帰国した元会社員、さらに取締役と血縁や商売上の関係を持つ者まで調べさせた。
ただし、持株数だけを並べた名簿では役に立たない。
「それぞれが会社に何を求めているのかも知りたい。配当を重く見る者もいれば、船の契約が欲しい者もいる。息子を会社へ入れたい者や、今の取締役に不満を持っている者だっているはずだ」
「そこまでとなると、株主名簿を調べるだけでは済みませんぞ」
「だから頼んでいるんだ。全員を味方にする必要はない。こちらと利害の合う人間を見つければいい」
ウェッブは調査項目を紙へ書き足した。
「票の目標は、まだ決めないのですな」
「顔も事情も分からない株主を数えても仕方がない。まず会える人間を探してくれ」
「承知しました。しばらく私の仕事が減ることはなさそうです」
「給金は払っているだろう」
「そうおっしゃると思いました」
その夜、エドワードは約束どおり夕食までにロンドン邸へ戻った。
食後、息子を抱いたアメリアにモーダントの話をすると、彼女は船や票ではなく、最初に相手の妻について尋ねた。
「モーダント夫人も夕食へお招きするのでしょう?」
「もちろん。その方が本人も来やすいらしい」
「でしたら、これから会う株主の方々も事務所へ呼ぶばかりにしない方がよいと思います。大株主が何人もウェッブさんの事務所へ出入りすれば、何を始めたのかすぐ噂になりますもの」
「夕食へ呼ぶのは分かるが、それだけで何十人とも付き合えるかな」
「食事だけでなく、一緒に出かければよいでしょう。商売の話をする相手だからといって、会うたびに帳簿を開く必要はありません」
エドワードは腕を組んだ。
「それが一番難しいな。海へ出れば仕事になるし、馬に乗れば移動になる。拳銃を撃つのも、僕の場合は遊びというより練習だ」
「つまり、まともに遊んでいないのですね」
「父上を見て育ったからかな。遊びに金を使うと、損をしたような気分になる」
「お義父様ほど使えとは言いません。借金をせず、家族まで巻き込まなければよいのです」
息子が母の腕の中で声を上げた。アメリアはその背を軽く支えながら続けた。
「8月になったら、皆でヴォクスホールへ行きましょう。奥様方も一緒なら、男性だけで会社の話をするより自然でしょうし、私も楽しめます」
「それなら任せるよ」
「私は楽しみますが、あなたも楽しんでくださいね。誰が何票持っているかを考え続けていては意味がありません」
「分かった。そこは努力してみる」
「遊ぶのに努力が必要なのですから、重症ですね」
エドワードは返す言葉がなく、息子へ助けを求めるように顔を向けたが、赤ん坊は父親より母親の服の飾りに夢中だった。
7月31日には、エドワードの手元に10,000ポンド分の東インド会社株があった。投票権を使えるようになるのはまだ先で、自分1人が使える票も最大4票にすぎない。
翌週には、モーダント夫妻が夕食へ来る。その次にはヴォクスホールの予定まで入っていた。
東インド会社を調べ始めた時には、こんな予定まで増えるとは考えていなかった。




