第10話(後編)「海の向こうへ」 1780年4月21日~6月30日
5月上旬。
アン・マーサーとダニエル・カーターは、ロンドンの教会で結婚した。
父親を亡くして間もないため、式は小さなものになった。親しい者だけが参列し、派手な祝宴も開かなかった。
レベッカは娘の支度を手伝いながら、何度か涙を拭った。
「お父さんがいたら、何と言ったでしょうね」
アンが尋ねた。
「朝からダニエルに余計な質問をしていたでしょうね」
「結婚式の日までですか?」
「当然でしょう」
アンは笑った。
「でも、反対はしていませんでした」
「分かっているわ。それで十分よ」
教会へ向かう前、アンは母の手を握った。
「一緒にニューヨークへ来てくれて嬉しい」
「サミュエルもいるし、向こうへ着いたばかりのあなたたちにも手が必要でしょう」
「お母さんまで、お父さんみたいなことを言うのね」
「長く夫婦をしていましたから」
レベッカは娘の衣装を最後に整えた。
自分の妊娠については、まだ家族にも話していなかった。やがて腹部が目立てば、周囲はトーマスが最後の航海へ出る前にできた子供だと思うだろうが、レベッカは父親について自分から説明するつもりはなかった。
◇ ◇ ◇
5月から6月にかけて、レベッカは作業場の仕事を少しずつ後任へ渡していった。
30人から始めた仕事場では、今では70人近くが働いている。船員のシャツや寝具だけでなく、商船向けの袋や布製品、洗濯、木箱の修繕まで仕事が広がり、ハロウデンや外部の船主からも注文が入っていた。
6月10日。
レベッカは最後の帳簿をウェッブへ渡した。
「これで引き継ぎは終わりです」
ウェッブは帳簿を開き、数ページ確かめた。
「随分きれいに残しましたな。材料の仕入れ先も、注文先もすべて書いてあります」
「後の人が困らないようにしただけです。私しか分からない仕事を残したら、ニューヨークへ行ってから手紙が来ますもの」
「それほど困るのですか?」
「海を越えて布の枚数を聞かれても答えられません」
ウェッブは笑った。
「この作業場は続けます」
「お願いします」
「あなたがいなくなっても、問題はなさそうですな」
「私がいなければ続かないのなら、商売になっていません」
ウェッブは帳簿を閉じた。
「それもそうですな」
◇ ◇ ◇
出航の3日前。
レベッカは作業場へ最後の私物を取りに来た。
人が帰った後、エドワードが訪れた。今回はレベッカから連絡し、2人で話す時間を決めていた。
「今日が最後ですね」
「分かっています」
「また家を買うと言わないでくださいね」
「言うつもりでした」
「伯爵様」
「冗談です」
「あなたの場合、本当にやりそうだから困ります」
エドワードは笑い、それから外套の内側から封書を取り出した。
「これだけは受け取ってください」
レベッカは封書を見た。
「お金ではないのですね?」
「まだ生まれていない子供へ書いた手紙です」
「何が書いてあるのですか?」
「僕のことと、18歳になった時に本人へ決めてもらいたいことです」
「10万ポンドのことですか?」
「はい。子供が18歳になるまで誰にも使えないようにしました。18歳になれば、受け取るかどうかも本人が決められます」
レベッカの眉が寄った。
「やはり10万ポンドは多すぎます」
「その時には、もう僕の金ではありません」
「全部使ってしまったら、どうするのですか?」
「腹は立つでしょう」
レベッカは思わず笑った。
「やっぱり」
「でも、僕の子なら増やすかもしれない」
「随分勝手な期待ですね」
「父親なら、それくらい期待してもいいでしょう」
レベッカは封書へ目を落とした。
「父親なのですね」
「違いますか?」
「違いません。でも、この子はトーマスの子として育てます。あなたが父親だと話さないかもしれません」
「それもあなたに任せます」
「この手紙も渡さないかもしれませんよ」
エドワードは少し考えた。
「その時も、あなたが決めてください」
「それでいいのですか?」
「大西洋の向こうまで追いかけて、あなたの鞄を開けるわけにはいかないでしょう」
「船を12隻持っている人の言葉とは思えませんね」
「船が12隻あっても、できないことはあります」
レベッカはしばらく封書を見ていたが、やがて手を伸ばした。
「18歳になったら渡します」
「ありがとう」
「私のためではありません。この子のためです」
「それで十分です」
エドワードは18歳になった時に必要となる書類を入れた小さな包みも渡した。
レベッカは両方を鞄へしまった。
「これ以上は受け取りません」
「分かっています」
「今度は信じます」
「ようやくですか」
「伯爵様は金を持ちすぎていますから」
「それは否定しません」
2人は笑った。
しばらくして、レベッカが鞄へ目をやった。
「手紙の中身は、本当に教えてくれないのですか?」
「子供宛てですから」
「気になります」
「18年待ってください。本人が見せてくれれば読めます」
「見せてくれなかったら、どうするのですか?」
「それも本人の自由です」
「随分自由にさせるのですね」
「僕が決められない人生まで、こちらから決めるつもりはありません」
レベッカはしばらく黙っていた。
やがて席を立った。
「もう行きます」
「はい」
「引き止めないのですか?」
「引き止めたら残りますか?」
「残りません」
「それなら言いません」
レベッカは扉へ向かったが、その途中で足を止めた。
「エドワード」
伯爵様とは呼ばなかった。
エドワードも立ち上がった。
「何ですか?」
「トーマスと結婚したことを、私は後悔していません。あの人とアンとサミュエルがいたから、今の私があります」
「分かっています」
「あなたに会ったことも後悔していません」
エドワードは少し間を置いた。
「僕もです」
「だから、これでよかったのだと思います」
「僕は、そこまできれいには考えられません」
「では、どう思っているのですか?」
「残ってほしいと思っています」
レベッカは目を伏せ、それから顔を上げた。
「そう言ってもらえる方が嬉しいです」
「それでも行くのですね?」
「行きます」
「分かりました」
レベッカは扉を開けた。
「さようなら、エドワード」
「さようなら、レベッカ」
◇ ◇ ◇
封書の中には、エドワードが自分の手で書いた手紙が入っていた。
「まだ見ぬ我が子へ。
お前がこの手紙を読んでいるなら、18歳まで無事に生きたのだろう。
私はエドワード・ヘイルという。そして、お前の父親だ。
お前の母が私について何を話したのか、私は知らない。何も話していないかもしれない。それでも構わない。
私は17歳の時、自由に使える25ポンドから自分の商売を始めた。その後、船や土地を買い、人を雇い、商会を作った。
お前には、18歳になった時に10万ポンドを受け取れるようにしてある。
これは母を買うための金でも、お前に私を父と呼ばせるための金でもない。私がそばにいなかった年月の代金でもない。お前が自分の人生を選ぶ時に使うための金だ。
受け取るかどうかも、受け取った後に何へ使うかも、お前が決めればよい。商売をしても、土地や船を買っても、何にも使わず持っていても構わない。失うことだけは勧めないが、その時にはもうお前の金である。
私は金で多くのものを手に入れたが、金があれば何でも自分の思いどおりになるわけではないことも知った。それを教えてくれた人の1人が、お前の母だ。
母の選んだ道を責める必要はない。私をどう思うかは、お前が決めればよい。
いつか私に会いたいと思ったなら、ロンドンのヘイル商会を訪ねればよい。私が英国にいなくても知らせは届く。会いたくないのなら、来なくても構わない。
私は私の場所から始めた。
お前は、お前の場所から始めればよい。
エドワード・ヘイル」
◇ ◇ ◇
6月18日。
マーサー一家が乗る商船が、テムズから大西洋へ向けて出航する日が来た。
アンは夫ダニエルと並び、船へ運ばれる荷物を確認していた。
サミュエルは初めて英国へ来た時より背が伸びている。久しぶりに大西洋を渡ることを楽しみにする一方、ロンドンでできた友人たちと離れる寂しさも隠せていなかった。
レベッカの腹部は、注意して見れば妊娠していると分かるようになっていた。周囲の者はトーマスが最後の航海へ出る前にできた子供だと思っていたが、レベッカは父親について何も説明しなかった。
一家が乗る船は通常の商船団へ加わり、ほかの船と同じ護衛を受けて大西洋を渡る。ヘイル艦隊から特別な船は付けていない。
エドワードはウェッブとともに、一家を見送りに来ていた。
ウェッブはアンとダニエルへ言った。
「ニューヨークでも帳簿だけは怠らないことです。商売が崩れる時は、たいてい帳簿より先に本人が気付いておりません」
ダニエルは笑った。
「覚えておきます」
ウェッブはサミュエルにも、商売を続けるつもりなら計算をもっと覚えるよう言い聞かせた。
最後にレベッカがウェッブへ頭を下げた。
「お世話になりました」
「こちらこそ。作業場は預かります」
「お願いします」
続いてレベッカはエドワードへ向き直った。
「伯爵様。家族全員、本当にお世話になりました」
「ニューヨークへ着いたら、無事だったと商会へ知らせてください」
「ええ」
エドワードはサミュエルを見た。
「母親を困らせるなよ」
「伯爵様も奥様を困らせないでください」
エドワードは一瞬言葉に詰まり、周囲から笑いが起きた。
「お前は父親に似てきたな」
「そうですか?」
「ああ」
サミュエルは少し嬉しそうな顔をした。
乗船を知らせる声が上がった。
アンとダニエルが先に船へ向かい、サミュエルも後に続いた。
レベッカは渡し板の前で一度だけ振り返った。
エドワードと目が合ったが、2人とも何も言わなかった。
レベッカは船へ乗った。
やがて係留索が外され、帆が風を受けると、商船はゆっくり岸壁から離れていった。
エドワードは、ほかの見送り客と同じように岸に立っていた。
船はテムズを下り、甲板に立つレベッカの姿も次第に小さくなっていく。
やがて顔までは見分けられなくなった。
エドワードがまだ見たことのない子供も、その船で海の向こうへ向かっていた。
◇ ◇ ◇
6月末。
エドワードはウェッブの事務所へ来ていた。
マーサー一家が去った後も、ヘイル商会の仕事は続いている。作業場では後任が仕事を引き継ぎ、艦隊の12隻もそれぞれの役目を果たしていた。ハロウデンでは新しい本邸の工事が進んでいる。
ウェッブは机の上へ厚い書類を置いた。
「以前おっしゃっていたものを集めました」
「何の書類なのか?」
「東インド会社です」
エドワードは書類を開いた。
東インド会社の株は、かつてエドワードが金を増やすために利用したことがある。当時、彼が見ていたのはロンドンで売買される株価だった。
「株の話だけではないのだな?」
「ええ。会社の船、インドでの商売、現地で持っている権利、軍隊、政府との関係まで集めています」
「僕が知りたいのも株価だけではない」
「では、何を知りたいのですか?」
「この会社が、なぜインドでこれほど大きな力を持てるのかだ」
ウェッブは別の書類を取り出した。
「それなら、かなり読むことになります」
「構わない」
机の上には、英国から喜望峰を回り、インド洋へ続く航路が描かれていた。
エドワードはその航路に目を落とし、次の書類を開いた。




