第10話(前編)「知らせが届く前に」 1780年2月11日~2月28日
1780年2月11日。
トーマス・マーサーは、ヘイル商会の事務所でウェッブから航海の仕事を頼まれた。
ロンドンから南へ向かう商船団に、ヘイル商会と取引のある船が3隻加わる。英国から毛織物、金属製品、工具などを運び、寄港地で商品を売った後、帰路に何を仕入れるか判断できる人間が必要だった。
トーマスは北アメリカと大西洋を行き来する商売を長く経験している。船を動かす役目ではないが、積荷の品質を見て値段を判断し、現地の商人と話をまとめる仕事なら適任だった。
「どのくらいの期間を見ているのか?」
「順調なら3週間ほどでしょう。長くても1か月を見ています」
「護衛は付くのか?」
「付きます。今の海で、商船だけをまとめて出すほど私も楽観しておりません」
「それなら行く」
「ご家族には、いつ話すのですか?」
「今夜だ」
ウェッブは書類をまとめた。
「出航は明後日です」
「急だな」
「船は人間の都合では待ちませんから」
トーマスは笑った。
「伯爵と長く仕事をすると、言うことまで似てくるのか」
「それは困りますな」
その日の夕方、トーマスは家へ戻り、妻と子供たちへ航海の話をした。
レベッカは驚かなかった。
「行くのでしょう?」
「まだ行くとは言っていない」
「顔を見れば分かります」
「3週間ほどだ」
「それなら、帰ってくるころには春が近いわね」
航海の話が一段落すると、アンが父へ声をかけた。
「お父さん。明日の夕方、会ってほしい人がいるの」
「相手は誰なのか?」
「ダニエル・カーター」
トーマスはその名前を知っていた。
24歳になる商人の息子で、ロンドンの商会に勤めている。ニューヨークの生まれで、家族の多くは今も向こうに住んでいた。
「ダニエルが何を話しに来るのか?」
アンは父を見た。
「分かっているでしょう」
「本人の口から聞くまでは分からん」
レベッカが夫を見て笑った。
「今さら怖い父親の真似をしても遅いわよ」
「真似じゃない。娘をもらいたいという男なら、自分で言いに来るのが普通だ」
「来ると言っているでしょう」
「なら聞いてやる」
翌日の夕方、ダニエルは約束どおりマーサー家を訪れた。
上等とは言えないが、きちんと手入れされた服を着ている。緊張していることは隠せていなかったものの、トーマスの前へ座ると、アンと結婚したいとはっきり告げた。
トーマスは仕事と給金、借金の有無、家族のことを順に尋ね、最後に結婚後の暮らしについて確かめた。
「いずれニューヨークへ戻るつもりです。父の兄が向こうで商売を続けています。戦争中なので時期は見ていますが、英国軍が町を押さえている間なら戻れると思っています」
「アンも連れて行くつもりなのか?」
「本人が望むなら」
トーマスは娘を見た。
「私も行きたいと思っているわ」
「母さんとサミュエルのことは、どう考えているのか?」
「それは、その時に相談するわ」
トーマスは改めてダニエルへ向き直った。
「娘を食わせていけるのか?」
「働きます」
「それは答えになっていない。今の給金で2人が暮らせるのかと聞いている」
ダニエルは現在の給金を答えた。
トーマスはさらに家賃や日々の生活費まで尋ねたうえで、ようやく納得した。
「分かった。反対はしない。ただし、俺は明後日から海へ出る。式の話は帰ってからだ」
「はい」
「3週間くらいだ。それまで勝手に話を進めるな」
「分かりました」
レベッカが呆れた顔をした。
「アンの結婚なのだから、あなたがいなくても話くらいはできますよ」
「帰ってから俺も聞く」
「結局、口を出したいだけでしょう」
家族の間に笑いが起きた。
翌朝、トーマスは航海用の荷物を整えた。
出発前、レベッカは夫の外套の襟を直した。
「無理をしないでくださいね」
「商売をしに行くだけだ」
「海へ行く人は、みんなそう言うのよ」
「伯爵とは違う。俺は敵船を探さない」
「敵船の方から来るかもしれないでしょう」
「縁起でもないことを言うな」
レベッカは笑った。
「では、ちゃんと帰ってきてください」
「ああ」
トーマスは妻の額へ口づけをした。
「帰ったら、アンの結婚を決めないとな」
「ええ」
「サミュエルにも、もう少し仕事を覚えさせる」
「あなたが帰るまでに私が覚えさせます」
「俺の仕事がなくなるな」
「大丈夫です。あなたには口を出す仕事が残っています」
トーマスは笑いながら家を出た。
◇ ◇ ◇
2月14日。
商船団はイギリス海峡を西へ進んでいた。
朝から風が強く、海面には白い波頭が立っている。午後になると、後方を進む船から信号が上がった。
南西から3隻の船が近づいている。
護衛船が進路を変えると、相手も帆を増やした。スペインの私掠船だった。
トーマスが乗る商船でも、船員たちが小型砲の準備を始めた。船長は商務を担当するトーマスに船室へ下がるよう命じ、自分たちは戦闘に備えた。
間もなく最初の砲声が海上へ響いた。
しばらくすると船体が強く震えた。敵の砲弾が舷側へ当たったらしく、船室の天井から細かな埃が落ち、甲板では船員たちの怒鳴り声が続いていた。
トーマスが積荷の書類を革鞄へまとめていると、階段の方から負傷した水夫を運ぶ声が聞こえた。
脚を傷つけた水夫が船室へ降ろされてきたが、運んできた男1人ではうまく支え切れない。トーマスは革鞄を床へ置き、すぐに手を貸した。
「そこへ寝かせろ。頭を打たせるな」
2人で負傷者を壁際へ移した直後、もう一発の砲弾が船腹を打った。
厚い船材が砕け、大小の木片が船内へ飛び込んだ。トーマスは胸から脇腹に深い傷を負い、その場へ倒れた。
出血は多かった。手当てをする水夫たちの声が次第に遠くなる中、トーマスはレベッカとアン、サミュエルの名を何度か呼んだ。
夕方になる前に、トーマス・マーサーは息を引き取った。
護衛船はスペインの私掠船を退けたものの、商船団にも損傷と死傷者が出たため、予定を変更して英国側の港へ戻ることになった。
◇ ◇ ◇
2月18日。
商船団が襲撃を受けたとの報告は、まだロンドンへ届いていなかった。
夕方、作業場の仕事が終わるころにエドワードが姿を見せた。
働く者は50人を超え、ヘイル商会以外からの注文も増えている。レベッカは最後まで残り、翌日に使う材料の数を帳簿と照らし合わせていた。
作業を終えた者たちが帰ると、広い室内から布を畳む音も、木箱を直す槌の音も消えた。
レベッカは帳簿を閉じた。
「今日は仕事の確認ですか?」
「そのつもりで来ました」
「今も、それだけですか?」
エドワードは彼女を見た。
「あなたが別の話をしたいのなら聞きます」
レベッカはしばらく黙っていた。
「私は夫と別れません。子供たちを捨てるつもりもありません」
「分かっています」
「あなたには奥様がいて、もうすぐお子様も生まれる。それも変わりませんね」
「変わりません」
「それでも、私に会いたいのですか?」
「会いたいです」
エドワードは迷わず答えた。
レベッカは困ったように笑った。
「本当に困った人ですね」
「それは前にも言われました」
「私も同じくらい困った人なのかもしれません」
その夜、2人は人目を避けて会った。
翌朝、窓から冬の薄い光が入り始めるころ、レベッカは身支度を整えた。
「帰ります」
「送ります」
「いいえ。1人で帰ります」
エドワードはそれ以上勧めなかった。
レベッカは扉へ向かい、途中で振り返った。
「後悔したかと聞かないのですか?」
「聞いてほしいのですか?」
「いいえ。今はまだ、後悔していません」
「それなら聞きません」
「次があるかどうかは、私に決めさせてください」
「分かりました」
レベッカは帰っていった。
◇ ◇ ◇
2月24日。
ウェッブの事務所へ、商船団が予定を変更して英国へ戻ったとの報告が届いた。船体に損傷があり、死傷者も出ているという。
エドワードが事務所へ来ると、ウェッブは死亡者の名簿を見せた。
「5人亡くなっています」
「商会の人間も含まれているのか?」
「1人です」
ウェッブは名簿を指した。
「トーマス・マーサーです」
エドワードは紙に書かれた名前を見た。
「亡くなったのはいつなのか?」
「14日です。砲撃を受けた際、負傷した水夫を運ぶのを手伝っていたそうです。その時に船材の破片を受けました」
「家族には、もう知らせが届いているのか?」
「船長側から使いが出ています」
「僕も行く」
エドワードは名簿を置いた。
「商会から遺族へ支払う分は、どうなっているのか?」
「未払いの給金と航海手当、それに仕事中の死亡に対する支払いを計算しています」
「不足のないようにしてくれ」
「もちろんです」
マーサー家へ着いた時には、すでに船会社から使いの者が来た後だった。
アンは母の隣に座って泣いていた。サミュエルは椅子に腰を下ろし、父が死んだという事実をまだ受け止め切れない様子で母と姉を見ている。
レベッカはエドワードが来ると立ち上がった。
「伯爵様」
「トーマスのことを聞きました」
「はい」
「商会の仕事で海へ出てもらった。その航海で亡くなったことを申し訳なく思っています」
「伯爵様が謝ることではありません。行くと決めたのは夫です」
レベッカは言葉を切り、しばらくして続けた。
「夫は、また商人として船に乗れることを喜んでいました」
エドワードには返す言葉がなかった。
アンが涙を拭った。
「父は、ひどく苦しんだのでしょうか?」
「そこまでは聞いていない。船長の詳しい報告が届いたら、必ず知らせる」
「お願いします」
エドワードは一家へ弔意を伝え、給金や手当についてはウェッブから改めて説明すると告げて帰った。
◇ ◇ ◇
2月27日の夕方。
レベッカは、後任へ渡す帳簿と自分しか分からない部分を整理するため、作業場へ来ていた。
そこへエドワードが訪れた。
人のいない事務室へ入ると、レベッカは扉を閉めた。
「トーマスが亡くなったのは14日なのですね」
「そうです」
「私たちが会ったのは18日でした」
「ええ」
レベッカは窓の外へ目を向けた。
「知らせを聞いた時、ほんの少しだけ安心した自分がいました。夫がもう亡くなっていたのなら、あの夜のことも少しは違うのではないかと思ったのです」
エドワードは黙って聞いていた。
「でも、18日の私はトーマスが生きていると思っていました。数週間すれば帰ってくると思っていた。それでも、自分からあなたのところへ行った」
「僕も同じです」
「だから、亡くなった日を理由にはできません」
レベッカはエドワードへ向き直った。
「ここで終わりにします」
「僕が嫌になったのですか?」
「そうなら簡単でした」
レベッカは首を横に振った。
「今でもあなたが好きです。でも、夫が亡くなったから、これで自由にあなたへ会えるとは考えたくありません」
エドワードはしばらく彼女を見た。
「分かりました」
「仕事には戻ります。少し時間をください」
「もちろんです」
「人前では、今までどおりにしてください」
「そうします」
「ありがとうございます」
「礼を言われることではありません」
2人は、それ以上この話をしなかった。




