第9話(後編)「一度だけ」 1780年1月26日~2月10日
エドワードが作業場へ入ると、以前より人が増えていた。
長い机には布が広げられ、女性たちが船員用のシャツや寝具を縫っている。壁際には仕上がった品が種類ごとに積まれ、別の一角では古い木箱から金具を外し、新しい板へ付け替える作業が進んでいた。
30人から始めた仕事場は、すでに47人まで増えているという。
レベッカは奥で完成品を数えていた。
エドワードに気付くと、作業を止めずに声をかけた。
「お帰りなさい。思ったより早かったですね」
「10日ほどと言ったでしょう」
「海の上で気が変わるかと思いました」
「今回は帰りました」
「今回は、という言葉が余計です」
レベッカは帳面へ数字を書き終えると、エドワードの方へ来た。
「ちょうど見ていただきたいものがあります」
案内された先には、船員用のシャツと寝具が並べられていた。
「最初のものより縫い方を変えました。脇と肩が破れやすかったので、そこだけ糸を増やしています。洗濯した後も今のところ問題ありません」
エドワードはシャツを1枚手に取った。飾り気のない衣服だが、生地も縫い目もしっかりしている。
「値段はどの程度なのですか?」
「外から買うのとほとんど変わりません。少しだけこちらの方が高いですが、修繕までまとめて引き受ければ、長く使う分には大差がなくなります」
「では艦隊へ回してください。ハロウデンからも注文が来ると思います」
「ハロウデンからも注文が来るのですか?」
「アメリアに話したら、本邸や使用人用の寝具で使えるなら買うと言っていました」
レベッカの手が一瞬止まったが、そのままシャツを畳んだ。
「伯爵夫人にも見ていただける仕事になるのですね。それなら、なおさら粗末な物は出せません」
「僕が使う物も同じようにしてください」
「もちろんです。伯爵様だから縫い目を1本減らすようなことはしません」
「増やしてくれてもいいですよ」
「追加料金をいただきます」
エドワードは笑った。
作業場の一番奥では、腰を痛めた男が材料と完成品の数量を確認していた。片手の指を失った男は木箱の修理を担当し、14歳の少年は材料を運びながら帳簿の付け方も習っている。
一通り見て回った後、エドワードはレベッカへ言った。
「うまくいっていますね」
「問題もありますよ。働きたい人の方が多いのです。毎日ここへ来ますが、全部雇えば、作っても使い道がなくなります」
「売り先を増やしましょう。商品が悪くないなら、ヘイル商会の船だけでなく、ほかの船主にも買ってもらえます。安くて丈夫なら欲しがる人はいるでしょう」
「では、私たちは慈善ではなく服屋になるのですか?」
「服だけなら服屋ですが、木箱も洗濯もやっています」
「何屋なのでしょうね」
「仕事屋とでも呼びましょうか」
レベッカは声を上げて笑った。
「そんな看板を出したら、もっと人が集まってしまいますよ」
「では看板は出さないことにします」
2人は作業場の外へ出た。
冷たい風が吹いていたが、倉庫の壁際には冬の日差しが当たっている。
レベッカは外套の前を合わせながら、通りの向こうへ目を向けた。
「私は少し前まで、あちら側にいたのですね」
彼女が見ている先では、仕事を探す男たちが倉庫の前に集まり、荷役の声がかかるのを待っていた。
「トーマスも荷車を押していましたね」
「夫だけではありません。私もアンも、その日にもらえる仕事を探していました。今になって思うと、仕事がある日は、それだけで安心したものです」
レベッカは通りを眺めたまま続けた。
「ここで働いている人たちが毎朝きちんと来る理由も分かります。給金だけではありません。明日も仕事があると分かっていることが大きいのです」
「仕事が続く見通しの方が大事なのか」
「どちらも大事ですよ。でも、伯爵様が毎日仕事を買う必要はありません。作った物を売って、そのお金を次の給金や材料に回せばいいのでしょう?」
「その通りです」
「少し商人らしくなってきましたね」
「僕に向かって言う言葉ですか?」
「私は商人の妻ですから」
レベッカは笑った。
◇ ◇ ◇
2月に入ると、作業場の製品をヘイル商会以外へ売る話が始まった。
最初に興味を示したのは、商船を何隻か持つ船主だった。丈夫なシャツと寝具を一定数まとめて納められるなら、試しに買ってもよいという。
レベッカは注文数を確認し、それに合わせて働く人数を少し増やした。
エドワードは必要な資金を出したが、日々の運営はレベッカとウェッブに任せた。
2月7日の夕方、商会の仕事が終わった後、エドワードは作業場へ寄った。
人はほとんど帰っており、奥ではレベッカが翌日に使う材料を確認していた。
「まだ帰らないのですか?」
エドワードが尋ねると、レベッカは帳面を閉じた。
「今帰るところです。伯爵様こそ、今日は何のご用ですか?」
「ウェッブから注文が増えたと聞いたので見に来ました」
「仕事の確認だけで来たのですか?」
それまでとは少し違う聞き方だった。
エドワードは彼女の顔を見た。
「それ以外の話は、あなたが考えたいと言ったでしょう。だから僕からは言いません」
レベッカは外套を手に取った。
「本当に何も言わないのですね」
「言ってほしいのですか?」
「そう聞かれると困ります」
「僕も困っています。言えば急かしていると思われるし、何も言わなければ進みようがない」
レベッカはしばらくエドワードを見ていた。
「海にいた間、私のことを考えていたのですか?」
「考えました。ただし、敵船が近くにいる時は忘れていました」
「そこは格好よく、ずっと考えていたと言うところではありませんか?」
「嘘になります」
「伯爵様らしいですね」
「あなたも僕のことを考えたのですか?」
レベッカは少し迷ってから答えた。
「考えましたよ。だから困っています」
「僕が嫌だから困っているのですか?」
「嫌なら、こんなに困りません」
レベッカは外套を着た。
「あなたが海へ出ている間、無事に帰ってくるのか気になりました。帰ってきたと聞いた時には安心しましたし、今日ここへ来たのを見て、嬉しいとも思いました」
彼女はエドワードへ向き直った。
「そこまで分かってしまったから、余計に困るのです」
「僕は待ちます」
「いつまで待つつもりなのですか?」
「あなたが答えを出すまでです。ただ、断られたら諦めます」
レベッカはしばらく黙った。
「断ったら、本当に諦めるのですか?」
エドワードも少し考えてから答えた。
「簡単ではないと思います。でも、あなたが嫌だと言うなら仕方がないでしょう」
レベッカは視線を落とした。
やがて顔を上げると、2人の間はいつの間にか先ほどより近くなっていた。
エドワードは手を伸ばさなかった。
「レベッカ」
「はい」
「キスをしてもいいですか?」
レベッカはすぐには答えなかった。
窓の外を馬車が1台通り過ぎ、石畳を踏む車輪の音が遠ざかっていった。
「それを許したら、前より困るでしょうね」
「たぶん」
「伯爵様は、そこで止めてくださいますか?」
「あなたが止めろと言えば」
レベッカはしばらくエドワードを見つめた後、自分から少しだけ距離を詰めた。
「一度だけです」
エドワードは彼女の頬へ手を添え、唇を重ねた。
レベッカが身を離すと、エドワードもそれ以上は求めなかった。
「これで、もっと考えることが増えました」
「申し訳ありません」
「伯爵様だけのせいではありません。許したのは私ですから」
エドワードがもう一度近づこうとすると、レベッカは首を横に振った。
「今日はここまでです。本当に一度だけと言いました」
「分かりました」
「素直なのですね」
「今ここで嫌われたら、待った意味がないでしょう」
レベッカは笑った。
「そういうところは、やっぱり商人ですね」
「損は嫌いです」
「私を損得で考えないでください」
「それは別です」
レベッカは外套の襟を整え、扉へ向かった。
「明日は仕事の話だけですよ」
「分かっています」
「人前では今までどおりです」
「もちろん」
「では、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
レベッカは帰っていった。
翌朝、作業場で顔を合わせた2人は、注文されたシャツと寝具の数、必要な材料、納期について話した。
前夜の口づけについては、どちらも一言も触れなかった。




