第8話(中編)「言わなければ始まらない」 1779年12月11日~12月20日
マーサー一家が働き始めて1週間ほどたつと、ウェッブはエドワードへ最初の報告をした。
「マーサーを雇ったのは正解だったようです。北アメリカ産の煙草について、こちらが買おうとしていた値が高すぎると気付きました。別の商人にも確かめましたが、彼の見立ての方が正しかった」
「いくら違った?」
ウェッブが金額を答えると、エドワードは満足した。
「それなら給金を払っても十分に残る。荷車を押させていたのは、やはりもったいなかったな」
「もっとも、彼が荷車を押すことになった原因の一部は、あなたですが」
「本人にも散々言われた。お前まで加わらなくていい」
「事実を確認しただけです」
ウェッブは笑った。
マーサー本人も、以前より明らかに生き生きしていた。
商会へ入ってくる品物を見て品質を確かめ、ウェッブと仕入れ値を相談し、知っている港から入った情報について意見を述べる。
自分の船と商売を失っても、商人として蓄えた経験まで消えたわけではなかった。
アンも書記として問題なく働いていた。
字が読みやすく、数字の写し間違いが少ない。最初は簡単な記録だけだったが、数日後には倉庫ごとの在庫表を任されるようになった。
サミュエルは計算で間違えることも多かったが、姉に教わりながら仕事を覚えていた。
そして、最も早く新しい役目に慣れたのはレベッカだった。
宿舎の石炭を建物ごとに別々に買っていることに気付き、購入先と注文をまとめた。その結果、同じ量を買っても支払額が下がった。
食料についても、人数と消費量を見ながら注文量を調整し、残ったパンや肉が無駄にならないようにした。
エドワードが宿舎へ行った時、レベッカは石炭商から届いた請求書を確認していた。
「仕事には慣れましたか?」
「主婦が家でしていることを、大勢の従業員相手にしているだけですよ。何人住んでいて、どのくらい食べ、どれだけ石炭を使うのかを見る。数字は大きくなりましたけれど、考えることは同じです」
「ウェッブが喜んでいました。支出が減ったそうです」
「それなら次に給金を上げてもらう時の材料になりますね」
「始めてまだ1週間でしょう」
「今すぐ上げろとは言いません。ただ、利益を出したことは覚えておいていただきませんと」
レベッカは笑った。
「商人の妻だった人は抜け目がないな」
「夫より商売に向いていると言いたいのでしょう?」
「そこまでは言っていません」
「顔に書いてありますよ」
エドワードは笑った。
レベッカと話す時間は楽しかった。
冗談を返すのが早い。それでいて軽薄ではなく、必要な時には数字も現実もきちんと見る。
そして美しい。
そのことを意識し始めると、エドワードは以前ほど気楽に話せなくなった。
相手には夫がいる。
自分にもアメリアがいる。
しかも、マーサー一家を雇ったのは自分である。
自分から余計なことを言えば、レベッカは断りたくても仕事を失うことを恐れるかもしれない。
その状態だけは作りたくなかった。
だから、数日間は何も言わなかった。
◇ ◇ ◇
12月17日の夕方。
エドワードは自宅でアメリアと夕食を取った。
アメリアの腹部は大きくなっていたが、体調は安定している。医師の見立てでは、出産は1780年3月上旬になる予定だった。
食卓には温かなスープ、焼いた肉、根菜、パンが並んでいた。外では細かな雨が窓を叩いている。
アメリアはマーサー一家について尋ねた。
「以前、あなたが船を捕らえた商人の一家でしょう? 仕事には慣れたのですか?」
「トーマスはもうウェッブのところで役に立っている。煙草の仕入れ値を下げた。アンも書記として使える。サミュエルはまだ勉強の方が多いけれど、そのうち仕事を覚えるだろう」
「奥様は?」
「レベッカは宿舎の支出をかなり減らした。石炭をまとめて買うようにしたらしい。家を切り盛りしていた人だから、ああいう仕事には強い」
「家族全員に合った仕事があってよかったですね。夫だけ雇っても、妻や娘が仕事を探し続けるようでは落ち着きませんもの」
「僕もそう思う」
アメリアはスープを口へ運んでから話題を変えた。
「ハロウデンから冬の報告が来ています。農作業が減って仕事の少ない人がいるそうです。屋根が傷んだ家も何軒かあるとか」
「管理人からも来ていた。数日中に見に行くつもりだ」
「私は今回はロンドンに残ります。馬車で長く移動すると、以前より疲れるようになりましたから」
「その方がいい。3月まで無理をする必要はない」
「その代わり、働けない家について調べてもらっています。病人や老人ばかりの家へ仕事を用意しても、役には立ちませんから」
「そこは君に任せる。何が必要か分かったら金額も出してくれ」
「やっぱり最後は金額なのですね」
「払うつもりでも、何にいくら必要なのか分からなければ続けられないだろう。1年だけ気前よくやって、翌年には何もしないのでは意味がない」
アメリアは納得した。
「では私は、仕事では助けにくい家を調べます。あなたは働ける人の仕事を考えてください」
「そうしよう」
夫婦はそのままハロウデンの冬について話した。
エドワードがレベッカのことをアメリアへ隠しているのは、まだ何も起きていないという意味では事実だった。
だが自分がレベッカを女性として意識していることまで、妻に話すつもりはなかった。
その夜、寝室へ入ってからも、エドワードはしばらく眠れなかった。
アメリアを嫌いになったわけではない。
むしろ妻を大切に思っている。
それでもレベッカにも惹かれている。
その2つが同時に存在することを、自分でも都合よく説明することはできなかった。
◇ ◇ ◇
12月19日の夕方。
商会の仕事が終わり、人が少なくなったころ、レベッカが宿舎関係の帳簿を持ってエドワードの事務室へ来た。
「今月の見込みです。クリスマス前後は食事を少し増やしますけれど、それを入れても予算の中に収まります」
エドワードは帳簿を開いた。
「肉を増やしたのですか?」
「肉とパンを少し。それから酒も。年末まで毎日働いている人に、クリスマスまで普段どおりでは可哀想でしょう」
「それくらいなら構いません。増やしてください」
「伯爵様ならそう言うと思っていました」
「なぜです?」
「お金を惜しまないところでは、本当に惜しまないからです。ただし、請求書は必ず見る」
「そこまで分かってきましたか」
「給金をいただく相手ですもの。性格くらい覚えますよ」
レベッカは椅子へ腰を下ろした。
建物の中は落ち着いていた。遠くで扉の閉まる音が聞こえた後は、外を通る馬車の音しか聞こえない。
エドワードは帳簿を閉じた。
話すなら今しかないと思った。
だが、実際に口に出そうとすると難しかった。
敵船へ向けて拳銃を撃つ時ほど緊張したことはないはずなのに、目の前の36歳の女性へ一言告げる方が厄介だった。
レベッカがエドワードの様子に気付いた。
「どうしました? 帳簿に間違いでもありましたか?」
「いや。帳簿ではありません」
「では?」
エドワードは一度、言葉を選んだ。
「レベッカ。少し個人的な話をしてもいいですか?」
彼女は意外そうな顔をした。
「珍しく改まりますね。どうぞ」
「最初に言っておきます。これから話すことと、あなたやトーマスの仕事には何の関係もありません。気に入らなければ断ってください。それで給金を下げたり、宿舎から出したりすることは絶対にありません」
レベッカの表情から笑みが薄れた。
何を言われるのか、察し始めたようだった。
エドワードは続けた。
「僕は、あなたを女性として好ましく思っています。2年前にも美しい人だと思いましたが、今回また会って、外見だけではなく、あなたの明るさや物の考え方まで気に入りました」
レベッカは何も言わなかった。
エドワードも急がなかった。
「こういうことを既婚者であるあなたに言うのが紳士的ではないことは分かっています。僕にも妻がいる。だから、言わずに済ませるべきだとも考えました」
「それなら、なぜ言ったのです?」
レベッカの声は責めるものではなかった。
エドワードは正直に答えた。
「言わなければ、あなたがどう思っているのか永遠に分からないからです。僕が勝手に悩んでいるだけでは何も始まりません」
レベッカは視線を落とした。
「何を望んでいるのですか?」
「今すぐ何かを決めてほしいわけではありません。あなたも僕を好ましく思ってくれているなら、いつか2人で会いたい。ただ、それだけを伝えておきたかった」
「夫には?」
「もちろん言えません」
「奥様にも?」
「言えない」
「随分困った話ですね」
「だから迷いました」
レベッカはしばらく黙っていた。
怒ってはいなかった。
むしろ、それがエドワードには分かったからこそ期待した。
だが彼女はすぐに答えを出さなかった。
「伯爵様。私は36歳で、夫がいて、19歳の娘までいます。あなたには若くて美しい奥様がいて、もうすぐお子様も生まれる。それに、私たち一家はあなたに仕事をいただいたばかりです」
「全部分かっています」
「分かっていて、それでも言ったのですね」
「はい」
レベッカは困ったように笑った。
「本当に困った方です」
「申し訳ない」
「そこで謝られると、もっと困ります」
彼女は両手を膝の上へ置き、少し考えた。
「嫌だとは言いません」
エドワードは黙って続きを待った。
「あなたは魅力のある方です。助けてもらったからではありません。2年前から、変わった方だと思っていましたし、今回一緒に仕事をするようになってからは、前よりずっとよく分かりました」
そこで言葉を切った。
「でも、今すぐ答えられません。私は夫を捨てるつもりはありませんし、家庭を壊したいとも思っていません。あなたの奥様に知られたいとも思いません」
「それでいいです。僕も家庭を壊すつもりはない」
「なら、しばらく何も言わないでください。私も考えたいのです」
エドワードは承知した。
「分かりました。返事を急がせません」
「本当に?」
「本当にです」
「それなら、今日はこれで帰ります」
レベッカは立ち上がった。
扉へ向かいかけてから、一度振り返った。
「ただし、伯爵様」
「何です?」
「こんな話をした後で、明日から急によそよそしくならないでくださいね。それでは商会の人に変に思われます」
エドワードは笑った。
「それは僕も困ります。今までどおりにします」
「お願いします」
レベッカは部屋を出た。
廊下を歩く足音が遠ざかっていく。
エドワードは椅子へ戻った。
断られたわけではなかった。
受け入れられたわけでもない。
少なくとも、自分の気持ちは伝わった。
それ以上は、今は求めない方がよかった。
翌朝、商会でレベッカと顔を合わせた時、2人は昨日までと同じように挨拶をした。
レベッカも宿舎の仕事を続け、エドワードも帳簿を確認した。
誰が見ても、伯爵と従業員だった。
ただし2人だけは、前日までとは違うことを知っていた。




