第8話(前編)「奪った船の持ち主」 1779年12月1日~12月10日
1779年12月2日。
エドワードは午前中からテムズ沿いの造船所を訪れていた。
11月の航海で捕らえたスペイン護衛艦のうち、艦隊へ残す1隻はすでに修理に入っている。傷んだ帆と索具は外され、甲板では船大工が船体の損傷を調べていた。冬の風が川面を渡り、濡れた木材とタール、石炭の煙の匂いが造船所に漂っている。
カートライトによれば、帆装の修理には時間がかかるものの、船体は丈夫だった。速力も悪くなく、30門前後の砲を積める。修理と乗組員の訓練が終われば、ヘイル艦隊の12隻目として十分に働けるという。
エドワードは現場の判断をカートライトへ任せ、造船所を出た。
そのままヘイル商会の倉庫へ向かう途中だった。
港では朝から荷役が続いていた。船から樽を降ろす掛け声、荷馬車の車輪、馬の蹄、倉庫番が数量を読み上げる声が重なっている。
エドワードは人の流れを避けながら歩いていたが、前方で手押し車を押す男を見て足を止めた。
40歳ほどの男だった。上着は古く、肘と袖口が擦れている。重い荷を載せた車輪が石畳の継ぎ目へ引っ掛かるたび、腰を入れて押していた。
顔に覚えがあった。
エドワードは少し近づいてから声をかけた。
「トーマス・マーサーではないか?」
男が振り返った。
数秒の間があった。
マーサーの顔に驚きが浮かび、それから苦笑に変わった。
「名前まで覚えていたとは思わなかったよ。俺の方は、お前の顔を忘れたくても忘れられなかったがな」
「まだ船を取ったことを怒っているのか?」
「船だけならまだしも、積荷まで持っていった男がよく言う。怒る権利くらい残しておいてくれ」
口調には棘があったが、喧嘩を売っているわけではなかった。
エドワードは手押し車へ目を向けた。
「その話は後で聞く。それより、なぜ商人だったお前が他人の荷を運んでいる?」
「商人として食えなくなったから、働いている。簡単な話だ」
マーサーは手押し車の柄を握り直した。
「この荷を届けるまで待ってくれるなら、詳しい話くらいはしてやるよ」
「一緒に行こう」
「伯爵様が荷車について歩いていたら、格好がつかないんじゃないか?」
「伯爵は荷車の横を歩いてはいけないという法律ができたなら教えてくれ」
マーサーは笑った。
「少なくとも、口は昔のままだな」
2人は倉庫まで歩いた。
荷を引き渡した後、近くの酒場へ入った。昼前で客は少なく、暖炉のそばには空いた席があった。
マーサーは温かい酒を頼んだ。
「船を失った後も、すぐ諦めたわけじゃない。残った金を集めて、知り合いの商人と組んだ。フランスへ荷を送ったこともあるし、オランダを通して商売しようとしたこともある」
だが戦争は終わらなかった。
船賃は上がった。保険料も上がった。荷が届かないこともあれば、逆に商品を受け取る前から支払いだけを求められることもあった。
損を取り返そうとして、さらに金を入れた。
借金もした。
最後には、その金もなくなった。
「家族を食わせなければならん。俺が昔は船を持っていたと荷主に話したところで、パンは買えないからな。今は荷を運んで日銭を稼いでいる」
「家族はロンドンにいるのか?」
「ああ。レベッカも、アンも、サミュエルも一緒だ。北アメリカへ戻ることも考えたが、戦争中に戻ったところで商売を再開できる金がない。それなら、まだ仕事のあるロンドンにいた方がましだ」
エドワードは酒杯へ手を付けず、マーサーの話を聞いていた。
「今日、この後は空いているか?」
「午後にも仕事を探すつもりだったが、何だ?」
「家族に会いたい」
マーサーは眉を上げた。
「また何か取りに来る気じゃないだろうな」
「今のお前から何を取れというんだ」
「そこまで正直に言われると腹が立つが、反論できないな」
マーサーは酒を飲み干した。
「分かった。来い。ただし、狭い家だぞ。伯爵様を迎えるような部屋ではない」
「今日は客として行くんじゃない」
「では何として来る?」
「それは家族を見てから考える」
◇ ◇ ◇
マーサー一家が暮らしていたのは、港から遠くない一角だった。
大通りを外れると道幅が狭くなり、建物同士の間隔も詰まっていく。路地には洗濯物が掛けられ、窓や煙突から炊事の煙が流れていた。道端には泥水がたまり、石炭、魚、下水が混じった匂いが冬の湿った空気に残っている。
一家が借りているのは、古い建物の上階にある2部屋だった。
階段は急で、踏み板の端が大きく擦れていた。
マーサーが扉を開けた。
「レベッカ。客を連れてきた」
「こんな時間に? 先に知らせてくれれば、もう少し片付けられたのに……」
奥から出てきた女性は、夫の後ろにいるエドワードを見ると途中で言葉を止めた。
「まあ。本当に珍しいお客様ね」
レベッカ・マーサーは36歳になっていた。
身につけている服は質素だった。2年前のような商人の妻らしい装飾品もない。それでも、明るい茶色の髪は整えられ、顔立ちの美しさも変わっていなかった。
困窮している家の女主人には見えないほど、表情が明るかった。
レベッカは夫へ顔を向けた。
「あなた、まさか船を返してもらいに行ったの?」
「返してくれなかった」
「2年前に売ってしまった船を、どうやって返してもらうのよ」
「そこなんだ。俺も説明されて困った」
エドワードは笑った。
「奥方の方が話が早いな」
「昔からですよ。夫は損をした話だけは、いつまでも覚えていますから」
「俺の船だったんだぞ」
「その話を毎日聞いている私の身にもなってください」
娘のアンも部屋にいた。
19歳になり、母親に似た整った顔立ちの女性に育っていた。机の上には紙とインクがあり、何かを書き写している。
サミュエルは12歳だった。窓際で荷紐をまとめていたが、エドワードを見ると作業を止めた。
部屋は狭かったが清潔だった。
家具は少なくても壊れたまま放置されている物はない。食器は洗われ、衣服も畳んである。暖炉の火が小さいのは、薪や石炭を節約しているからだろう。
エドワードはアンの机を見た。
「仕事をしているのか?」
「近くの商人から頼まれた手紙の写しです。帳簿を書き写す仕事も時々あります」
「数字も扱える?」
「父から教わりました。商会を1人で任されるほどではありませんが、普通の帳簿なら読めますし、計算もできます」
エドワードはマーサーを見た。
「娘に商売を教えていたのか」
「読めて、書けて、計算できて困ることはない。昔は婿を取った後でも役に立つと思っていたが、先に家計を助けてもらうことになった」
レベッカが口を挟んだ。
「それを申し訳なさそうに言わなくてもいいでしょう。家族なのだから、できる人ができることをすればいいのよ」
エドワードは彼女へ尋ねた。
「あなたは何をしている?」
「洗濯や縫い物を頼まれたり、料理をしたりしています。以前は夫が船で出ている間、家の支払いも私が見ていました。商売そのものは夫の仕事でしたけれど、買い物や使用人の給金まで夫に任せていたら家計が持ちませんから」
マーサーが不満そうに言った。
「俺だって家計くらい分かる」
「分かっていて借金を増やしたのでしょう?」
「伯爵の前で言うな」
「だから伯爵様の前で言うのよ。仕事を探しているのでしょう?」
レベッカは笑った。
エドワードは、そのやり取りを面白く聞いていた。
2年前に会った時も美しい女性だと思った。
だが今は、それ以上に性格が気に入った。
生活が苦しくなっても卑屈にならず、夫の失敗まで笑って話せる。必要なら自分も働き、娘にも仕事をさせて一家を支えている。
エドワードはトーマスへ向き直った。
「商人に戻りたいか?」
マーサーの表情が変わった。
「戻れるなら戻りたい。だが、自分で船を買える金はもうない」
「船を買えとは言っていない。ヘイル商会で働け」
部屋が静かになった。
マーサーだけでなく、妻と娘もエドワードを見た。
「お前は北アメリカとフランスの商売を知っている。煙草、皮革、木材、魚、そのほかの積荷も扱ってきた。僕の商会には船も倉庫もある。外国の商品を扱う機会も多い。経験のある商人を荷運びだけに使っている方が無駄だ」
マーサーは少し考えてから答えた。
「俺はアメリカ側の人間だぞ」
「兵士にするわけじゃない。祖国を裏切れとも言わない。商品を見て、値段を考えて、商人と交渉してもらう。それなら問題ないだろう?」
「商売だけならできる」
「ならウェッブに会え。実際に何ができるか見てもらって、それから仕事を決める」
レベッカが尋ねた。
「夫だけですか?」
「あなたも仕事が欲しい?」
「もちろんです。アンも働いていますし、サミュエルだって、もう何もしないで食べさせてもらう歳ではありません」
エドワードは考えた。
「家族全員で来ればいい。あなたは宿舎か商会の生活物資の管理で使えるかもしれない。アンは書記の仕事を見てもらう。サミュエルは12歳だから、大人と同じ荷役はさせない。読み書きと計算を覚えながら見習いとして働かせればいい」
サミュエルが目を輝かせた。
「僕にも給金が出ますか?」
「仕事をした分は出す。ただし、勉強まで仕事のうちだと思え。計算を覚えれば、父親みたいに荷車を押すだけで終わらずに済む」
マーサーが苦笑した。
「今、その父親が目の前にいるんだが」
「お前は商人として雇うんだから問題ないだろう」
レベッカが笑った。
「随分まとめて雇ってくださるのね」
「施しをする気はない。正式に働いてもらう。仕事をすれば給金を払うし、向いていなければ仕事を変える。それなら長く続けられる」
「住む場所は?」
「商会に家族向けの従業員宿舎がある。空きがあればそこへ入ればいい。ここより職場にも近い」
マーサーは妻を見た。
レベッカは夫の目を見返してから言った。
「断る理由があるの?」
「ないな。ただ……」
マーサーはエドワードへ向き直った。
「俺は、お前に船を奪われた男だぞ」
「それは戦争中の話だ。敵船だから取った。今は仕事のできる商人を雇う話をしている。僕の中では何も矛盾していない」
「お前は昔から、妙なところで割り切っているな」
「その方が商売は簡単だ」
マーサーは笑った。
「分かった。明日行く」
「午前中に来てくれ。ウェッブには話を通しておく」
エドワードが立ち上がると、レベッカが扉まで見送りに来た。
「伯爵様」
「何です?」
「船のことはまだ少し恨んでいますけれど、今日のことは感謝します」
「給金をもらって、本当に仕事が続いてから言ってください」
「そういう答えをすると思いました」
レベッカは楽しそうに笑った。
エドワードも笑い、階段を下りた。
◇ ◇ ◇
翌朝、マーサー一家は約束どおりヘイル商会へ来た。
ウェッブは4人を一緒に雇うという話を聞いていたが、仕事の配置までエドワードに決めさせるつもりはなかった。
「採用そのものは伯爵から聞いています。ただし、何をしてもらうかは実際に能力を確かめてから決めます。その方が皆さんにとっても長続きするでしょう」
トーマスは、これまで扱った商品、利用した港、知っている船主や商人について詳しく説明した。
ウェッブは何度も質問し、最後には外国商取引の補助へ置くことを決めた。北アメリカ産の商品を見る際には意見を聞き、拿捕した外国船の積荷を評価する仕事にも関わらせる。
レベッカには、従業員宿舎や倉庫で使う石炭、薪、寝具、食料などの購入と管理を任せることになった。
アンは書記見習いとなり、倉庫の出入記録、請求書の写し、荷札の整理から始める。
サミュエルは午前中に読み書きと計算を学び、午後は軽い荷や書類を運ぶ。
一家には従業員宿舎の2部屋が用意された。
その日の夕方には、少ない家財が古い借家から運ばれた。
宿舎は豪華ではなかったが、4人で暮らすには十分だった。窓は以前より大きく、暖炉にも火を入れられる。
翌月の家賃をどう工面するか考える必要もない。
マーサーは新しい部屋を見回した。
「まさか、あいつの商会で暮らすことになるとはな」
レベッカは箱から食器を出しながら答えた。
「あなた、船を取られた話はこれから毎日しない方がいいと思うわ。給金を払ってくれる相手なのよ」
「一生言うつもりだったんだが」
「家で私に言うくらいにしてください。私は聞き流すことに慣れていますから」
アンが笑った。
マーサーも最後には笑った。
2日前まで、この家族は来月の家賃を心配していた。
今は4人とも、翌朝になれば行くべき仕事があった。




