第6話(前編1)「伯爵、自分の土地を歩く」 1779年10月1日~10月5日
1779年10月1日。
エドワードとアメリアは、しばらくハロウデンに滞在するための荷物を積んだ馬車でロンドンを出た。
9月の航海から戻って以来、エドワードは港、王宮、ウェッブの事務所、自宅を行き来していた。その間にも、ハロウデンからは道路、橋、農場、倉庫、本邸建設について報告書が届いている。
エドワードは土地を買う前にも現地を見ているし、新しい本邸を建てる高台にも足を運んでいた。しかし、購入前の視察と、自分の所領になってからの見方は同じではない。今回は売値を決めるためではなく、これから自分たちが治めていく土地として見直すつもりだった。
ハロウデンは約52,000エーカーあり、11の村と70を超える農場を抱えている。農地と牧草地だけではなく、森林、川、水車、採石地もある。全部を一度に見ることなどできないため、最初の5日間は屋敷周辺と主要な道路、橋、倉庫などを回り、その後に農場や村を見る予定を組んでいた。
馬車がロンドンを離れると、窓の外の家並みは少しずつ減り、畑と牧草地が増えていった。夏の濃い緑はすでに薄れ、木々には黄色や褐色の葉が混じっている。収穫を終えた麦畑には刈り株が残り、別の畑では男女が根菜を掘っていた。
アメリアは向かいの座席で膝掛けを整えた。
「本当に所領を全部見て回るつもりなのですか?」
「全部は無理だ。5日で52,000エーカーを歩いたら、ロンドンへ帰るころには足がなくなる」
「珍しく分かっているのですね。馬もありますよ」
「君は無理に乗らなくていい」
「私まで遠い農場や森を全部回るつもりはありません。屋敷の近くと村を見るくらいにしておきます」
「その方がいい。遠いところは僕が行く」
「その代わり、夕食までには戻ってください」
「ハロウデンまで来ても同じことを言うのか?」
「ロンドンで守らない人が、ハロウデンへ来ただけで急に守るとは思えません」
「最近は守っているぞ」
「時々ですね」
エドワードは反論しなかった。
昼過ぎ、馬車はハロウデン所領へ入った。
購入前にも通った道だが、いまは道路の左右に広がる畑も、その先の森も、遠くに見える農家もヘイル家の所領に含まれている。
古い本邸へ着くと、領地管理人と主だった使用人が玄関前で待っていた。
新しいハロウデン・ハウスが完成するまで、エドワード夫妻が所領に滞在する際には、前の所有者が使っていたこの屋敷を利用することになっている。新しい本邸ほど大きくはないが、伯爵夫妻が長く滞在しても困らないだけの部屋と設備はあった。
管理人は挨拶を終えると、その日の予定を説明した。
「本日は屋敷周辺と、修繕を終えた南側の橋をご覧いただく予定でございます。明日は馬車で東側の農場を回り、その後は――」
「まず橋まで歩こう」
管理人は一瞬、言葉を止めた。
「徒歩で向かわれるのですか? 馬車を用意しておりますが」
「馬車はアメリアが使えばいい」
「私も橋までは歩きます」
アメリアが横から言った。
「歩いて大丈夫なのか?」
「近いのでしょう?」
管理人が答えた。
「屋敷から半マイルほどでございます」
「それなら問題ありません」
結局、3人は使用人を数人伴って屋敷を出た。
朝まで降っていた雨は止んでいたが、道にはまだ湿り気が残っていた。革靴の底へ土が付き、馬車の轍には水がたまっている。刈り取りを終えた畑からは、湿った藁と土の匂いが漂ってきた。
橋は小さな川に架かっていた。
報告書には「収穫物運搬に用いる橋。床板および欄干を修理」と書かれていた。
実際に見ると、幅は荷車1台が通れる程度だった。新しく替えた木材だけが明るい色を残し、長く使われてきた部分との違いがはっきり分かる。
ちょうど穀物を積んだ荷車が向こうからやってきた。
御者が伯爵夫妻を見つけて慌てて帽子を取った。
「そのまま通ってくれ」
エドワードは橋の脇へよけた。
荷車が橋へ乗ると、木の床が重みを受けて軋んだ。鉄の輪を付けた車輪が板の上をゆっくり進み、荷台には穀物の袋が何段にも積まれている。
橋を渡り終えたところで、エドワードは管理人へ尋ねた。
「修理前は、どのように使っていたのか?」
「床板が傷んでおりましたので、重い荷を積んだ荷車は、一度荷を減らして渡ることがございました」
「橋の手前で袋を降ろし、人が運んでいたのか?」
「はい。橋を渡った後でもう一度積み直しておりました」
報告書では数行で済んでいた話だった。しかし実際には、橋が傷んでいるだけで、収穫物を運ぶたびに荷を下ろす人手が必要となり、荷車も余計な時間を取られていた。
「直して正解だったな」
「だから先に修繕したのです」
アメリアが答えた。
「ああ。報告書を読んだ時より、理由がよく分かった」
橋を渡った先には農道が続いていた。
その途中で、荷車の車輪が深い泥へ沈み、御者が馬へ声をかけて引かせている場所があった。
エドワードは足を止めた。
「この辺りは、いつもこれほどぬかるむのか?」
管理人が答えた。
「排水が悪い場所でございます。修繕予定には入っておりますが、橋と倉庫を先にしたため、まだ手を付けておりません」
「同じ状態の場所は、この先にもあるのか?」
「2か所ございます」
エドワードは道端の地面を靴で踏んだ。水を含んだ土が足の下で沈んだ。
「雨が続けば、もっと悪くなるな」
「はい」
「石を入れるだけでは直らないのか?」
「それだけでは足りません。道の脇へ水を逃がす必要があります」
「では、その工事も進めてくれ」
「承知いたしました」
アメリアが尋ねた。
「工事はいつごろ始められるのですか?」
「橋の工事に使っていた者を回せますので、数日後には始められます」
「それならお願いします」
エドワードは妻を見た。
「今の指示は僕が先に出したぞ」
「工事を始める時期を確かめただけです」
「僕もそこまで聞くつもりだった」
「そういうことにしておきます」
管理人が笑いをこらえている。
「笑って構わないぞ」
エドワードが言うと、管理人は咳払いをした。
「恐れ入ります」
その日の午後には、穀物を保管する倉庫も見た。
屋根の修理を終えた建物には、今年取れた穀物が積まれていた。扉を開けると、乾いた穀物と藁、古い木材の匂いが鼻へ入った。
管理人が屋根を見上げた。
「以前は強い雨が降ると、奥の一角へ水が入りました」
「昨年も雨漏りしたのか?」
「はい。穀物にも損害が出ております」
「損失はどの程度だったのか?」
管理人が金額を答えた。
エドワードは続けて今回の修理費を尋ねた。前年に雨で傷んだ穀物の損失より、屋根の修理費の方が安かった。
「それなら、なぜもっと早く直さなかったのか?」
「前の所有者の時代には、修繕費を抑えるよう命じられておりました」
エドワードはそれ以上、前の所有者を責めなかった。
必要な修理を先送りにして目先の支出を減らし、その結果として修理費以上の損を出す。自分まで同じことを繰り返す理由はない。
「この所領では、金を使わないこと自体を目的にはしない。壊れた物を何でも新品に替えろという意味ではないぞ。直した方が安ければ直し、替えた方が安ければ替えろ」
「承知しております」
夕方、屋敷へ戻るころには、エドワードの靴と裾に泥が付いていた。
玄関で使用人が少し驚いた顔をした。
アメリアが夫の足元を見た。
「伯爵というより農場帰りですね」
「自分の農場だ」
「52,000エーカー全部を、その格好になるまで歩くつもりなのですか?」
「今日は2マイルも歩いていない。明日から遠いところは馬で回る」
「それなら安心しました」
翌2日から5日まで、エドワードは屋敷周辺の道路、水路、水車、別の倉庫、森林の入口などを順に見た。アメリアは体調を見ながら近い場所だけ同行し、遠い場所へ向かう日は古い本邸に残って建築家から届いた図面や管理人の報告書を確認した。
同じ所領でも、場所によって状態は大きく違った。石を入れてよく整えられた道もあれば、雨が続けば荷車が苦労する道もある。十分に手入れされた建物もあれば、数年のうちに修理しなければ費用が大きくなりそうな納屋もあった。
5日まで見て回っただけでも、報告書に書かれた「橋」「農道」「倉庫」という言葉が、エドワードの中では実際の場所と結び付くようになっていた。




