第5話(前編1)「伯爵夫人の帳簿」 1779年9月1日~9月5日
1779年9月1日。
8月の航海から戻ったエドワードは、久しぶりに朝から自宅にいた。
窓の外には夏の名残を残した強い日差しがあり、庭の木々もまだ青い。開けた窓から馬車の音が聞こえ、室内には焼いたパンと紅茶、卵料理の匂いが残っていた。
向かいに座るアメリアは、以前より朝の食欲が戻っている。妊娠が分かったころには朝になると気分を悪くしていたが、最近は少しずつ落ち着いてきた。ただし、以前のように何でも食べられるわけではなく、肉の匂いを嫌がる日もある。
エドワードは妻の皿を見た。
「今日は昨日より食べられているようだな。医師は何と言っているのか?」
「順調だと言っています。私も昨日よりずっと楽です」
「それならいい」
エドワードは安心してパンへ手を伸ばした。
「今日は何も予定を入れていない。昼まではここにいる」
アメリアが夫を見た。
「本当に昼まで家にいるつもりなのですか?」
「疑うな」
「あなたが家にいると言って、そのとおりだった日の方が少ないでしょう」
「今日はウェッブにも会わない」
「それなら、ちょうどよかったです」
アメリアは食卓の脇に置いてあった紙束へ手を伸ばした。エドワードは、その厚みを見ただけで嫌な予感がした。
「その紙束は何の書類なのか?」
「ハロウデン・ハウスの図面と、これから必要になる費用の見込みです」
「朝食の席で見るつもりなのか?」
「食べ終わってからで構いません。せっかく昼までいるのでしたら、今のうちに見てください」
「分かった。逃げないから、まず朝食を終わらせよう」
食事を終えた後、2人は居間へ移った。
大きな机には、ハロウデン・ハウスの平面図が何枚も広げられた。伯爵家の本邸として建てるだけあって規模は大きく、中央には大広間を置き、その周囲に応接室、食堂、舞踏室、書斎、客室などを配置する計画になっている。王族が滞在できる客室も別に用意し、家族が暮らす私的な区画とは分ける予定だった。
エドワードはしばらく図面を眺めた。
「僕には悪くないように見えるが、どこを直したいと思っているのか?」
アメリアは図面の一部を指した。
「ここです。厨房から大食堂まで料理を運ぶ使用人が、客の使う廊下を横切ることになっています」
エドワードは図面を見直した。
「本当だな」
「少人数なら大きな問題にはなりません。でも100人以上のお客様を招いて晩餐会を開けば、料理人も給仕も何度もここを通ります。熱い皿を持った使用人が、着飾ったお客様の間を行き来することになるでしょう」
「この動線は直せるのか?」
「建築家には、厨房から大食堂まで使用人だけが通れる道を別に設けるよう頼みました」
「もう頼んだのか?」
「先に話を進めてはいけませんでしたか?」
「いや。その方がいい」
アメリアは次の図面を示した。
「洗濯と衣類を扱う部屋も、こちらへまとめてもらいます。客室から汚れた物を運ぶ時にも、表の廊下を通らずに済むようにしたいのです」
「そこまで考えていたのか」
「家を建てるのですから、立派なだけではなく、実際に暮らせる家にしなければ意味がありません」
エドワードは図面へ目を戻した。
自分が最初に考えたのは、大広間、舞踏室、客室、馬車寄せ、厩舎などだった。伯爵家の威容を示し、大勢の客を迎え、国王夫妻が訪れても困らない建物を造ることばかり考えていた。
アメリアが見ている場所は違った。厨房と食堂を結ぶ道、洗濯室、使用人の動線、衣類や食器を保管する部屋、客が使う場所と家族が使う場所の分離など、完成した建物を毎日使うために必要なところへ目を向けている。
エドワードが別の部屋を指した。
「この部屋は何に使うのか?」
「子供部屋です」
「もう子供部屋まで考えたのか?」
「家が完成するころには必要でしょう」
「そうか。完成まで時間がかかるなら、1部屋では足りなくなるかもしれないな」
アメリアが夫を見た。
「何が足りなくなるのですか?」
「子供部屋だ」
「まだ1人目も生まれていません」
「だから今のうちに広くしておけばいい」
「気が早すぎます」
そう言いながら、アメリアの口元には笑みが浮かんでいた。
図面の確認が終わると、今度はハロウデン所領から届いた報告書が机へ置かれた。エドワードはそこで初めて、妻が建物だけではなく所領の運営にも目を通していることを知った。
「土地の方まで見ているのか?」
「私たちの土地でしょう。管理人へ任せること自体は構いませんが、何を任せているのか分からなくなるのは嫌です」
アメリアは報告書を開いた。
「橋の修理が必要な場所があります。農道にも、雨が続くと荷車が通りにくくなるところが何か所かあります」
「金を出せば直せるのか?」
「直せます。でも全部を同時に直す必要はありません」
「どこから手を付けるつもりなのか?」
「収穫物を運ぶ道を先にします。その次に村同士を結ぶ道です。狩猟用の道は後でも困りません」
エドワードは妻を見た。
「僕なら全部直せと言ったかもしれない」
「あなたなら言うでしょうね」
「金はあるからな」
「使う理由がある場所へ使うなら、私も反対しません。ただ、順番を決めた方が、同じお金でも早く役に立ちます」
アメリアは別の報告書も開いた。
「それから、今年の収穫を運び込む前に倉庫の屋根を直した方がいい場所があります。雨が入れば穀物が傷みます」
「管理人も同じ意見なのか?」
「ええ。ですから、そこは先に修理するよう返事を出しました」
エドワードは妻の顔を見た。
「僕の許可を待たずに決めたのか?」
「この程度の修繕でも、毎回あなたの許可が必要なのですか?」
「僕の土地だぞ」
「私の家でもあります。それに、あなたは海にいました」
そこまで言われると、反論しにくかった。
アメリアは報告書を閉じた。
「エドワード。あなたが海へ行くたびに、家や所領の仕事を全部止めるつもりですか?」
「そこまでは考えていない」
「船はカートライト船長へ任せ、お金はウェッブへ任せるのでしょう。土地には管理人もいます。でしたら、私にもできることがあります」
「君は何をしたいのか?」
「あなたがいない間、この家とハロウデンが止まらないようにしたいのです。私で判断できることまで、あなたの帰りを待つ必要はないでしょう」
エドワードは妻の顔を見た。
アメリアは公爵家の娘として育ち、王宮にも出入りしてきた。舞踏会や晩餐会だけではなく、何十人もの使用人が働き、大勢の客が滞在し、馬と馬車が絶えず出入りする大邸宅の生活を幼いころから知っている。
その経験を、家具や壁紙を選ぶためだけに使うつもりはないらしい。自分が伯爵夫人として暮らす家と所領を、実際に動かそうとしていた。
「分かった。ハロウデンのことは君に任せる」
「どこまで任せるつもりなのですか?」
「大きな支出や方針を変える話は相談してくれ。ただ、橋の板1枚を替えるたびに僕の返事を待つ必要はない」
「それなら助かります」
「ウェッブにも話しておく」
「私からは昨日話しました」
エドワードは思わず笑った。
「僕が決める前に、もう話を進めていたのか」
「あなたは昨日まで海にいたでしょう」
「だから君がいた、というわけか」
「そういうことです」
エドワードが海にいる間も、ハロウデンの仕事は進められることになった。
それから数日後の昼前、使用人が王宮から使者が来たと告げた。
エドワードとアメリアは顔を見合わせた。
「やはり昼まで家にいるのは無理でしたね」
「まだ昼前だ」
「これから王宮へ向かうのでしょう?」
「そうなるだろうな」
「昼までに戻れそうですか?」
エドワードは時計を見てから首を振った。
「そこまでは約束できない」
「では、夕食までには帰ってください」
「努力する」
「それは帰らない人の言い方です」
エドワードは外套を受け取りながら振り返った。
「ハロウデンのことは任せる。ただし、100万ポンドを超える話が出た時は相談してくれ」
「そんな話が毎日あると思っているのですか?」
「僕の家だからな」
「あなたの基準で考えないでください」
エドワードは笑いながら家を出た。




