第3話(前編)「25ポンドでは足りない」 1774年3月1日~3月10日
1774年3月1日。
ロンドンへ来て1か月が過ぎた。
エドワードは朝食を終えると、客室の机に革表紙の帳面を広げた。
そこには、2月の間に知った人物の名前、親族関係、結婚話、借金、土地、交友関係などが書き込まれている。
男爵家の息子であり、レイヴンズクロフト子爵夫人の弟である自分には、普通の商人が入れない場所へ入る資格がある。
夕食を取りながら、貴族や地主、政治家の話を聞ける。
問題は、それをどうやって金へ変えるかだった。
机の引き出しには25ポンドがある。
1月には大金に思えた。
今は違う。
父が抱えている借金は約1万5,000ポンドである。
25ポンドを2倍にして50ポンドにしても、ほとんど何も変わらない。
エドワードは帳面を閉じた。
考えているだけでは金は増えない。
まず、自分が持っている情報に本当に値段が付くのか確かめることにした。
◇ ◇ ◇
その日の午前、エドワードはフリート街へ向かった。
3月に入ったとはいえ、風はまだ冷たい。前日の雨で道はぬかるみ、馬車が通るたびに泥水が跳ねた。
フリート街には本屋や印刷所が並んでいる。
紙を積んだ荷車、刷り上がった新聞を運ぶ少年、インクで指を黒くした職人が絶えず行き交っていた。
エドワードは小さな印刷所へ入った。
中では印刷機が動き、木と金属がぶつかる音が続いている。紙とインクの匂いが室内にこもっていた。
帳場にいた40歳ほどの男が顔を上げた。
「何をお求めです?」
「買うのではありません。新聞に載せる話を買うことはありますか」
男はエドワードの服装を見た。
「どんな話でしょう」
「社交界の話です」
「誰の?」
エドワードは、ある地主の娘の婚約が破談になったという話をした。
同じ内容を別々の場所で3人から聞いている。そのうち1人は娘の家族と親しい。
男は最後まで聞いた。
「理由は?」
「分かりません」
「相手の男に借金でも?」
「それも分かりません」
「女がいたとか」
「知りません」
男は笑った。
「面白いところがありませんな」
「分からないことまで付け加えれば、嘘になるでしょう」
「新聞を買う人間は、破談になった事実だけより、なぜ破談になったかを読みたがります」
「僕が持っているのは事実だけです」
「では1シリング」
エドワードは聞き返した。
「1シリングですか」
「そうです」
25ポンドは500シリングである。
つまり同じ程度の情報を500件売って、ようやく今持っている25ポンドと同額になる。
1万5,000ポンドなら30万件だった。
エドワードは帳場の男を見た。
「やめます」
「売らない?」
「1シリングなら持って帰ります」
男は肩をすくめた。
「お好きに」
エドワードは印刷所を出た。
外へ出ると、冷たい風が顔に当たった。
情報が売れないわけではない。
だが、売り方が小さすぎる。
自分が1シリングを稼いでいる間にも、父の借金には利息が付いている。
情報を1件ずつ売っていては間に合わない。
もっと大きな金が動く場所で使わなければならない。
◇ ◇ ◇
3月3日、ハートフォードシャーから母アンの手紙が届いた。
エドワードは客室で封を切った。
家族は皆元気だと書いてある。
妹エリザベスは兄からの土産をまだ期待しているらしい。
その後に父のことが書かれていた。
ロンドンから来たブラッドリーとの話はまだ続いている。
今すぐグレイミア館を失うわけではないが、借金をこれ以上増やさないため、父は領地の一部を手放すことまで考え始めたという。
母は最後に書いていた。
「あなたが心配することではありません。お父様も私も、まだ何も決めていません。ロンドンで多くのものを見てきなさい」
エドワードは手紙を机に置いた。
心配するなと言われて、心配しないわけにはいかなかった。
領地を売れば、その年はしのげる。
しかし翌年から、その土地が生んでいた収入もなくなる。
借金を返すために収入源を売れば、家はさらに弱くなる。
エドワードは引き出しを開けた。
革袋を取り出す。
25ポンド。
これを50ポンドにする。
その次は100ポンド。
1月には、それでいいと思っていた。
今は遅すぎると感じた。
「間に合わない」
誰に聞かせるでもなく口にした。
25ポンドを少しずつ増やしている間に、父は土地を売る。
その次には何を売るのか。
別の土地か。
馬か。
銀器か。
最後に残るのは屋敷と爵位だけになる。
エドワードは革袋を握った。
これまで考えていた方法では駄目だった。
25ポンドを50ポンドにするのではない。
一度に桁を変える必要がある。
その代わり、失う危険も大きくなる。
それでもやるしかなかった。
◇ ◇ ◇
3月5日の夜、エドワードは姉夫婦とともにウェストベリー伯爵邸の夕食会へ出席した。
屋敷はレイヴンズクロフト邸より大きく、玄関には何台もの馬車が並んでいた。
食堂には多数の蝋燭が灯り、磨かれた銀器が光を返している。焼いた牛肉、鶏、魚、温かなパンが次々に運ばれ、ワインも惜しげなく注がれていた。
招待客の中には議員、軍人、地主、東インド会社に関係する商人もいた。
エドワードは隣の席に座った男性と話しながら、向かい側にいる女性が何度か自分を見ていることに気付いた。
ウェストベリー伯爵夫人シャーロット・ハーコートだった。
32歳で、夫との間に11歳の長男と8歳の次男がいる。
食事が始まる前、キャサリンから聞いていた。
「シャーロット夫人には気を付けなさいね」
「何にです?」
「本人の前で聞かないでよ」
「聞きません」
キャサリンは弟へ顔を寄せた。
「伯爵家には跡取りも、その次の息子もいるでしょう。だから伯爵は、夫人が誰と親しくしているかにはあまり口を出さないの」
「寛大ですね」
「新聞に名前が載らなければ、という条件付きよ。伯爵が嫌うのは妻の交友より、家名が笑われることなの」
「夫人にも相手を選ぶ自由があると?」
「自由という言葉を使うかどうかは知らないけれど、そういう夫婦はロンドンにいるわ」
エドワードはそれ以上聞かなかった。
食事が終わった後、客たちはいくつかの部屋へ分かれた。
エドワードが暖炉の近くで新聞を眺めていると、シャーロットが近づいてきた。
「先ほどから、ずいぶん難しい顔をしているのね」
エドワードは新聞を畳んだ。
「そう見えますか」
「17歳の男性が夕食会で新聞の株価を見ていれば、少なくとも楽しんでいるようには見えないわ」
「株価を見ていると分かりましたか」
「私も持っていますもの」
「何をです?」
「東インド会社株を少し」
エドワードは新聞を開き直した。
「今は160前後ですね」
シャーロットが笑った。
「本当に見ていたのね」
「数字が好きなんです」
「お金が好きなのでは?」
「同じようなものではありませんか」
「違うわ。数字が好きな人は眺めて満足できるけれど、お金が好きな人は増やそうとするもの」
エドワードは夫人を見た。
「では僕は後者です」
「どうしてそんなにお金が欲しいの?」
「使い道があります」
「女性?」
「もっと高くつくものです」
「それは残念」
シャーロットは笑った。
エドワードも笑ったが、答えなかった。
夫人は彼の沈黙を嫌がらなかった。
「秘密なのね」
「誰にでも話すことではありません」
「では聞かないわ。その代わり、いつか私に教えたくなったら聞いてあげる」
シャーロットは去った。
その後ろ姿を見送りながら、エドワードはキャサリンの忠告を思い出した。
自分に興味を持っている。
それは分かった。
嫌ではなかった。
むしろ、かなり魅力的な女性だと思った。
ただし今のエドワードにとって、女性も金と同じだった。
近づけば得るものがあるかもしれない。
同時に、扱いを誤れば失うものもある。
◇ ◇ ◇
3月8日、レイヴンズクロフト邸へシャーロットが訪ねてきた。
目的はキャサリンとの昼食だった。
食事の後、キャサリンが別の客と話している間、エドワードは窓際で新聞を読んでいた。
シャーロットが隣へ来た。
「今日も株価?」
「今日は政治です」
「つまらないわね」
「夫人は株を持っていると言ったでしょう」
「持っていた、が正しいわ」
エドワードは新聞から顔を上げた。
「売ったのですか」
「ええ」
「全部?」
「東インド会社株は全部」
「なぜ?」
シャーロットはすぐに答えなかった。
「あなたなら、理由を聞いてどうするの?」
「理由によります」
「売る?」
「僕は持っていません」
「では意味がないでしょう」
「値下がりするなら、持っていなくても使い道はあるかもしれません」
シャーロットの表情が変わった。
「そんなことまで考えているのね」
「25ポンドしかないからです」
「25ポンド?」
エドワードは言ってから、少し話しすぎたと思った。
「自由に使える金です」
「それで何をしようとしているの?」
「探しているところです」
「昨日までなら、まだ決めていないと答えたでしょうね」
「少し進歩しました」
シャーロットは笑った。
「東インド会社株を売った理由を知りたい?」
「知りたいです」
「では、教えた後に何をするか見せてちょうだい」
「見世物ですか」
「少しはね」
夫人はエドワードの外套の袖へ指先を触れた。
ごく短い接触だった。
「ただ聞くだけの男性なら、ロンドンにはいくらでもいるもの」
エドワードはその手を見た後、夫人へ視線を戻した。
「聞いた後で逃げるかもしれません」
「それなら、それまでの男だったというだけでしょう」
挑発だと分かった。
金についても、自分自身についても試されている。
だが、家では父が領地を売ろうとしている。
臆病である余裕はなかった。
「聞かせてください」
シャーロットは満足そうに笑った。
「11日に、もう一度ここへ来るわ。その時にね」




