第2話(後編)「売られる秘密」 1774年2月21日~2月28日
2月21日。
ロンドンへ来て3週間が過ぎた。
エドワードの帳面には、最初のころより多くの文字が並んでいた。金額だけではなく、人の名前や交友関係、夕食会などで聞いた話も書いてある。
ただし、聞いた噂を何でも書き写していたわけではない。
別々の場所で同じ話を聞いた時には印を付けた。
1人だけが話していることなのか、それとも何人もの人間が別々に同じことを言っているのかを区別するためだった。
夕食会の噂が新聞の記事になるのを見てから、エドワードは情報の流れそのものに興味を持つようになっていた。
その日の午後、姉夫婦の屋敷には数人の客が訪れた。
エドワードも居間にいた。
紅茶と菓子が運ばれ、窓の外は曇っていたが、暖炉の近くは上着を着たままでは暑いほどだった。
客の1人が劇場の話を始めた。
「昨夜は大変だったそうですよ」
キャサリンが尋ねた。
「何があったの?」
「ある有名な方が、若い女優を巡って客席で口論したそうです」
「誰?」
「それは言えません」
そう答えながら、その客は続きを話したくて仕方がない顔をしていた。
別の客が笑った。
「言えない話を持ってきて、そこで止める人がありますか」
結局、本人の名前こそ出なかったが、爵位や年齢、最近よく姿を見せる場所などが次々と語られた。
キャサリンたちは途中で誰のことか分かったらしい。
エドワードには分からなかった。
まだロンドンの上流社会で、誰と誰が親戚なのか、誰がどの家と親しく、どの劇場やクラブへ出入りしているのかを十分に知らないからだ。
そこでエドワードは、噂そのものを聞くだけでは足りないことに気付いた。
人物同士の関係を知っていなければ、名前を伏せられた話を聞いても意味が分からない。
つまり値段が付くのは出来事だけではない。
その出来事を正しく読み解くための知識にも価値がある。
その日の夜、エドワードは帳面を開き、これまで会った人間の名前の横へ、家族関係や親しくしている人物を書き加えていった。
◇ ◇ ◇
2月23日、エドワードは1人で街へ出た。
姉夫婦の屋敷から歩いて行ける範囲を見て回っていると、本屋の窓に目が止まった。
新刊書、詩集、政治論、説教集などと一緒に、薄い小冊子が何冊も並んでいる。
エドワードは店へ入った。
紙とインクの匂いが濃かった。壁際の棚には本が隙間なく並び、奥では店員が売れた本を紙で包んでいる。
エドワードは小冊子を何冊か手に取った。
政治家を皮肉ったものもあれば、ロンドンの風俗について書いたものもある。上流社会の男女関係を面白おかしく扱ったものまであった。
父の書斎に並ぶ厚い本とは、内容も作りもまるで違う。
それでも客は次々に手に取っていた。
エドワードは値段を確かめた。
1部だけなら大した額ではない。
だが同じ冊子を500人、1,000人が買えば、売上はまるで違ってくる。
エドワードは店員に尋ねた。
「こういう冊子は売れるのですか」
店員はエドワードの持っている冊子を見た。
「ものによります」
「何が一番売れます?」
「今なら政治ものも売れますが、誰か有名人の騒ぎがあると、それを扱ったものは早いですね」
「本当の話でなくても?」
店員は笑った。
「私は売る側ですから、書いた人に聞いてください」
エドワードはその答えに納得した。
「では、売れるかどうかだけ教えてください」
「面白ければ売れます」
「正しければ、ではなく?」
「正しいだけの本が全部売れるなら、本屋は苦労しません」
エドワードは小冊子を2冊買った。
店を出た後も、その言葉が頭に残った。
正しい情報と、売れる情報は同じではないらしい。
しかし、面白ければ嘘でも構わないというやり方には疑問が残った。
嘘を何度も売れば、読者に信用されなくなるのではないか。
まだ答えは出なかった。
◇ ◇ ◇
2月25日の夜、レイヴンズクロフト邸では再び客を招いた夕食会が開かれた。
ロンドンへ来たばかりのころと違い、エドワードも客の顔や名前がある程度分かるようになっていた。
食事の途中、ある若い貴族の借金が話題になった。
エドワードもその話を知っていた。
数日前、別の場所で聞いたからだ。
しかし金額が違っていた。
最初に聞いた時には800ポンドだった。
今夜は1,200ポンドだと言う。
さらに別の客は1,500ポンドだと言い始めた。
エドワードは話へ加わった。
「最初はいくらだったのです?」
話していた男がエドワードを見た。
「何が?」
「借金です。800ポンドという話も聞きました」
「誰から?」
エドワードは答えた。
「それは言えません」
周囲から笑いが起きた。
「ロンドンを覚えてきたじゃないか」
そう言われ、エドワードも笑った。
だが頭の中では別のことを考えていた。
800ポンドだったはずの借金が、話す人間によって1,200ポンドになり、さらに1,500ポンドまで増えている。
誰かが途中で数字を膨らませたのかもしれない。
反対に、800ポンドという最初の情報が間違っていた可能性もある。
噂を商品にできるとしても、聞いた話をそのまま売るだけでは危ない。
本当の金額が800ポンドなのに1,500ポンドと書けば、それは情報ではなく嘘になる。
少なくとも、自分が金を取って売るのなら、どこまで確かな話なのか調べる必要がある。
エドワードは、そう考えるようになっていた。
◇ ◇ ◇
2月27日。
エドワードは姉と朝食を取っていた。
ヘンリーは朝から外出しており、食堂には姉弟だけだった。
キャサリンは紅茶を飲みながら弟を見た。
「あなた、最近ずっと何か書いているでしょう」
エドワードは尋ねた。
「見ていたのですか」
「同じ家に住んでいれば分かるわ」
「気になったことを帳面に書いているだけです」
「どんなこと?」
エドワードは少し迷ったが、隠すほどのことでもなかった。
「誰が誰と知り合いなのか。どんな噂がどこから来たのか。同じ話を何人から聞いたのか。そんなことです」
キャサリンは怪訝な顔をした。
「何のために?」
「まだ分かりません」
「またそれ?」
「本当に分からないのです」
エドワードはパンを皿へ置いた。
「でも、姉上たちは毎日のように人の話をしています。新聞にも同じような話が載っています。本屋へ行けば、その話をもっと詳しく書いた冊子まで売っています」
「それで?」
「同じ秘密を、ある人は無料で話して、ある人は紙に印刷して金を取っている。それが不思議なのです」
キャサリンは少し考えた。
「あなたも売りたいの?」
「売れるものなら」
「誰の秘密を?」
「それはまだ持っていません」
キャサリンは笑った。
「変な弟ね」
「姉上がロンドンへ呼んだのです」
「私のせいにしないで」
エドワードも笑った。
だが考えていることは冗談ではなかった。
◇ ◇ ◇
2月28日。
ロンドンへ来て1か月が終わった。
夜、エドワードは客室で帳面を開いた。
25ポンドはほとんど減っていない。新聞や小冊子を買うために多少使っただけで、食事や住まいに必要な金は姉夫婦が負担してくれている。
それ以上に、この1か月で自分が持っているものを初めて理解し始めていた。
グレイミア家には土地がある。父には男爵位がある。商人なら売る商品を持ち、職人なら自分の技術で金を稼ぐ。
では、自分には何があるのか。
エドワードはロンドンで出会った人々を思い返した。
自分はグレイミア男爵の息子だから、普通なら招かれない上流階級の屋敷へ入ることができる。さらにレイヴンズクロフト子爵夫人の弟という立場があるため、夕食会や社交の場でも不審がられない。
そこで貴族や地主、政治家、その家族についての話を聞くことができる。
1月までは、それを単なる家柄だと思っていた。
今は違った。
自分が生まれながらに持っている上流社会への入口そのものが、資本になる可能性がある。
ただし、それを金へ換える方法はまだ知らない。
エドワードは帳面を開き、これまで聞いた噂の中から、別々の人間が同じ内容を話していたものを読み返した。
次に考えたのは、誰がその情報を欲しがるのかということだった。
上流階級の人間へ売っても仕方がない。彼らは夕食会や舞踏会で、自分たちから同じ話をしている。
金を払ってでも欲しがるのは、その世界へ入れない人間のはずだった。
貴族の夕食会へ招かれない人、舞踏会へ出席できない人、上流階級の友人を持たない人でも、そこで何が起きているのか知りたがる。
だから新聞や小冊子が売れている。
エドワードはここへ来て、ようやく自分の25ポンドとは別の財産に気付いた。
金持ちでなくても、自分は金持ちしか入れない場所へ入れる。
普通の商人が大金を払っても手に入れられない話を、夕食を食べながら聞くことさえできる。
その情報を正しく確かめ、それを欲しがる相手へ届けることができれば、商品になるかもしれない。
エドワードは帳面を閉じた。
自分が最初に売れるものが、ようやく見えてきた。
土地や品物ではない。
グレイミア男爵家の息子として、自分だけが出入りできる世界で得た情報だった。




