第2話(中編)「子爵夫人の弟」 1774年2月11日~2月20日
ロンドンへ来て10日ほどたつと、エドワードは姉夫婦の暮らしにも慣れてきた。
午前中はヘンリーに連れられて町へ出ることがあり、午後になるとキャサリンを訪ねる客が屋敷へ来た。夜になれば夫妻が別の屋敷へ招かれる日もあれば、自宅へ客を招いて夕食会を開く日もある。
エドワードも何度か同席した。
そこで初めて、自分が単なる17歳の少年ではなく、グレイミア男爵家の跡取りであり、レイヴンズクロフト子爵夫人の弟として見られていることを実感した。
初対面の相手でも、キャサリンが弟を紹介すると態度が変わった。
「弟のエドワードです」
父の爵位を知る者は丁寧に話しかけ、ヘンリーと親しい者なら、初対面でもエドワードを仲間に近い者として扱った。
エドワード自身には、まだ何の実績もない。自由に使える金も25ポンドしかなかった。
それでも家名と親族関係だけで、普通なら入れない屋敷の扉が開く。
父が以前、世の中を動かすのは数字だけではなく人だと言った意味を、エドワードは別の形で理解し始めていた。
◇ ◇ ◇
2月12日の夜、レイヴンズクロフト邸では十数人を招いた夕食会が開かれた。
食堂には多くの蝋燭が灯され、銀器が暖かな光を反射していた。暖炉の火と大勢の客の体温で室内は暖まり、窓ガラスには薄く曇りが出ている。
肉料理や魚、野菜、菓子が順に運ばれ、ワインも絶えず注がれた。使用人たちは皿を下げ、次の料理を運び、客の杯が空けば酒を足していく。
エドワードは姉から離れた席に座った。
隣には30代ほどの地主がおり、向かいには軍人らしい男がいる。その先にも政治家や貴族の親族らしい客がいたが、エドワードはまだ全員の顔と身分を知らなかった。
事情を知らない相手の前で知ったふうに話すより、聞く方がいい。
最初は天候や狩猟についての話が続いた。
ところが酒が進むと、話題は人間の方へ移った。
向かいに座る男が口を開いた。
「ウェストン家の娘の婚約は破談になったそうだ」
隣の地主が尋ねた。
「相手は誰だった?」
「バークリー家の次男だ」
「何をした?」
「何をしたというより、借金が見つかったらしい。父親が隠していた額よりずっと多かったそうだ」
別の客が口を挟んだ。
「娘の持参金を当てにしていたんだろう」
「向こうの父親が気付いたということか」
「そういう話だ」
そこから話題は、その場にいない青年が抱えている借金の額へ移った。
2,000ポンドだと言う者もいれば、3,000ポンドを超えていると言う者もいる。
誰も本人の帳簿を見たわけではない。
それでも、全員が金額を知りたがった。
エドワードは料理を食べながら耳を傾けた。
しばらくすると、今度は既婚の伯爵夫人が若い将校と劇場で何度も一緒にいるという話になった。
「夫は何をしている?」
1人が尋ねると、別の客が答えた。
「自分も女優を囲っているそうだ」
「それなら文句は言えんだろう」
「新聞に名前を書かれれば話は別だ」
食卓に笑いが起きた。
エドワードは1月に近隣の地主宅で聞いた会話を思い出した。
地方でもロンドンでも、人が好む話は大きく変わらない。
違うのは、ここで噂される人物の爵位が高く、借金や持参金として動く金額も大きいことだった。
その後も国会議員の賭博、ある男爵家の抵当、舞台女優の新しい愛人など、次々と話題が変わった。
夕食が終わるころには、エドワードの頭の中に十数件の話が残っていた。
◇ ◇ ◇
客が帰った後、キャサリンは居間の長椅子に腰を下ろしていた。
エドワードが水を飲んでいると、姉が尋ねた。
「今日はずいぶんおとなしかったわね」
「話すことがなかったので」
「嘘ね。あなたは聞いていたのよ」
エドワードは姉を見た。
「分かりましたか」
「昔からそうでしょう。何か知りたい時は、急に口数が減るもの」
ヘンリーも酒杯を持って居間へ入ってきた。
「何を知りたかったんだ?」
エドワードは答えた。
「皆が、どんな話をするのかです」
「くだらない話ばかりだっただろう」
「皆、楽しそうでした」
ヘンリーは椅子へ座った。
「他人の失敗ほど酒に合うものはない」
エドワードは尋ねた。
「今夜の話は、明日には別の家でも話されますか」
キャサリンが答えた。
「もう話されていると思うわ。あの人たちも、ここへ来る前にどこかで聞いたのでしょうから」
「では、誰が最初に言ったのか分からない?」
「たいていはね」
「間違っていることもありますか」
ヘンリーが答えた。
「もちろんある。ロンドンでは、事実より面白い話の方が遠くまで走る」
「間違っていたら?」
「言った本人は、私は人から聞いただけだと言う」
エドワードは少し考えた。
「便利ですね」
ヘンリーが尋ねた。
「何が?」
「誰も責任を取らなくていい」
ヘンリーは義弟を見た。
「君は17歳にしては嫌なところを見るな」
「父上にも似たことを言われました」
キャサリンが尋ねた。
「何を考えているの?」
エドワードは答えなかった。
まだ考えがまとまっていなかったからだ。
ただ、噂がどう動くかは少し分かってきた。
誰かが話したことを別の人間が聞き、その人間がさらに別の相手へ話す。そうして噂は、金をかけなくても人から人へ運ばれていく。
しかも嘘や誇張まで同じように運ばれる。
人が面白がって広めるほど、最初の話とは違うものになる可能性もある。
もし噂を金に換えるなら、そこを考えなければならなかった。
◇ ◇ ◇
2月15日、エドワードはキャサリンと馬車で町へ出た。
姉には仕立屋へ行く用があり、エドワードは同行しただけだった。
通りでは新聞売りが声を張り上げていた。
店先にも新聞や小冊子が並び、多くの人が足を止めている。
エドワードは馬車を降りると、そのうち1部を手に取った。
政治、海外情勢、裁判、犯罪、社交界まで、さまざまな記事が詰め込まれている。
値段を確かめてから購入した。
キャサリンが振り返った。
「新聞なら家にもあるでしょう」
エドワードは答えた。
「これは違うものです」
「何が違うの?」
「まだ分かりません」
エドワードは紙面を開いた。
読み進めるうちに、前夜の夕食会で話題になった人物と同じではないかと思われる記事を見つけた。
名前は書かれていない。
ある高貴な夫人と、ある若い将校の親しい関係について書かれていた。
別の記事には、著名な家の跡取りが多額の借金を抱えているとある。
事情を知る者なら、名前がなくても誰のことか推測できる書き方だった。
そこでエドワードは、夕食会で聞いた噂と印刷物が初めてはっきりつながった。
上流社会の人々が屋敷や劇場で話した噂を、誰かが文章にする。それを印刷業者が大量に刷り、同じ社交界へ入ることのできない人間まで金を払って読む。
噂は、口から口へ伝わるだけではなかった。
紙に載せれば商品になる。
キャサリンから声をかけられるまで、エドワードは記事を読み続けていた。
「エドワード。置いていくわよ」
「今行きます」
エドワードは新聞を折り、外套の内側へ入れた。
25ポンドを50ポンドにする具体的な方法は、まだ見つかっていない。
しかし、金になるものが土地や品物だけではないことは分かってきた。




