第2話(前編)「ロンドンへ」 1774年2月1日~2月10日
1774年2月1日。
エドワードは朝早くグレイミア館を出発した。
前夜まで降っていた雪は止んでいたが、街道の両側には白い雪が残っていた。雲の切れ間から弱い朝日が差しているものの、空気は冷え切っている。馬が息を吐くたび、白い蒸気が鼻先から広がった。
玄関前まで見送りに出た母アンは、息子の外套の襟元を直してから言った。
「ロンドンに着いたら、キャサリンの家から私に手紙を書きなさい」
エドワードは答えた。
「分かりました。着いた日のうちに書きます」
「無事に着いたと分かれば、それでいいのよ」
妹エリザベスは、兄の革鞄を見ながら言った。
「お土産を忘れないでね」
エドワードは尋ねた。
「何が欲しい?」
「ロンドンにしかないもの」
「それでは何を買えばいいのか分からない」
「だから、お兄様が考えるのよ」
母が笑った。
父リチャードは玄関の内側に立っていた。
「ヘンリーに迷惑をかけるな。それから、田舎者のように何でも珍しがるなよ」
エドワードは父を見た。
「父上は最初にロンドンへ行った時、珍しくなかったのですか」
「珍しかった」
「では僕も同じでしょう」
父は言い返さなかった。
「行ってこい」
エドワードは家族に別れを告げ、馬車へ乗り込んだ。
御者が手綱を振ると馬が歩き出し、車輪が凍った砂利を踏んだ。
エドワードは窓からグレイミア館を振り返った。
雪の中に立つ屋敷は、離れるほど立派に見えた。西翼棟の部屋が閉ざされ、使用人への給金が遅れ、町の肉屋や石炭商への支払いまで滞っていることなど、外から眺めただけでは分からない。
見栄えだけなら裕福な男爵家だった。
エドワードは外套の内側に入れてある革袋へ手を触れた。
25ポンド。
それが自分で自由に使える金のすべてだった。
今回は姉夫婦の家に滞在するので宿代はいらない。父が往復の旅費も出しているため、25ポンドを旅費として切り崩す必要もなかった。
エドワードは、そのことをありがたいと思った。
今の自分にとって1ポンドは大きい。使わずに済む金は、そのまま次の機会に使える。
◇ ◇ ◇
ハートフォードシャーから南へ進み、ロンドンへ近づくにつれて、街道を行き交う人と荷物が目に見えて増えていった。
それまで畑や牧草地が続いていた景色の中へ、家並みや工房、宿屋が入り込んでくる。石炭を積んだ荷車、樽を運ぶ荷馬車、旅客を乗せた駅馬車が同じ街道を走り、車輪が雪解けの泥を跳ね上げていた。
空気の匂いも変わった。
湿った土や枯草の匂いに代わって、石炭の煙、馬糞、焼いたパンや肉の匂いが強くなっていく。
ロンドンへ入ると、その変化はさらに激しくなった。
道には馬車が連なり、御者の怒鳴り声と馬の蹄の音が絶えない。商人が店先で客を呼び、物売りが通りを歩きながら声を張り上げている。道端には泥水がたまり、人の靴と馬車の車輪が絶えずそこをかき回していた。
エドワードは馬車の窓から外を見続けた。
田舎の町とは人の数がまるで違う。
上等な馬車から絹の服を着た男女が降りる。そのすぐ横では、粗末な服を着た男が大きな荷物を背負って泥の中を歩いている。
店の窓には銀器、時計、布地、書物、靴、菓子などが所狭しと並び、買い物客が絶えず出入りしていた。
商品が動き、人が動き、そのたびに金も動いている。
毎日どれほどの金がこの町を行き交っているのか、エドワードには想像もできなかった。
グレイミア家の領地から入る年間収入は約1,500ポンドである。それだけあれば田舎では十分に裕福な暮らしができるはずだった。
しかしロンドンの往来を見ていると、その1,500ポンドさえ、この町全体で動いている金の中では大きな額ではないように思えてきた。
午後、馬車はレイヴンズクロフト子爵夫妻のロンドン邸へ到着した。
屋敷そのものはグレイミア館ほど大きくない。
だが玄関前には磨かれた馬車があり、それを扱う使用人の服にも傷みがない。屋敷へ入れば暖炉には十分な火が入り、昼間でも薄暗い廊下には蝋燭が惜しげなく灯されていた。
屋敷の大きさでは実家が勝る。
暮らしの余裕では、明らかにこちらが上だった。
「エドワード」
階段を下りてきた姉キャサリンが弟を見つけた。
20歳になった姉は、結婚前より落ち着いた服装をしていた。だが弟を見ると、子供のころと変わらない笑顔を見せた。
「やっと来たのね」
エドワードは答えた。
「姉上が来いと言ったので」
「そんな言い方をするなら帰ってもいいのよ」
「今着いたばかりです」
キャサリンは弟の顔を確かめるように見た。
「少し大人になった?」
「1月に17歳になりましたから」
「17歳で大人なら、私はもう老婆ね」
その後ろから夫のヘンリー・グレイが姿を見せた。
第3代レイヴンズクロフト子爵で、25歳になる。キャサリンと結婚して2年になるため、エドワードともすでに何度も顔を合わせていた。
「ようこそ、エドワード」
ヘンリーは義弟へ手を差し出した。
「ありがとうございます。しばらくお世話になります」
「遠慮する必要はない。キャサリンが君を呼んだのは、私が留守の時に話し相手が欲しいからだ」
キャサリンが夫を見た。
「あなたよりエドワードの方が話を聞いてくれるもの」
「それはまだ世間を知らないからだ。あと5年もすれば妻の話を聞かなくなる」
「あなたは結婚して2年で聞かなくなったわ」
エドワードは2人のやり取りを聞きながら笑った。
姉夫婦の仲は悪くない。
実家の財政問題とは別に、姉がこの家で穏やかに暮らしていることには安心した。
◇ ◇ ◇
その晩、3人は屋敷で夕食を取った。
食卓には牛肉のロースト、温かなスープ、根菜、焼きたてのパンが並んだ。牛肉は厚く切られ、ナイフを入れると中から肉汁が流れた。湯気の立つスープからは肉と香草の匂いが上がっている。
エドワードは実家の食卓を思い出した。
同じ貴族でも、家計の余裕は日々の食事や使用人の様子に表れる。
ヘンリーがワインを飲みながら尋ねた。
「グレイミアはどうだ」
エドワードは答えた。
「雪が多いです」
ヘンリーは首を振った。
「屋敷ではなく、お父上のことだ」
エドワードは姉を見た。
キャサリンも夫へ目を向けている。
2人が実家の借金について、どこまで知っているのかは分からなかった。父から聞いていないことを、自分から話す必要もない。
「元気です」
ヘンリーはそれ以上追及しなかった。
代わりに尋ねた。
「それで、ロンドンでは何をするつもりなんだ?」
「まだ決めていません。まず見たいと思っています」
「何を?」
「ロンドンをです」
ヘンリーが笑った。
「ずいぶん大きなものを選んだな」
エドワードは姉へ目を向けた。
「姉上の手紙には、毎晩のように誰かが何かをしでかしていると書いてありました」
キャサリンはパンへバターを塗りながら答えた。
「本当よ。誰かが結婚して、誰かが婚約を破って、誰かが借金を作って、誰かが夫や妻以外の相手と騒ぎを起こすの。次の日には皆がその話をしているわ」
エドワードは尋ねた。
「どうして、そんなに早く広がるのです?」
「人が話すからでしょう」
「誰から聞くのです?」
「友人から聞くこともあるし、使用人から聞くこともあるわ。劇場や舞踏会で本人たちを見たという人もいるし、新聞や雑誌に書かれることもある」
エドワードはその答えを覚えておいた。
ヘンリーが義弟を見た。
「まさかロンドンへ来て、噂話の勉強をするつもりではないだろうな」
エドワードは答えた。
「まだ分かりません」
キャサリンが笑った。
「その顔は何か考えている時の顔よ」
「姉上は僕の顔を見過ぎです」
「17年見ているもの」
夕食が終わった後、エドワードは客室へ戻った。
暖炉には十分な石炭が入っており、外套を脱いでも寒くなかった。赤く燃える石炭から熱が伝わり、部屋には暖かな空気が満ちている。
エドワードは荷物から革表紙の帳面を取り出した。
今日見たロンドンについて書き始めた。
田舎よりはるかに多くの人間が暮らし、数え切れないほどの商品が売られ、その間を大量の金が動いている。さらに、金や物だけではなく、人から人へ噂も絶えず動いている。
そこまで書くと、ペンを置いた。
まだ何も分かっていない。
この町で金がどのように生まれ、どこへ集まるのか。
明日から、自分の目で確かめるつもりだった。




