第1話(後編)「紳士の値段」 1774年1月21日~1月31日
1月21日。
朝の空気は刺すように冷たかった。
雲は低く、雪の残る地面から湿った冷気が立ち上っている。
エドワードは外套の襟を上げ、厩舎へ向かった。
扉を開けると、外とは違う温かな空気が肌に触れた。同時に干し草、馬の汗、革、糞の匂いが鼻へ入る。馬が鼻を鳴らし、蹄で床をかく音が響いていた。
厩舎には3頭の乗用馬と馬車用の馬がいた。かつてはもっと多かった。
厩務員のウィリアムが飼葉を量っていた。
エドワードは桶の中を見た。
「少なくないか?」
ウィリアムは手を止めた。
「何がでございます?」
エドワードは飼葉を指した。
「飼葉だ」
ウィリアムは答えた。
「冬ですから」
エドワードは聞き返した。
「冬だから馬は食べなくなるのか?」
ウィリアムは真顔で答えた。
「そのような便利な馬がおりましたら、ぜひ買っていただきたいものです」
エドワードは笑った。
だがすぐに聞いた。
「金がないのか」
ウィリアムの顔から笑いが消えた。
「私から申し上げることではございません」
エドワードはさらに尋ねた。
「給金は遅れている?」
ウィリアムは困ったように言った。
「若旦那」
「何か月?」
返事はなかった。
エドワードは続けた。
「2か月?」
ウィリアムは飼葉へ目を戻した。
「3か月?」
少し間を置いて、ウィリアムが答えた。
「皆、グレイミア家には長くお仕えしております」
答えになっていなかった。
だからこそ、答えは分かった。
給金は遅れている。
エドワードはそれ以上聞かなかった。
屋敷へ戻ると、今度は執事に確かめた。
事情を聞くと、料理人や女中、厩務員、庭師など、何人もの使用人への給金が遅れていた。町の肉屋への支払いも残り、石炭商にも未払いがある。
それでも食卓には肉が出る。暖炉には火が入り、客が来れば酒も出す。屋敷の外観も以前とほとんど変わらない。
外から見れば、グレイミア男爵家は昔と同じだった。
エドワードには、それが不思議だった。
執事へ尋ねた。
「なぜ肉屋は売ってくれる?」
執事は答えた。
「グレイミア家だからでございます」
エドワードは眉を寄せた。
「金を払っていないのに?」
「いずれお支払いになると信じております」
エドワードは少し考えた。
「では肉屋は父上に肉を売っているのではなく、グレイミアという名前に売っている?」
執事も少し考えた。
「そうとも申せます」
エドワードは尋ねた。
「それを信用というのか」
執事は答えた。
「左様でございます」
エドワードは、また一つ理解した。
現金がなくても、相手が後で払うと信じている間は物を買える。信用が金の代わりをしているのだ。
ただし、その信用も無限ではない。肉を受け取り続け、いつまでも代金を払わなければ、いずれ誰も品物を渡してくれなくなる。
信用も使えば減る。
金と似ていた。
◇ ◇ ◇
1月23日。
エドワードは父の許可を得て、領地管理の帳簿を正式に見ることになった。
父は明らかに不機嫌だった。
書斎でエドワードを見るなり言った。
「そんなものを見ても面白くないぞ」
エドワードは答えた。
「面白いかどうかは見てから決めます」
父は椅子の背にもたれた。
「若いうちは馬に乗り、銃を撃ち、女を追いかけていればいい」
エドワードは尋ねた。
「父上はそうしたのですか」
父はあっさり答えた。
「した」
エドワードは続けた。
「それで借金が?」
父が顔をしかめた。
「お前は最近、口が悪くなったな」
エドワードは帳簿へ目を落とした。
「数字を見始めただけです」
父は鼻で笑った。
「数字だけで世の中が動くと思うな」
エドワードは顔を上げた。
「では何で動くのです?」
父はすぐに答えた。
「人だ」
その返事は意外だった。
エドワードが黙っていると、父は続けた。
「土地の価値も、人が耕すから生まれる。金も人が信用するから金になる。爵位だって、周囲が価値を認めるから意味がある」
エドワードは思わず言った。
「では父上は分かっているじゃありませんか」
父が眉を寄せた。
「何をだ」
エドワードは少し考えながら答えた。
「この家に必要なのは、土地より金ではなく、金より信用なのかもしれない」
父は黙った。
エドワード自身も、口にしてから考えた。
まだ答えは出ていない。
ただ、現金だけが富ではないことは分かり始めていた。
土地や爵位には価値があり、信用や情報、人脈も使い方によっては金と同じように力を持つ。問題は、その価値が普通の帳簿には書かれていないことだった。
◇ ◇ ◇
数日後、エドワードは父とともに近隣の地主宅で開かれた夕食会へ出席した。
夕方から再び冷え込み、馬車の窓には白い息が曇った。
屋敷へ着くと、玄関には何台もの馬車が並んでいた。中へ入れば暖炉の熱、料理の湯気、蝋燭、香水の匂いが混ざり合っている。
招待客は20人ほどで、地方貴族や地主、牧師、軍人などが集まっていた。
食卓には焼いた肉、鶏、根菜、パン、甘い菓子が並び、酒が何本も開けられた。肉を切るナイフの音と会話が重なり、時折大きな笑い声が上がった。
食事が終わると、男たちは別室へ移った。
暖炉の火は強く、窓は閉め切られていた。酒と煙草、暖炉の煙が混じり、空気は重かった。
そこで始まったのは、堅苦しい政治談議ではなかった。
1人の男が酒杯を持ったまま言った。
「リンドン卿の息子がまた300ポンド負けたそうだ」
別の男が尋ねた。
「競馬か?」
最初の男が答えた。
「カードだ」
向かいにいた地主が笑った。
「まだ貸す奴がいるのか」
別の男が答えた。
「母方の伯父が伯爵だからな。誰かが貸すさ」
さらに別の男が言った。
「金がある家より、親戚が多い家の方が借りやすい」
部屋に笑いが起きた。
エドワードだけは笑わなかった。
耳を澄ませていた。
次に話題になったのは、ある既婚夫人と若い将校だった。
誰かが尋ねた。
「夫は知らんのか?」
別の男が答えた。
「知らないふりをしているんだろう」
さらに別の男が酒を飲みながら言った。
「息子を2人産ませた後なら、どうでもいいんじゃないか」
最後に、笑い声とともに言葉が続いた。
「新聞に載らなければな」
再び笑いが起きた。
エドワードは黙って聞いていた。
その後も劇場女優の愛人関係や国会議員の賭博借金、結婚の噂、抵当に入った領地など、さまざまな話が続いた。誰が誰から金を借り、誰が誰と関係を持ち、誰が誰との結婚を望んでいるのか。酒が進むほど声は大きくなり、話の内容も具体的になっていった。
エドワードは途中で気付いた。
この部屋には、帳簿には書かれていない情報が大量にある。
しかも誰もが、それを面白がっている。
金を払って集めた情報ではない。酒を飲みながら、互いに持っている秘密を交換しているだけだ。
帰りの馬車では、父が向かい側の座席に座っていた。
車輪が凍った街道を踏み、一定の振動が座席まで伝わってくる。窓の外は暗く、ところどころに農家の灯りが見えた。
エドワードは父に尋ねた。
「今夜の話は本当なのですか」
父は目を閉じたまま聞き返した。
「何の話だ」
エドワードは言った。
「リンドン卿の息子の借金」
父は答えた。
「おそらく」
「某夫人と将校は?」
「知らん」
エドワードは続けた。
「新聞に載ったら大騒ぎになる?」
父は眠そうに答えた。
「名前が分かればな」
エドワードは尋ねた。
「なぜ?」
父は目を閉じたまま言った。
「人は他人の秘密が好きだからだ」
エドワードは窓の外へ目を向けた。
しばらくして再び父へ声をかけた。
「父上」
父が答えた。
「何だ」
エドワードは尋ねた。
「そういう話を聞くために金を払う人間はいますか」
父が目を開けた。
「何?」
エドワードは父を見た。
「人は他人の秘密が好きだと言ったでしょう。好きなら金を払うのでは?」
父は呆れたように言った。
「下らんことを考えるな」
そう言って再び目を閉じた。
だがエドワードは考えるのをやめなかった。
肉屋はグレイミア家の信用を信じて肉を渡している。地主は領地を担保に金を借りる。貴族の息子なら、自分に金がなくても親族の爵位や家名を信用されて借金できる。
そして今夜の男たちは、他人の借金や情事、結婚話を何時間も飽きずに語っていた。
それほど人が秘密を欲しがるのなら、その秘密自体にも値段が付くのではないか。
エドワードは暗い窓の外を見ながら、その考えを頭の中で何度も繰り返した。
◇ ◇ ◇
1月31日。
翌朝にはロンドンへ向かうことになっていた。
エドワードは自室で荷物をまとめていた。窓の向こうは暗く、時折風が吹くと枝がガラスをこすった。
机の上には25ポンドが置かれている。
その横には、新しい革表紙の小さな帳面があった。
エドワードは椅子へ座って帳面を開き、最初のページに「1774年」と書いた。その下には、自分がこの1か月で気付いたものとして「金、信用、情報、人」と記した。
この4つがどう結びついているのかは、まだ分からない。
だがロンドンへ行けば、ここよりはるかに多くの人間がいる。大金を持つ者もいれば、多額の借金を抱えた者もいる。貴族や商人だけではなく、女優や娼婦、政治家、軍人まで集まっている。
それぞれが金を使い、信用を使い、情報を持っている。そして、それぞれに他人へ知られたくない秘密があるはずだった。
エドワードは帳面を閉じた。
革表紙の硬い手触りが手のひらに残った。
17歳の1月が終わった。
この時、エドワードが自由にできる金は25ポンドしかなかった。
爵位は父のものであり、領地も屋敷も父のものだった。自分自身のものと呼べるのは、25ポンドと、まだほとんど何も書かれていない1冊の帳面くらいだった。
それでも十分だと、エドワードは思った。
少なくとも何も持っていないわけではない。
明日から、その25ポンドの値段を変えればよかった。




