第3話(前編)「伯爵、また海へ」 1779年7月1日~7月10日
1779年7月1日。
ウェッブの事務所へ入ったエドワードは、机の上に広げられた海図を見て足を止めた。イギリス海峡からビスケー湾までが描かれ、いくつかの地点には印が付いている。その横には船名や出港時期、積荷について集めた情報が並んでいた。
「フランス商船の情報がまとまったのか?」
ウェッブは椅子を勧めた。
「ええ。フランス領西インド諸島から戻る大型商船3隻です。砂糖、コーヒー、藍など、高価な植民地産品をかなり積んでいるようです」
エドワードは椅子へ座らず、そのまま海図を覗き込んだ。
「護衛艦の情報はあるのか?」
「もともとは別の船とまとまって航行していたようですが、現在は3隻だけになっている可能性が高いと見ています。付き添っている軍艦の情報もありません」
「その情報はどこまで確かなんだ?」
「複数の商人と船員から話を集めました。海上保険を扱う者の情報とも一致しております」
ウェッブはボルドー周辺を指した。
「この方面へ入ると見られています。ただし、天候や風向きによって航路が変わる可能性はあります。すでに大西洋を東へ進んでいるなら、今月上旬から中旬にはビスケー湾へ近づくでしょう」
「3隻合わせて、どの程度の価値があるのか?」
「船体まで含めれば20万ポンドを大きく超える可能性があります。積荷が情報どおりなら、それ以上もあり得ます」
エドワードは書類を手に取って目を通した。
「4隻を出す。今日から補給を始めて、7月3日に出航する」
「やはり即決ですな」
「そのために船を準備させていた。商船がこちらの都合に合わせて待ってくれるわけではないからな」
「海へ出れば、予定になかったフランス軍艦と遭遇する可能性もあります」
「戦列艦には近づかない。大きなフリゲートにも無理をしない。小型軍艦なら、こちらの戦力と比べて勝てる場合だけ戦う」
ウェッブはそれ以上止めなかった。
「では、カートライトにも知らせます。ハロウデン・ハウスの工事については、奥様と建築家へ任せるおつもりですか?」
「ああ。僕が現場へ立っても石を積めるわけではない。アメリアの方が家の使い勝手も分かっている」
「問題は、奥様が出航をお認めになるかどうかですな」
エドワードは少し考えてから書類を折り畳んだ。
「そこは僕も気になっている」
◇ ◇ ◇
その日の夕方、エドワードがロンドンの住まいへ戻ると、アメリアは居間にいた。開けた窓から夏の空気が入り、庭の花の香りが室内まで届いている。
アメリアは夫の顔を見るなり、すぐに察したらしい。
「また海へ出るのですね」
「まだ何も言っていないぞ」
「帰ってきた時の顔で分かります。ウェッブさんから良い獲物の話を聞いてきたのでしょう」
「結婚してまだ3か月もたっていないのに、よく分かるな」
「妻ですから」
アメリアは笑ったが、すぐに表情を改めた。
「出航はいつなのですか?」
「7月3日だ。西インド諸島から戻るフランスの大型商船3隻を狙う。こちらからは4隻全部を出す」
「随分急ですね」
「相手はもう動いている。こちらの準備を待ってくれるわけではないからな」
アメリアは夫の説明を聞いた後、しばらく黙っていた。
「私からも、出航する前に話しておきたいことがあります」
エドワードは妻の顔を見た。
「何かあったのか?」
「まだ確かなことではありません。このところ朝に気分が悪くなる日があって、来るはずのものも遅れています。昨日、医師にも診てもらいました」
エドワードは一瞬、言葉の意味をつかめなかった。やがて理解すると、改めて妻の顔を見た。
「子供ができた可能性があるということか?」
「ええ。ただし、医師も今の段階では断言できないそうです。もう少し時間が必要だと言われました」
「昨日のうちに言ってくれればよかったのに」
「昨日のあなたは、夕食中まで石切り場から届いた見積書を読んでいたでしょう。今日話そうと思っていたのです」
エドワードは椅子へ腰を下ろした。
72万ポンドの土地を買う時にも、28万ポンドの邸宅を建てると決めた時にも、これほど考え込んだ覚えはない。
アメリアが向かいに座った。
「この話を聞いて、海へ出るのを取りやめるつもりですか?」
「君がそうしてほしいなら考える」
「私に決めさせないでください。海へ出るのはあなたの仕事です。それに、私が本当に身ごもっているとしても、今のあなたにできることはありません」
「それはそうだが、こんな時に海へ行くのも落ち着かないな」
「私は病気ではありません。代わりに、無茶をしないと約束してください」
「戦列艦には近づかない。大艦隊にも喧嘩を売らない。こちらが明らかに有利な相手としか戦わない」
「その約束を守ってください。それから、帰ってきた日はウェッブさんのところへ行かず、最初に私のところへ来てください」
「分かった。金の計算は翌日にする」
「そこまで我慢することになるのですか?」
「かなりの譲歩だぞ」
アメリアは呆れながらも笑った。
エドワードは妻の手を取った。
まだ確定したわけではない。それでも子供ができている可能性があると聞けば、建設を始めた本邸やハロウデンの土地を見る気持ちも少し変わる。自分とアメリアだけが使うものではなく、次の世代へ残す財産になるかもしれない。
それなら、手元の現金にも十分な余裕を戻しておきたかった。
「それでは行ってくる。できるだけ早く戻る」
「ええ。無事に帰ってきてください。そのうえで取れるものは取ってきてください」
「随分頼もしくなったな」
「止めても行く人を夫にしたのですから、私も慣れるしかありません」
エドワードは笑った。
「任せろ」
◇ ◇ ◇
7月3日。
グレイミア号、ファルコン号、スウィフト号、レゾリュート号の4隻はテムズを下った。
これまで4隻は広い海域へ散らして敵船を探すことが多かったが、今回は最初から狙う相手が分かっている。3隻の商船を逃がさないため、4隻をまとまって動かすことにした。
グレイミア号の船長室にはカートライトのほか、ファルコン号のトマス・リード、スウィフト号のウィリアム・マーサー、レゾリュート号のヘンリー・ウォルシュが集まった。
エドワードは海図を広げ、集めた情報を説明した。
「狙うのは西インド諸島から戻る大型商船3隻だ。積荷は砂糖、コーヒー、藍が中心と見られている。今のところ護衛艦の情報はないが、実際に確認するまでは信用しない」
マーサーが尋ねた。
「軍艦が付いていた場合は、どのようになさいますか?」
「相手を見て決める。戦列艦なら逃げるし、大型艦にも無理はしない。こちらが確実に勝てる小型艦なら、商船ごと取る」
カートライトが頷いた。
「それなら異論はありません」
リードは少し笑った。
「伯爵閣下から『逃げる』という言葉を聞けるとは思いませんでした」
「沈んだ船は金にならない。僕は勇敢さを見せるためではなく、勝って帰るために海へ出ている」
「国王陛下の前でも同じようにおっしゃるのですか?」
「陛下には、英国のために戦ったと申し上げる」
船長たちから笑いが起きた。
「嘘ではないだろう。フランス船を捕れば向こうの金が減り、英国へ金が入る。そのうち8割が僕のところへ来るだけだ」
カートライトが口を挟んだ。
「最後の部分が一番大事なのでしょうな」
「もちろんだ」
エドワードは海図の上へ指を置いた。
「3隻を見つけたら散らさないよう進路を塞ぐ。砲撃する場合も船体を沈めるのではなく、帆と索具を狙って足を止めろ。積荷まで海へ沈めれば、何のために追いかけたのか分からない」
ウォルシュが確認した。
「降伏せず抵抗を続ける場合は、砲撃を続けますか?」
「必要なら撃つ。ただし船腹へ穴を開けすぎるな。最後は乗り込んで取る」
4隻はイギリス海峡を抜け、大西洋へ出た。
夏とはいえ沖へ出れば海は穏やかではない。うねりを受けた船体が上下し、帆綱が風を受けて鳴る。波頭から飛んだ海水が甲板を濡らし、タールと潮の匂いが鼻を突いた。
グレイミア号を中心に4隻は互いの位置を保ち、ビスケー湾へ向かった。
7月8日の朝、見張り台から声が降った。
「西南西、帆3つ!」
甲板の空気が変わった。
カートライトが望遠鏡を受け取り、エドワードも別の望遠鏡を向けた。水平線近くに3本の帆柱が見え、距離が縮まるにつれて船体まで確認できるようになる。
「商船で間違いないか?」
「ええ。しかもかなり大きい船です」
「旗は確認できるか?」
「もう少し近づけば分かります」
4隻が距離を詰めると、先頭の船にフランス国旗が上がった。
エドワードは望遠鏡を下ろした。
「情報どおりだ。3隻とも逃がすな」
先方も英国船団に気付いたらしい。3隻のフランス商船は進路を変え、ほどなく別々の方向へ散り始めた。
すぐに信号旗が上がった。
ファルコン号とスウィフト号が左右へ広がり、レゾリュート号は風下側へ回る。グレイミア号は中央に残った最も大きな商船を追った。
船倉深くまで積荷を積んだ商船は、帆をいっぱいに広げてもグレイミア号ほど速くない。距離は少しずつ縮まり、やがて警告の砲声が海へ響いた。
それでも相手は止まらなかった。
「警告を無視しました。次は帆を狙います」
カートライトの言葉に、エドワードは頷いた。
「そのままやれ。船体はできるだけ傷つけるな」
グレイミア号の舷側から白煙が吹き出し、砲声が海上へ広がった。砲弾は商船の上部を襲い、大きな帆へ穴を開け、索具の一部を切った。
2回目の斉射で前方の帆を支える索具が大きく崩れ、商船の速力が落ちる。グレイミア号はさらに接近した。
相手の甲板には武装した船員たちが集まり、降伏を求める声に対して銃撃が返ってきた。弾丸がグレイミア号の舷側へ当たり、別の弾が甲板の上を抜ける。
エドワードは腰の拳銃を抜いた。
「伯爵閣下、また前へ出るおつもりですか?」
カートライトが声をかけた。
「ここまで追ってきて、僕だけ後ろへ下がる理由があると思うか?」
「船主が撃たれれば、ウェッブが私を責めます」
「その時は、僕が勝手に前へ出たと言っておけ」
「本人が撃たれていては証言してもらえませんからな」
鉤縄が飛び、フランス船の舷側へ掛かった。波で上下する船体が引き寄せられ、やがて木材同士が激しく擦れ合う。
フランス船の甲板で1人の男が銃を構えた。狙われているのは、乗り移る者たちを指揮していたカートライトだった。
エドワードは拳銃を向け、引き金を引いた。
銃声が響き、フランス人の手から銃が落ちる。男は撃たれた腕を押さえて甲板へ倒れ込んだ。
カートライトが振り返った。
「今のは助かりました」
「帰ったら酒を奢れ」
「あなたの方が金持ちでしょう」
「命を助けた礼に財産の差は関係ない」
「その話は帰ってからにしてください!」
英国側の乗組員が一斉に敵船へ乗り移った。
フランス側も抵抗したが、人数が違う。グレイミア号からは銃手も援護しており、次第に押し込まれていった。
エドワードも敵船へ移った。
フランス側の士官が剣を抜いて向かってくる。エドワードは左手に持った2丁目の拳銃を撃ち、士官の手から剣を落とした。
やがてフランス船長が部下へ武器を捨てるよう命じ、戦闘は終わった。
甲板には切れた索具が垂れ、帆には砲弾で開いた穴が残っていたが、船体そのものの損傷は大きくない。
エドワードが船倉へ向かおうとすると、カートライトが止めた。
「積荷を見る前に、敵船員の武装解除と船内の確認を済ませます」
「分かった。そちらを先にしてくれ。終わったら積荷も確認したい」
「承知しました。船主としては、そちらの方が気になるのでしょうな」
「当たり前だ」
午後になると、水平線にファルコン号が姿を現した。その後ろには拿捕されたフランス商船が続いている。
さらに遅れてスウィフト号とレゾリュート号も戻り、それぞれ捕らえた船を伴っていた。
逃げた3隻は、すべて確保されていた。
夕方、4隻の船長がグレイミア号へ集まった。3隻とも沈めず、逃がさず、英国まで曳いて帰れる状態だという報告を受けると、エドワードは満足した。
「積荷も情報どおりだったのか?」
「砂糖、コーヒー、藍がかなりあります。ほかにも積んでいますが、詳しい評価は港へ戻ってからです」
カートライトが答えた。
「それなら十分だ。狙った3隻を、そのまま3隻とも取れた」
「まだ売却したわけではありませんから、値段を決めるのは帰港後です」
「そこは分かっている。ただし、空船を捕まえたわけではない。それだけ分かれば今は十分だ」
この3隻から得られたのは、船体と積荷だけではなかった。船内には航海記録や手紙が残され、捕虜となった船長たちも別の船団について情報を持っていた。
その中に、エドワードが予定していなかった次の獲物があった。




