第2話(前編)「現金なら72万」 1779年6月1日~6月10日
1779年6月1日。
夕食を終えたエドワードは、アメリアへハロウデン所領の話をした。
6月に入り、窓の外にはまだ明るさが残っている。庭から入る空気は暖かく、部屋には夕食に出た肉料理とワインの匂いがわずかに残っていた。
アメリアは夫の説明を遮らずに聞いた。
「52,000エーカーの中に11の村があり、それを一括で売りに出しているのですね」
「ああ。小さな集落まで含めれば、もっと多いらしい。売主は80万ポンド近くを希望しているが、土地を見てから買うかどうか決めるつもりだ」
「あなたなら支払えるのでしょうけれど、80万ポンドという金額を聞くと、さすがに簡単な買い物には思えません」
「僕だって80万ポンドの土地を買うのは初めてだ。状態が悪ければ、その値段で買うつもりもない」
「それを聞いて少し安心しました」
エドワードは、所領の中に現在の所有者が使っている大きな邸宅があることも話した。
「ただ、伯爵家の本邸にするなら、僕は新しい家を造りたいと思っている」
「その話なら、エリザベスから今日手紙が届きました」
予想外の返事に、エドワードは眉を上げた。
「ずいぶん仕事が早いな。何と書いてあったのか?」
「兄が80万ポンド近い土地を買おうとしている。止めても無駄だろうから、新しい家については奥様もきちんと意見を言った方がいい、と書いてありました」
「妹に先を越されたか」
「私はエリザベスの意見に賛成です。そこへ住むのは、あなただけではありませんから」
「僕もそう思った。それで聞きたい。伯爵家の本邸を新しく造るなら、君はどんな家にしたいのか?」
アメリアはすぐには答えず、少し考えた。
「土地も見ていないうちから決めることではありませんが、本邸にするのでしたら、私たち夫婦が暮らすだけの家では足りません。晩餐会や舞踏会を開ける部屋が必要ですし、何日も滞在するお客様のために十分な客室も要ります。使用人の部屋だけでなく、来客の馬や馬車を受け入れる場所まで考える必要があります」
「なるほど。建物だけ大きくすれば済む話ではないわけだな」
「そういうことです」
「なら、最初から必要なものを全部考えておいた方がいい。後になって足りない部屋を継ぎ足していくより、その方が使いやすいだろう」
アメリアは夫の顔を見た。
「ずいぶん素直ですね。てっきり最初に建築費の話をすると思いました」
「金の話は最後まで付いてくる。それなら先に、何が必要なのか決めた方がいい」
「それなら私も遠慮せずに考えます」
エドワードは頷いた。
「国王陛下や王妃陛下がお泊まりになっても困らない家にしたい」
アメリアの表情が少し変わった。
「実際にいらっしゃるかどうかは分かりませんよ」
「来られなくても構わない。ただ、もし来られた時に泊まっていただける部屋がないのは困る。僕は王女のために家を造るのではなく、アメリア・ヘイル伯爵夫人と僕が暮らす家を造るんだ。その家なら、国王夫妻を迎えられるくらいでちょうどいい」
アメリアはしばらく夫を見ていたが、やがて笑みを見せた。
「それなら、後から注文が多いと言わないでください」
「使い道の分からない金なら文句も言うが、必要なものなら話は別だ。ただし、家具でも何でも高すぎれば値段は確かめるぞ」
「そこはやはり変わらないのですね」
「無駄に高い物を買わないのは、家の大きさとは関係ないからな」
翌朝、ウェッブからハロウデン所領を見学する許可が取れたとの連絡が届いた。
エドワードはアメリアにも同行してもらうことにした。将来そこへ本邸を置く可能性がある以上、夫婦で土地を見ておく必要があった。
◇ ◇ ◇
数日後。
エドワードとアメリアを乗せた馬車は、ハロウデン所領の中を進んでいた。
ロンドンを離れてから天候には恵まれ、街道沿いには新緑が広がっている。麦畑が風を受けて揺れ、馬車の窓を開けると、湿った土や草の匂いが入ってきた。
所領の境界を越えてからも、馬車は長い時間走り続けた。最初の村を抜け、畑の間を進み、林へ入る。そこを抜けると牧草地が広がり、その先にはまた別の村があった。
アメリアは窓の外を眺めながら、向かいに座るウェッブへ尋ねた。
「境界を越えてから随分走りましたが、この先もまだハロウデン所領なのですか?」
「かなり先まで続きます。今日は主要な村や農場を回るだけでも、相当な距離を移動することになります」
エドワードは窓の外へ目を向けた。
「数字では52,000エーカーと聞いていたが、実際に走ると広さがよく分かるな。朝からこれだけ進んでも、まだ売り物の中にいる」
「その広さが値段にも反映されております」
「そこは現地を見終わってから考える。広ければ高くて当然というだけでは、78万や80万ポンドを払う理由にはならない」
馬車は石造りの橋を渡った。
下を流れる川は幅があり、岸には柳や低木が茂っていた。少し先には水車があり、別の場所では石切り場で男たちが石を運んでいる。森林には太い樹木も多く残っていた。
ハロウデンは農地を寄せ集めただけの所領ではない。村と農場に加えて、川、森林、牧草地、採石場、水車まで含む1つの地域そのものだった。
昼前には、現在の本邸へ着いた。
石造りの大きな屋敷で、中央棟から左右へ建物が伸び、正面には広い芝地がある。背後には庭園と林が続き、グレイミア館より明らかに大きかった。
アメリアは馬車を降りると、しばらく建物を見上げていた。
「十分立派な屋敷ですね」
「暮らせない家ではなさそうだ。ただ、新しく伯爵家の本邸を持つとしたら、君はこの屋敷を使いたいと思うか?」
アメリアは正面の窓や石壁を見渡した。
「悪い家ではありませんし、暮らそうと思えば暮らせます。でも、自分たちの代から使う本邸を新しく造れるのなら、私は別の家を選びたいです」
「僕も同じだ」
ウェッブが屋敷を振り返った。
「この建物自体にも相当な価値がありますから、取り壊すのは惜しいでしょう」
「壊す必要はない。所領の管理に使ってもいいし、客を泊めることもできる。新しい本邸を造るからといって、使える屋敷まで捨てるつもりはない」
その後、3人は現在の管理人から所領の説明を受けた。
農場は70を超え、11の村のほかにも小規模な集落がある。地代の支払い状況、森林収入、石切り場、水車、牧草地の利用料なども帳簿にまとめられていた。
一方、道路や橋には修繕の必要な場所があり、農場建物にも古いものが少なくなかった。数年来、所有者側が大きな支出を控え、まとまった修繕を先送りしてきたためである。
エドワードは、それを理由に購入を諦めるつもりはなかった。どれほどの修繕費が必要になるのかを把握できれば、その金額を価格交渉へ反映できる。
午後には馬へ乗り換え、馬車では入りにくい場所も回った。
52,000エーカーの全域を1日で見ることなどできない。それでも、帳簿に書かれた数字だけだった土地が、どのような農地や森林、村から成り立っているのかは見えてきた。
高台の1つへ上がったところで、エドワードは馬を止めた。
眼下には牧草地と林が広がり、その向こうには川が見える。さらに遠くには村の家々が小さく並んでいた。南側は開けて遠くまで見渡せ、北側には林があって風を遮ることもできそうだった。
アメリアも隣で馬を止めた。
「新しい本邸を造るとしたら、この高台について君はどう思うのか?」
アメリアは周囲を見渡した。
「私は好きです。南側の眺めがよく、林も近いですし、下には川もあります。庭を造る余地も十分にありますね」
「僕もここがいいと思う。土地を買えたら、建築家にも見せよう」
「もう頭の中では家まで建っていますね」
「欲しい土地だからこそ、買った後の使い道まで考えている。ただし、こちらが欲しがっていると売主に知られれば、値段は下がらない」
「そこだけは忘れないのですね」
「80万ポンド近い取引だからな」
エドワードはもう一度高台を見渡してから馬の向きを変えた。
この場所に本邸を建てる姿は、すでにかなり具体的に思い描けるようになっていた。
◇ ◇ ◇
ロンドンへ戻ると、ウェッブは所領の書類をさらに詳しく調べた。
6月8日。
事務所の机には、所領の収入に加え、修繕を必要とする道路や農場建物、地代の滞納状況、現在の所有者が抱える債務について分かる範囲の資料が並んでいた。
「調べた範囲で、購入を見送るほどの問題はあったか?」
エドワードが尋ねると、ウェッブは首を横に振った。
「土地そのものに致命的な問題は見つかっておりません。ただし、道路や橋、農場建物の修繕にはかなりの費用が必要です。あとは、それを含めていくらで買うかでしょう」
「売主の希望額は78万ポンドだったな。こちらからは70万ポンドで出そう」
「最初から8万ポンド下げることになりますが、理由は十分あります。修繕費と現金一括払いを材料に交渉してみます」
「頼む。向こうはまとまった現金を急いでいる。一括で支払える買い手が簡単に見つかるとは思えない」
ウェッブは先方へ70万ポンドを提示した。
翌日、75万ポンドなら売却するとの返事が届いた。
エドワードは書面を読んだ後、少し考えてから言った。
「こちらの最終提示は72万ポンドにする。必要な証書を整え、土地に残る抵当や権利関係を先方が整理した段階で、全額を現金で支払う。銀行から借りる必要もないから、資金調達を理由に待たせることもない」
「先方が73万ポンドまで譲歩してきた場合でも、72万ポンドを上限にされますか?」
「そうする。1万ポンドだからと簡単に上乗せしていたら、交渉した意味がない。72万ポンドなら、土地を受け取った後の修繕費を考えても納得できる」
「承知しました。その条件で最終回答を求めます」
ほかにもハロウデン所領へ関心を示している貴族はいたが、その多くは所有地を担保に借金をするか、一部の資産を処分して購入資金を作る必要があった。
72万ポンドを一括で支払えるエドワードは事情が違う。売主側も資金を急いでおり、さらに高い買い手を求めて何か月も待つより、確実に72万ポンドを受け取る利点は大きかった。
6月10日の午後、先方から条件を受け入れるとの返事が届いた。
ウェッブは書面をエドワードへ渡した。
「72万ポンドで合意しました。今後は証書と債務関係を整理し、正式な引き渡しへ進みます」
エドワードは文面を最初から最後まで読み直した。
「思ったより早く決まったな。もう少し粘ると思っていた」
「売る側にも事情があります。こちらは支払いを確実に実行できますから、その差は大きかったのでしょう」
「正式に支払うのは、先方の権利関係が全部片付いてからだな」
「そのとおりです。こちらでは72万ポンドをいつでも支払えるよう準備しておきます」
エドワードは書面を机へ戻した。
72万ポンドという巨額の取引になっても、エドワードのやり方は変わらなかった。金を払う前に権利関係を確かめ、値段に見合うものを受け取ることを重視していた。
「アメリアにも知らせてくる。72万ポンドで購入することになったと伝えれば、次は家の話を始められる」
ウェッブはすでに覚悟していたらしい。
「土地の契約が終わる前から、新しい支出の話ですか」
「そのために土地を見に行ったんだ。高台も決めてきた」
「では、今度は建築家の帳簿まで私が見ることになりそうですな」
「そこは頼りにしている」
エドワードは書類を残して事務所を出た。
ハロウデン所領の購入条件は、これで固まった。次は、その土地を伯爵家の本拠地として使うための計画を具体化することになる。




